第八章 金魚繚乱⑥

 ここ数日で私の周りの環境は目まぐるしく変わっている。突然降り出した豪雨の中、弾む会話を申し訳程度に聞き流す。国語科準備室の中、ノイズのように話し声に混ざる雨音が妙に心地よかった。帰りたくても帰れない。先ほど放送で止められたのもあるが、鞄の中の本を濡らしたくないので帰らないことを選択した。目の前で花のような言葉をかざす彼女たちの声に意識を傾ける。いつの間に仲良くなったのか、彼女たちはお互いのことを名前で呼び合うようになっていた。夜永さんが告白してくれた日から、私たちの関係にさほど変化はない。変に気まずくなることもなければ、変に意識することもない。ただただ平和に穏やかな日々が悠々と流れていた。


 今日のこの豪雨のように、突然起きた天変地異。それは彼だった。彼には少し前にも告白されたことがあった。私は薄情にもそこで終わらせたつもりになっていた。実際はそんなことなんてなかったのに。私の中では終わっていても彼の中では何一つ終わってはいなかった。それに気が付いたのは体育祭の借り物競争。しかし気付いていたのに気付かぬふりをした。もう何も起こらないと安心しきっていたら、今日予期せぬ事態が起きてしまった。「和香ちゃんもこれ食べな~」と莉子ちゃんが差し出してくれたチョコレートを受け取りながら、頭の中でぐるぐると彼に言われたことについて考えてしまう。


「莉子ちゃん」

「ん?」

「私って残酷ですか?」

「んん?」


 私の質問に混乱しながらも彼女はチョコレートを頬張ることをやめない。いつもの長机の向かい側でパイプ椅子の背もたれに思いっきり体重をかけている。怪しく金属が軋む音が響いて、彼女は後ろへ倒れそうになった。それを彼女の隣に座っていた夜永さんが支えて事なきを得る。体勢を立て直したものの怯えて表情を固めた莉子ちゃんは、しばらく肩で息をしたがやはりチョコレートを頬張る手だけは止めなかった。「誰に言われたのそんなこと?」という莉子ちゃんからの問いかけに、私ではなく夜永さんが「白峰君かな」と答えた。黙ったままの私の態度からそれが正解であることを受け取り、彼女は瞳の中の夜空を溶かして笑った。


「和香ちゃん白峰に何かしたの?」

「…私なりに誠心誠意答えた結果というか、私にしてはしっかし結論を述べた結果というか」

「ん~、だいたい察した」


 「春だねぇ」と適当な相槌を打った莉子ちゃんにすかさず夜永さんが「今は秋だよ」と返す。私もとりあえず「もう少しで冬ですね」と続いておいた。どうやらお気に召したらしく、莉子ちゃんはその後しばらく肩を震わせて笑っていた。しばらくして落ち着いた彼女は頬杖をついて曇天を眺める。つられて窓の外へ視線を飛ばせば、先程まで咲き誇っていた金木犀が無慈悲にその花を雨に撃ち落とされている。視界の中で舞う橙が虚ろな意識の中で焼き付いて離れない。「白峰もさ、見つけられたらいいよね」と彼女は笑う。いつもの溌溂とした笑みではなく、その名にふさわしい桜のような儚く大人びた笑顔で。夜永さんと視線を交わして、二人で声を揃えて落とす一言。


「恋の代替え案」


 復一みたいに、ということだろう。金魚繚乱の真佐子もそれなりに残酷な女なのだろう。私がそれを言うのは白峰君に怒られてしまう気がする。莉子ちゃんは空になった業務用のチョコレートの袋を丸めて捨てて、更に鞄の中から購買で売っている安価なクッキーを取り出す。次々と出てくるお菓子に驚く。袋を開けるのと同時になった放送が、帰ってよしと許可を出した。残念そうに眉を下げる彼女に、夜永さんがせっかっくだからと食べてから帰ることを提案する。その提案に乗りつつ雨脚が気になり窓の外を覗く。弱まったといってもまだ強い。もうしばらくは帰らなくていいだろう。

 

「和香ちゃん」


 呼ばれて莉子ちゃんの方を向く。しかし彼女は不思議そうにこちらを見つめ返すだけだ。私の名前を呼んだ正体を追って夜永さんの方を向くと、なんとも照れ臭そうに笑っていた。「何ですか望結ちゃん」と返せば、瞳の夜空に星が瞬いた。そんな私たちのやりとりを、莉子ちゃんは微笑ましそうに見守っている。


「私ね、白峰君の気持ち少しわかる」

「…はい」

「でも和香ちゃんはそのままでいいと思うの」


 そう言ってくれた彼女の隣で莉子ちゃんも頷いてくれている。「私、今の和香ちゃん好きだよ」と莉子ちゃんは笑ってくれる。「最初からずっと好きだけどね」と続けて。そう言ってくれることは嬉しいけれど、自分にそれほどの価値があるとは思えなかった。望結ちゃんも白峰君も私に恋をしてくれて、莉子ちゃんも私に友愛を向けてくれるけど、どうしても私は自分自身に価値が見出せない。だから思ってしまう。絶対に答えられないから、自分の変わるを探してほしいと。それがどんなに残酷なことでも、せっかく出来た友人を手放したくないと思ってしまう。雨音に耳を傾けながらつまんだクッキーは、凄く甘くて酷く喉が渇いた。

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