第八章 金魚繚乱⑤

 放課後の昇降口。昼頃まで群青色だった空からいきなり豪雨が降ってきた。こういうのを白驟雨というらしい。スマホで雨の名前を調べて一人で感傷的になる。いや、正確には一人ではない。床と外の境目。低すぎる段差に腰かける俺の隣には、長い足を持て余しながら膝を抱える風虎がいる。俺もそれなりに足を持て余しているので、距離感的には人一人分ほど空いている。なぜこんなところでこんな状況になっているのかというと、帰ろうとしたらちょうど雨が降り始めて足止めを食らったからである。もちろん走るなりなんなりして強行突破することは出来るのだが、先程校内放送で「豪雨で危ないから弱まるまで帰るな」と言われてしまった。それすらも聞かずに風虎と帰ろうとしたのだが見回りに来た中じぃに止められた。女子たちは国語科準備室でのんびりしているらしいが、靴を履き替えてしまった手前ここから動くことすら面倒になってしまった。


 バイト先への遅刻の連絡を済ませてからスマホの画面を暗くする。黒い画面に映る自分の顔は残念なほどに覇気がない。しかし隣に座る彼の顔面の方が五割り増しくらいで覇気がない。中庭の金木犀は恐らくこの雨で散ってしまうだろうか。彼に何かあったとしたら今日の昼休みだろう。俺にパンを押し付けて彼が誰を追いかけていたかなんて、長い付き合いで聞かなくても分かった。恐らく彼女と何かあったのだろうが、それを確かめるための言葉を選んでは決めあぐねている。俺はどうにも恋バナをしようとすると誰かの地雷を踏んでしまう。


「なんか聞けよ」


 どこまで横暴なのだろうかこの虎は。いつもは地雷を踏むと毛を逆立てて怒るくせに。なおも顔を上げず床の一点を見つめている彼に、「何があったんですか?」と聞いてあげる。聞いてあげたのにこの虎は一向に答えようとしない。何なんだこの虎は。皮剝ぐぞ。雨音だけが響く空間が大変気まずい。激しい雨音の中にあるわずかな静寂を狙ってやっと落とされた答えは爆弾だった。


「振られた」


 前にも振られてなかったっけ?と思ったが、恐らくこの場でそれを言ってはいけないのだろう。「そっか」と空っぽな相槌を打って、その後どう会話を展開したらいいか分からなくなった。だって俺は彼の好きな人が誰なのかも知っているし、彼と同じ人を好きな彼女のことも知っている。でも確証をもって言えることは、きっとまだあの人は誰のものにもなっていないのだろうなということ。そしてこの男は未だ何一つ、この恋を諦めてはいないだろうこと。顔を上げた彼は苦しそうに言う。「あの女酷いんだ」と。でもその声色は優しさとか愛しさとか、いろんな感情がこもっていて温かかった。冷たい雨とその声色との温度差の中で風邪をひきそうだ。


 彼女はどうやら彼に「友達でいて」と返してらしい。嫌いだけど、好きになることはないけど、友達でいてほしいと。その言葉は今まで聞いたどんな言葉よりも強く重い、呪いの言葉に聞こえた。事実その言葉は白峰風虎という人間にとって呪いの言葉で、きっとこの先この男は彼女以外に恋をすることはないのだろうと思った。今思い返してみると、彼女はまぁまぁずっと残酷だったように思う。人の一番柔らかい所に爪を立てるくせに、こちらが爪を立てられたことを自覚する前にサラッと身を引くような人だった。だから気付かないうちに俺たちはボロボロになっているけれど、それでも彼女と一緒にいるのは、彼女の傍が心地いいからだ。その時言ってほしい言葉をくれて、こちらが見てほしくないと思う部分に干渉してくることもない。たまに不躾に投げ込まれる言葉はあれど、その正しさの前に俺たちは丸め込まれてしまう。たぶん彼女のような女に人は、好きにならない方が幸せな女なのだと思う。おもむろに風虎が取り出したのは、しおれかけている一枚の金木犀。俺にとってはただの花だけど彼にとってはそうじゃない。心底大切そうにハンカチに包み直してまたポケットの中へしまった。その一連の行動は端から見れば女々しく見えるものだが、それを指摘するのもなんだか違う気がした。


「風虎って一生幸せになれなそうだよな」

「…腹立つけど俺もそう思うから何も言えねぇや」


 弱まった雨に校内放送が響く。帰宅してよしと許可が出た。立ち上がって外へ向かう。弱々しくふらつきながら彼もついてきた。 勢いが弱かったとはいえまだ雨脚は強い。走り出すかと身構えた時、後ろから固いもので後頭部を叩かれた。振り返ると差し出されているのは折り畳み傘。「え」と平仮名一つでその傘を受け取った。彼は俺に傘を押し付けて黙って雨の中を歩き出した。名前を呼んで声をかけるも、途中から走り出されてしまっては追いつけない。追いかけようと数歩進めばとたんに雨に濡れる。どんどんぼやけていく視界の中で段々と濡れて遠ざかり、小さくなっていく背中は抱え込んだ熱を逃がそうと必死になっているように見えた。一生かけても逃がせない熱に身を焦がすであろうこの男を、俺はどうしての哀れだとは思えなかった。

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