第八章 金魚繚乱④
クラスの女子が金木犀の花に色めきだっていた。そんなにいいものかと顔を顰めて見上げる空。秋晴れの群青が覆う視界の中ちらつく橙が鬱陶しい。その色も香りでさえも、いいものだとは思えなかった。今まではそれで終わっていたのに、最近考えるようになった。彼女はどう思うのだろうと。クラスの女子のように高い声を響かせて喜ぶ姿は想像できない。彼女は常に俺の想像の斜め上を行くから、ふと気になっただけで、別に常に彼女のことを考えている訳じゃない。窓際の一番前というハズレだかアタリだかわからない自分の席から眺める空は窮屈で、それを自分から実感しに行っているこの状況が馬鹿馬鹿しくなってふと廊下へ視線を向けた。見覚えのある黒髪が通り過ぎる。反射で追いかけた昼休み。
「海璃、これやるよ」
「マジ?いいの?」
せっかく購買で買ってきたパンを海璃に押し付けて追いかけた背中は、少し心配になるほど華奢だった。彼女を追いかけてやってきたのは中庭を一望できる渡り廊下。普段多くの学生が行き交うその場所は昼休みということもあり、かなり人通りが減っていた。てっきりいつも通り国語科準備室へ向かうものだと思っていた。立ち止まった彼女の隣へ何も言わずに並んで立つ。彼女はこちらを一瞥したが、何も言わずに中庭へ視線を飛ばす。その視線の先には金木犀があった。彼女の純黒の瞳の中に散らばる金木犀は、何故だか先ほどまで見ていたものとは違って美しく思えた。
「白峰君はこっちに何か用だったんですか?」
「いや、特になんもない」
「…貴方ってたまによくわからないことしますよね」
「お前に言われたくはねぇよ」
風が金木犀の香りを纏う。教室という箱から出た今、隔てるものなど特になくかなり直接的にそれが届いてきた。この花を好きなのか否か、問いかければ「特にそんなことはない」という冷たい答え。ただ別に嫌いでもないと。ただこの花の匂い袋を中じぃが持っていたのを思い出していたらしい。奥さんに貰ったものなのだと彼女に自慢して聞かせたそうだ。「でも色は好きです」と花から目を逸らすことなく笑う。どうやらオレンジ色が好きらしい。理由は太宰治の「人間失格」。その初版本の表紙の色だから。なんとも彼女らしい理由に笑ってしまった。
ひときわ強い風が吹いて、俺の前髪も彼女の後ろ髪も全部を持って行った。代わりに大量の金木犀の花が彼女の黒曜石を砕いて染め上げたような絹糸の髪に散らばった。手櫛で髪を整えながら一つ一つそれを取り除いていく、目の前で繰り広げられるあまりにも終わりの見えない作業に呆れて笑いつつ彼女の髪へ手を伸ばした。柔らかい髪を梳きながら小さな花々を回収する。無抵抗にされるがままだった彼女は、少し背伸びして俺の髪へ手を伸ばす。それを彼女と同じように無抵抗で受け入れれば、「とれました」と俺の掌に橙か降り注ぐ。彼女の黒い瞳に舞うのは美しく咲き誇る中庭の金木犀ではなく、俺の掌にある彼女が摘み取った金木犀。
「好きだ」
零れ落ちた言葉が何処にも逃げないように、無意味に降り積もった金木犀を手の中に握りこんだ。彼女の表情なんて見なくても分かる。きっとまた困らせている。しかし彼女から零れ落ちた言葉は以外にも柔らかく冷静で、そして強かに残酷だった。
「私は嫌いです」
その言葉を受け取るのは二回目だった。しかし一回目よりも苦しさはなかった。慣れって怖いなと思った。「知ってる」と笑って顔を上げれば、今まで見たことがない表情をした彼女がいた。確かに困っているのだが嫌がっている様子はなく、むしろ目じりは柔らかく下がっていた。困り顔と笑顔の中間と言ったところだろうか。「お前そんな顔出来たのかよ」とまた笑ってしまった。しばらく静かな渡り廊下に俺の笑い声だけが響いていたが、しばらくして彼女は頼んでもないのに自ら表情の理由を白状し始めた。まるで幼い子供が親に叱られるときに言い訳をするように、こちらの様子をおずおずと伺いながら。
「白峰君のこと好きになることは今後ないと思います。嫌いじゃなくなることはあるとは思いますが…。でも、私、白峰君とは友達でいたいんです」
「お前、自分がどんだけ残酷なこと言ってるか分かってる?」
彼女は猫のように瞳を大きくして固まる。手の中でぬるくなり始めた金木犀を解放した。すぐに風にさらわれて消えていった中で、それでも手の中に残った一枚の花をズボンのポケットにそっとしまった。しばらく固まっていた彼女に追い打ちをかけるように言った。「中途半端に傍に置いておかないでくれ」「嫌いなら切り離してくれ」と。俺の制服の袖を申し訳なさげにつまんで、彼女は蚊の鳴く声で言った。「ごめんなさい」と一言だけ。意地悪し過ぎたなと反省して、いつもより近い位置にある彼女の後頭部をそのまま腕の中に抱え込んだ。「いいよ今更」と「困らせてごめん」と言えば、彼女は数回首を振ってそれでも顔を上げなかった。
「嫌いでも中途半端でもいいから、可能な限りお前の傍に居させてくれ」
俺の縋りつくような願望は昼休み終了のチャイムと重なって消えた。彼女に届いたかどうかは分からないが、このたった一時間で俺はたぶん一生彼女を諦められないであろうことと、この先まだもう少しは傍に置いておいてもらえるであろうことを確信した。腕をどかして彼女を解放する。最後に彼女が自分の肩から逃がした花の行く末から目を離すことが出来なかった。
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