第七章 いちご姫①

「ファム・ファタールは実在するのか?」


以前先生とそんな話をしたことがある。ファム・ファタールとは、フランス語で「宿命の女性」を表す言葉だ。つまりは男を魅了する美貌の持ち主、魔性の女、悪女。などなど様々な言い回しをすることができる。先生は笑う。「俺が一番しっくりくるのは…」と前置きを置いて。


「恋心を寄せた男を破滅させるため、まるで運命が送り届けたような魅了をそなえた女、だ」


西日に照らされた教室で、その言葉の羅列はあまりにも非現実的だった。だから覚えていたのだろう。そして今思い出したのだろう。秋晴れがカーテンの隙間から覗く朝。体育祭前最後の休日。ベッドから這い出るようにして本棚へ向かう。ファム・ファタールは十九世紀のデカダンスから生まれたものだ。主に象徴主義・幻想主義のモチーフとして扱われていることが多い。文学世界で代表的なのは「サロメ」と「カルメン」だろう。愛する男の首を王にねだった娘と、数多の男達を咽び泣くせた女。一人の男に縋り寄り添うのに、どこか自立している女達。魅了するだけ魅了して、要らなくなったらすぐ捨てるような女達だ。

私が先生からその話を聞いた時、真っ先に思い浮かんだ女がいる。谷崎潤一郎の『痴人の愛』、そこに登場する「ナオミ」だ。幼少期からナオミを理想的な妻にしようと主人公の譲治は彼女を育てていくが、次第にナオミの類いまれなる魅力に溺れていく。女性ではなく少女の頃からその魅力を発揮するナオミは、恐らく生まれながらのファム・ファタール。本棚に並ぶ本の背表紙を指先で撫でていく。『痴人の愛』を見つけて引き抜こうとした。引き抜こうとして動きを止める。その隣にある本が目に止まったからだ。私は迷わずその本を引き抜いた。


「山田美妙『いちご姫』」


ファム・ファタールについての先生とのやり取りには続きがある。その日は中間テストが終わって莉子ちゃんとの諸々が終わり、そしてちょうど帆澄君に出会った頃だったか。人と関わり始めた頃の話だ。いつものように国語科準備室に集まっていつものように本の話をしていた。どういう流れだったかは忘れたが、冒頭の話題がいつの間にか主軸になっていた。先生は終始笑顔だった。それはいつもの事だったのだが…。初夏の湿った空気の中、その笑顔もまた湿度を持って記憶に焼き付いた。まるで全部見通すかのような、そしてこれからに心底期待するかのような瞳。そんな表情で先生は言った。「お前も大概だけどな」と。その言葉の真意が分からないまま、分からないなりに聞いても答えてもらえないまま今日まで来た。やはりまだ、人と会話するのは難しい。

山田美妙の『いちご姫』は、一八九二年二月に金港堂から出版された。作者が二十四歳の時の作品である。可愛らしい題名に誘われて小学生だった私は、母にねだってこの本を買ってもらった。挙句の果て夏休みの読書感想文の課題をこの本で仕上げた。後にその本の内容と私の感想文の内容が職員室で物議を醸し、私は母と一緒に担任に呼び出される結果になった。今となっては笑って話せる思い出話だが、当時私は母からしばらく読書を禁止された。この本も中学生へ上がるタイミングまで没収されていた。

時代背景は、室町時代の晩期。いちご姫は、落ちぶれ貴族の美貌の娘だ。将軍足利義政の側室に望まれたことから、彼女の転落の人生が始まっていく。いちご姫は、頭も良く、行動的だが、淫乱である。ふたりの男を同時に手玉にとったり、四人の野武士を侍らせたり。彼女に関わった男は、凄惨な死を遂げる。その点で言うと、彼女はファム・ファタールだと言えるだろう。

他のファム・ファタールと違う点があるとするなら、彼女は彼女自身もを破滅させてしまう。最後の終わり方なんて目も当てられないほど悲惨だ。当時読書感想文を活き活きと書き上げた小学生の私は、この終わり方について「妥当」、「こうなって然るべき」と結論付けていた。色々とあの頃の感性が失われた今となっては、この結末こそ彼女にふさわしく自身もを滅ぼす奔放さに魅力すら感じる。

明日学校へ行ったら先生とこの話をしてみようと、読み返すべくページを開いた。家の近所の公園では何処ぞの幼稚園だか保育園が運動会をしているらしい。空鉄砲が秋空に響いて消える。窓の外から受け取るその音をBGMに読む手を進めた。本を読んでいて頭の片隅にあるのは体育祭。学校行事など今まで読書をしている間頭に浮かんだことは無かったのだが、今浮かんでしまうのは少なからず楽しみにしている私がいるからだろう。自分にしては真面目に競技選びに参加した。まぁ、参加するのは最初の徒競走一つだけなのだが。それでも自分なりに楽しもうという意思はあった。莉子ちゃんと「楽しみだね」と笑いあったのが記憶に新しい。

そんなことを考えつつ読み終わった本を閉じる。ブックカバーをつけて通学鞄へ潜り込ませた。下の階にあるリビングから若干テレビの音が漏れて聞こえる。いつの間にか昼のバラエティ番組が放送される時間になっていたらしい。ずっと本棚の前で立ち読みしていた体を伸ばして、部屋を出るべく歩き出す。フローリングから素足を伝わってくる冷たさに、段々と秋が深まっているのを感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る