第五章  銀河鉄道の夜④

その後は一日目だということもあり、先生によって自由時間が言い渡された。広間の壁一面の本棚を眺めて回る。大衆文学から専門書まで、幅広いジャンルのものが揃っていた。気になった本にとりあえず手を伸ばし、その場でページを開く。斜め読みしたり深く読んだり、すぐに読むのをやめてみたり、そんなことを繰り返しながら広間にいるのは私だけ。男子二人は庭にサッカーをしにでていて、莉子ちゃんは部屋で派手なお友達と通話している。夜永さんはというと、あの後私が貸した『銀河鉄道の夜』を温室で読んでいるみたいだ。彼女がジョバンニとカムパネルラの結末をどう受け取るのか、とても気になるところである。


広間を歩き回っていた私の隣に、いつの間にか先生が並んで歩く。本棚の中から一冊を抜き取って無言で私に渡してきた。反射で受け取ってしまった本の名前は『智恵子抄』。高村光太郎の作品だ。高村光太郎夫婦の話だったような気がする。私たち以外誰もいない今、先生にずっと疑問に思っていたことを問いかけてみる。


「先生は、何故夜永さんを気にかけているんですか?」


私が知っている中嶋先生は、はっきり言って「いいひと」では無い。極めて独善的な部類の人間であると思う。自分の面白いと思った者、人を傍において、自分がいいように楽しむような、そんな人だと思っている。こんな私に興味を持ったのも面白そうだったからだと言っていた。今回の夜永さんも先生の何らかの「面白い」に触れたのかもしれない。でもなんだか、そうではないような気がしてならなかった。


「妻がもう長くない」


あまりにも予想外の、されど衝撃的な事実が飛び出した。『智恵子抄』に向けていた視線を、勢いよく先生へと向けた。そんな私にお構い無しで先生は続ける。今年の冬は越えられないのだと。なんで今このタイミングで、なぜ私に、なんて言葉になる前に、音になってしまう前に、疑問の数々は溶けていった。先生は本棚に額をつけて寄りかかり、愛おしそうに本の背表紙を撫でながら言った。


「俺も、目を逸らしたいんだよ」


「悪い大人だろ」とニヤッと笑った先生と、やっと目が合った。悲しそうに笑う姿は痛々しくて、思わず目を逸らして『智恵子抄』と睨めっこした。先生が今回彼女を気にかけているのは、「面白い」というような前向きな理由などではなく、「同情」だと教えてくれた。自分よりも酷い状態の誰かを傍において正気を保っていたいと。「酷いだろ」と笑う。酷いのかもしれない。きっと話を聞いたのが莉子ちゃんや、白峰君だったらそう罵ったと思う。

私が作った沈黙の長さを物語るように、天窓から覗く雲の影が流れていく。私の顔に影を作った後に、先生の顔に影を落とした。ここでちゃんと罵ってあげられない私は、まだ「人間」になれていないのだろうか。


「そもそも、おかしいと思ってることがあって」


語り始めようとする私に先生は体ごと視線を向ける。本棚の隙間に『智恵子抄』を戻してから、私も体ごと先生の方を向いた。いつもの笑顔だ。私の話を聞いてくれる笑顔。メガネの奥の小さな目だけが、まだ悲しみを帯びている気がした。天窓の向こうでは雲が晴れて、また太陽がお目見えした。それに比例するように広間も明るさを増す。


「なんで、死を受け入れないといけないのかなって思うんです。誰かの死であれ、自分の死であれ。絶対に受け入れなくちゃいけないものなのかなと。確かに確実にやってくるものではあるけれど、それから目を逸らしてはいけないなんてルールはないと思うんです」


夜永さんを見ていて、今の先生の話を聞いてずっと思っていたことだった。「死」というものが何で、どういう状況のことを言うかなんてまだ私には分からない。分かるのは私が死ぬ時だ。物語の中のように死後の世界があるかなんてことも、今生きている私達には知る術なんてない。漠然と存在している「死」というものに対して、恐怖を抱いてしまうことの何がいけないのか。嫌なら嫌と言えばいい。知りたくないなら目を逸らせばいい。怖いなら逃げたっていい。そういうものじゃないのか。そういうものであるべきものでは無いかと、考えずにはいられなかった。


そう語った私に先生が何かを言いかけた時、広間の扉がノックされた。「どうぞ」と先生が声をかければ、『銀河鉄道の夜』を持った夜永さんがいた。どこから聞かれていたのだろうか。分厚い扉越しであっても聞こえてしまっていたかもしれない。直接的に朝日奈さんについて話題を出していた訳では無いが、言いようのない焦りが背中にびっしょりと汗をかかせた。彼女はおずおずと控えめな笑みで近付いてくる。その笑顔がむしろ怖い。


「ありがとう、面白かった」


差し出された『銀河鉄道の夜』を受け取り、彼女の星空のような瞳を覗き込む。どうやら私の心配と焦りは杞憂に終わったようだ。先生は「あとはお若いおふたりで」という的はずれなことを残して広間から出ていった。おそらく書斎へ向かったのだろう。沈黙に耐えられなくなった私は「…どうでしたか?」と感想を求めてみた。完全に興味本位で好奇心で最低だ。彼女は少し考える素振りを見せてから呟くように言った。


「ジョバンニは帰ったあと、どうしたのかな?」


彼女の瞳から光が消えた気がした。ジョバンニは博士からカムパネルラの死と、自分の父が帰ってくることを知らされる。しばらくは呆然としていたけれど、その後母に父の帰宅を知らせるために家へ帰る。きっと帰ったあとはいつも通りの日を過ごしたはずだ。母と二人で夕食を食べて眠ったに違いない。父の帰宅を喜ぶ母だけが唯一の非日常だったはずだ。それをそのまま口にすれば、彼女は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ泣きそうに顔を歪ませて、でもまた控えめな笑顔を浮かべて言った。


「そうだよね。自分にとって大切な人が死んでしまっても、世界は案外変わらないもんね」


識っている人の言葉だった。思わず固まる私に彼女は追い打ちをかけるように、悪意なく笑顔で言った。「星野さんと友達になれて嬉しい。凛が戻ってきたら三人で仲良くしたいな」と。だから今は二人で…というニュアンスを含んでいた。私はなんだか自分自身が、「朝日奈凛」の代わりに据え置かれる様な気がした。でもその時はそれを指摘出来ず、彼女が語る朝日奈凛の話をただただ何を言うでもなく聞いていた。


天窓から覗く太陽が金色から茜色に着替え、涼しい風が窓から入ってくる。止まることなく朝日奈凛について語っていた彼女は、今私の肩に体を預けて眠っている。広間の隅に追いやられていた二人がけのソファー。少しの埃臭さと素材であろう木材の匂いを纏って、私達を柔らかく包んでいる。そんな私達へお茶を持ってきてくれた帆澄君は、ひとりがけソファーとローテーブルを一組持ってきて私の目の前に配置して座った。起こさないように視線だけで「大丈夫か」と聞いてくる。正直言うと大丈夫では無い。起こさないように小声で、帆澄君に少し相談してみることにした。


「…私は、朝日奈さんの代わりになってあげられません。だからと言って、夜永さんに朝日奈さんの死を突きつけるようなことはしたくないんです。それを受け入れていくのは、少しづつでいいと思っているので」

「誰だって誰かの代わりは出来ないだろ。その人はその人しかいなんだから。当たり前のことだけど。誰かに誰かの代わりを押し付けて満足しても、後々虚しくなってくるだけだろうし。夜永さんだって、受け入れられないだけで識ってはいると思うから…」


上手く言葉がまとまらなかったらしく、ごめんと一言謝て話を締める彼。それに大丈夫ですよと礼を返して、彼が持ってきてくれたお茶に口をつけた。その後は「有休取れて良かった」だの、「最近はこの本が面白い」だの、世間話のような中身のないものを繰り広げた。夜永さんが目を覚まし、私達がお茶を飲みきる頃には夕飯時になっており、ほか二人と先生が呼びに来た。


入浴を済ませて部屋に戻ってきた頃にはもう夜は深くなっていて、何かと恋バナをしたがる莉子ちゃんをあしらってベッドへ潜った。自分では分からなかったがそうとう疲れていたみたいで、目を閉じたらスっとスムーズに夢の中へと旅立つ事が出来た。ふと喉の乾きを覚えて目を覚ました。時刻は4時。空はまだ暗い。隣のベッドから落ちて床に転がっている莉子ちゃんを避けつつ扉をめざしていると、ふと夜永さんのベッドへ視線を向けた。彼女はいなかった。彼女も起きてしまったのだろうかと台所へ行ってみるが、そこに彼女の姿はない。水を一杯頂いてから、トイレを見に行ってみた。やはりいない。広間も覗いてみる。やはりいない。少し焦り始めて覚醒する意識。夜中に騒ぎを起こすのは如何なものかと思い、サンダルをつっかえながら庭に出る。彼女はいた。夜空を見上げて泣いている。声をかけようと近づけば、彼女は静かに振り返る。喚くでも、叫ぶでもなく、ただ静かに涙を流していた。


「…識ってるよ」


何を、なんて聞かなくてもわかった。胸が締め付けられる。背中に汗が滲む。私が一歩近づけば、彼女は比例して一歩下がる。夏の夜の肌寒い風に揺れて、庭の木々が音を立てた。その音のざわめきは今の私の心のようで、自分が酷く動揺していることに打ちひしがれる。名前を呼んでもう一歩近づけば、何かが切れたように彼女は声を上げた。


「識ってるんだよ!分かってるの!!もう居ないって、もう会えないって…。でも、だからって、諦められるわけないじゃない!大好きなんだもん!生きてて欲しかったんだもん!!明日の約束もしてたのに、また明日ってバイバイしたのにさ!!」


彼女はあの時起きていたのだろう。私と帆澄君の話を聞いていたのだ。「なんで凛なの…」と、その一言を合図に蹲る。自分の行動の浅はかさが悔やまれる。悔いたところでもう遅い。彼女はこの一年。この声を上げ続けていたのかもしれない。目をそらす振りをしてずっと、悲鳴のような嘆きを抱えていたのかもしれない。丸まって震える背中は、未だにもう帰らぬ友を呼ぶ。縋るように呼んでいる。その声を聞きつけて、先生と帆澄君。白峰君が玄関先へ駆けつけてきた。莉子ちゃんも窓から様子を窺っている。芝生の地面に膝をついて、彼女の目の前に座った。恐る恐る顔をあげる彼女の手を取って、その瞳を覗き込む。


「…目を逸らしていいと思うんです」


私の言葉に彼女の夜空は大きく広く、深くなる。その変化を見守りつつ、また話を続けた。彼女には伝えたいことが山ほどあったから。今全て伝えてしまおうと思った。両手で掴んだ彼女の手は酷く冷たく震えている。一人で悲しみを背負い続けた、その代償であるような気がした。背後で誰か息を飲む音が聞こえた気がした。


「私はずっとジョバンニのその後が気になっていました。ジョバンニは本当に一晩で親友の死を受け止めきって、皆のために生きようなんて、本当に思えたのかなって…」


早朝の冷たい空気を肺に取り込んで、できるだけ声を響かせた。宮沢賢治が描いた結末は美しい。あまりにも美しすぎた。本の中の登場人物達はいつだって私の理想。読者の理想だ。理想は所詮理想に過ぎず、現実とは違う。現実ではそんなに美しく物事は運ばない。この数ヶ月で私は、痛いほどそれがわかった。わかってしまった。だからこそ言う。彼女に。


「誰だって「死」は怖いものだと思います。来ると明確にわかっている人でさえも怖いとこぼすのに、いきなりそれが目の前に現れた人が受け入れるわけがないじゃないですか。無理に突きつけてしまってごめんなさい。でも覚えて欲しいんです」


空が青から紫色へ変わる。星が消えていく。


「銀河鉄道の夜にも朝が来ます。ジョバンニが、朝目を覚まして親友が消えた世界で、それでもみっともなく親友を探して走り回るような。泣いて名前を呼ぶような。そんな朝が来たっていい、そんな朝を望んだっていい。そんな朝があってもいいって、私は思うんです」


朝が来る。平等で残酷で、憂鬱で、けれど美しく、眩しく儚い朝が来る。ほかの大人が彼女へ向ける視線、周りの子達が語る彼女の人物像に少しズレを感じていた。その理由がやっとわかった。私はきっと、彼女を肯定してあげたかった。この「逃避」は見ている人たちにとって不快だったかもしれない、でも確かに彼女が今まで大事に守ってきた、彼女の心そのものだ。大声で泣く彼女が私の腰へ抱きつく。回された腕の力が強くて痛い。自然の中、昇る朝日の中。友を想う泣き声が途絶えるまで、ずっと空を眺めていた。


私と泣き疲れた夜永さんはその後昼まで眠ってしまっていて、次に目を覚ましたのは正午も過ぎていた。暑さと喉の乾きでまた目を覚ます。飛び起きたに近い私に夜永さんが自分のベッドからおはようと声をかける。向かいのベッドで儚く笑う彼女の目元は痛々しく腫れていた。


「…ありがとう」


お礼の言葉を素直に受け取れなかった。元はと言えば私の軽薄さが招いたことだったから。彼女は私のそんな内心を見透かすように、「あのままじゃ私、苦しいだけだったから」と静かに零す。「分かってるし、識ってるし、受け入れようとしてるから、だから待ってて欲しいの」と、彼女は誰に聞かせるでもなく呟いた。それが分かったから、私は何も言わなかった。


「でもやっぱりこのままじゃダメだよね」


顔を上げた彼女の表情は今まで見たどの表情よりも晴れやかで清々しい。あぁ、朝が来たのだなと思った。


「凛に怒られちゃう」


ぎこちなく明るく笑って見せた彼女の行く末が、これからは明るいものであるようにと願わずにはいられない。起きてきた私に先生は一言、今までで一番優しい声で「ありがとう」と告げた。そして乱暴に頭を撫でる。莉子ちゃんにも抱きしめられ、男子二人にも労いの言葉をかけられた。そんなに大層なことはしていない。思ったことを言っただけだ。でもそれが結果的に誰かのためになれたのなら、悪い気はしないなと思ってしまった。




参考文献



角川文庫 『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治著


文春文庫 『容疑者Xの献身』 東野圭吾著


講談社文庫 『蟹工船』 小林多喜二著


角川e文庫 『星の王子さま』サン・テグジュペリ著 管啓二郎訳


白泉社 『つみきのいえ』文、平田 研也 絵、加藤 久仁生


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