第四章 蟹工船➂

 「で、これってどんな本なの?」


 あの派手なお友達たちとの予定が急遽キャンセルになったらしく、暇を持て余した莉子ちゃんは国語科準備室までついてきた。足を組んで机にうなだれるその姿勢だと、ただでさえ軽い生地でできている夏服のスカートをこれでもかと折っているものだから、下着が見えないか心配になる。それでもそれを口に出せなかった私の代わりに、中嶋先生が足をそろえて座るように注意する。彼女はそれを華麗にスルーした。そのまんまるな目で私の表情を覗き込んだまま、両手で私の「蟹工船」を掲げてゆらゆらと揺らす。西日に反射して赤字の表紙がさらに深く、赤く煌めく。私は少し考えた。この「蟹工船」という本。説明するにはやや難しいものなのだ。先生へ視線を向ければ、少し離れた席から見守るように「お前がやれ」という目を向けてくる。どうやら先生の助けは期待できないらしい。


「『蟹工船』は小林多喜二の代表作です。「昭和四年上半期の最高傑作」と評されていて、今では日本史の教科書にも登場することもありますね。「おい地獄さ行ぐんだで!」という冒頭の言葉は有名だと思います」


「私知ってる。プロフェッショナル的なやつ」


「プロレタリアですね」


 自信満々な莉子ちゃんの発言を訂正すると、黙って聞いていた先生が盛大に噴出した。「あぁ、惜しかったぁ」と彼女は悔しがったが、意味は全く違うし合ってるのは最初の二文字だけなので何も全然惜しくない。「プロレタリアって結局何なの?」と、私の蟹工船をうちわ代わりにしようとしていたので、そっと取り上げてから拙い知識で答えた。


「プロレタリアは資本主義社会において,自分の労働力を資本家に売って生活する人たちのことを言います。簡単に言うと無産物の労働者です。労働者階級という意味のプロレタリアートから来ています」


私の説明に莉子ちゃんは頭に「?」マークを浮かべてほぼ真横に首を傾げた。これ以上分かりやすい説明が分からず再度先へ視線を送ると、やれやれと言った表情でこちらへ近づいてきた。私と莉子ちゃんが囲っている机へ椅子を一つ追加して、「よっこいしょ」という掛け声とともにドカッと座った。


「要するに、金持ちに働かされている貧乏人だ」


 先生の説明で八割がた理解したらしく、掌に軽くこぶしを打ち付けて「なるほど、つまりバ畜!」と勝手に納得した。多分違うし、その言葉で片づけるには先人達に失礼だと思うが、話が進まないのでそういうことにした。ついでに「バ畜ってなんだ?」とつぶやいている先生も、話が進まないので無視させていただいた。


「蟹工船というのは蟹を獲ってそのまま船で加工して缶詰にする船のことです」


「OK分かった。船と工場が合体したやつね」


 「そうです。この本は劣悪な環境の蟹工船で働く男たちの話です。暴力や虐待など、非人道的国司に対抗しようとする男たちの物語」


 私の説明に彼女はこぶしを握って突き出し、ニカッと豪快に笑って言った。「かっけぇ!」と。そうなのだ。この話は何も残酷で過酷な話ではない。男たちの意地とプライド、人としての尊厳をめぐる、最高にかっこよく熱い物語なのだ。莉子ちゃんのその言葉には先生も深く頷いて同意した。「譲れねぇもののために体を張れる男はいつの時代もカッコいいもんだ」と。でもきっと実際にそんな人がいたら今の時代の女性の感性だと、「暑苦しい」と一蹴されてしまうと思う。


 「作者である小林多喜二はこの小説を書いたことで、不敬罪で警察に訴えられましたがそれでも書くのを止めませんでした。内容はほとんどが検閲の対象になって黒く伏せられてしまって、自分は警察に犯罪者として追われて、でもそれでも書くのを止めなかったんです。そんな彼の生き様からも、男の「意地」というものを感じることが出来ます」


 この作品に主人公はいない。それが他人にこの話を説明しにくい理由の一つではあるけれど、私はそういうところも大好きだ。漁夫たちを主役に群像劇調に描くことで、刊行当時の労働者階級に生きる人々すべてに、「今こそ反旗を翻す時だ」と告げているようで。そんな作品だからこそ、今でもプロレタリア文学の代表作として名高く、小林多喜二は赤い旗を掲げる旗手として今でも語られているのだろう。「蟹工船」の表紙を撫でる。飛んでいた意識が先生と莉子ちゃんの、少しやかましいやり取りによって引き戻される。どうやら「バ畜」の意味を先生に説明して文句を言ったり言われたりを、お互いに繰り返しているようだった。


 「今すぐ訂正しろ」


 「口うるさい男はモテないよ、中じぃ」


 「うるせぇ、男には誰しも譲れねぇもんがあんだよ」


 「譲れないものちっさ!」


 先ほど別れた彼にもあるのだろうか。譲れないもの。あんなに意固地になる理由が何かあるのだろうか。知りたいと思うには、まだ私と彼の関係は薄い。他人にこんなにも興味を抱くようになったなんて、変わったなぁとしみじみ思った。書店でバイトしていることを秘密にする条件で、彼本人から聞き出してしまうのもありかもしれないと良からぬことまで頭をよぎった。男の意地、プライド。暑苦しいかもしれないけれど、私はそれがどんなものであれ、それに真っ直ぐに向き合って生きれるのは「カッコいい」と思う。


 「和香ちゃんは私の味方だよね!」


 「バ畜はちょっと違うと思います」


 「ほれ見ろ!」


 「なんでぇ!?」


 とりあえず、次彼に会ったときは踏み込んだことを言ってしまったことを謝ろう。そして条件を突き付けてもっと踏み込んでみよう。数か月前までは人と関わるのが苦痛だったのに。どうしてだろう。今はただただ人と話してみたくてしょうがない。人と話すことが、楽しいと思えるようになっている自分がいた。今の私なら、彼に何か言ってあげられるだろうか。

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