第四章 蟹工船➁

 もともと俺、帆澄海璃の家はそれなりに裕福だったと思う。幼少期に生活面で苦労した経験はほとんどなく、欲しいものがあればすぐに買ってもらえたし、行きたい場所には何処へでも連れて行ってもらえた。狂い始めたとしたら俺が中学に上がったときだろうか。弟が生まれたのと同時に、父親が職を失った。幸いにもすぐに再就職出来たからいいものの、前職が大手企業の重鎮だったものだから収入の差は否めなかった。父の金目当てで結婚したに近い母との夫婦関係も冷え始めた。母は見栄っ張りな性格だったため、収入が減ったというのに今まで通りの生活の質を保ち続けた。そしてそんな母に呆れた親戚筋との縁も、ほぼ完全にと言っていいほど切れた。


 かくして俺は何も知らない弟と、どうしようもない両親との間で板挟みになった。高校に入ったらすぐにバイトをしなければならなかったから、部活動なんて楽しめるわけもなかったし、恋愛にうつつを抜かしてもいられない。それまで続けていたサッカーをやめて、道具を売って金にした。今まで好きだった本も全部売った。その金は当然のごとく両親の懐に転がり込む。父は死に物狂いで働いてくれているからいいとして…、いやよくないな。あいつパチンコが副業とか言ってたしな。母はパートを始めても性格上長くは続かずに、最終的に働きに出るのをやめた。それなのに弟にサッカーをやらせるとか言い出した時は呆れて何も言えなかった。弟がサッカーを好きなのは知ってる。テレビ見ながら目を輝かせる姿を見れば、誰だって嫌でも気が付く。「かわいい子には好きなことやらせたいじゃない」と、母があっけらかんと言ってきたときには流石にぶん殴りそうになったが。じゃあ俺は何なんだと喚き散らしたくもなった。


「兄ちゃん、俺青いのがいい」

「ん、いいよ」


 今年小学生になった弟のランドセルは俺が買った。クラブチームの会費も俺が出して入団させた。弟に給食費やその他もろもろ、今弟を学校に通わせているのは俺だ。最初はコンビニだけだったが、俺の学年が上がるごとに、弟が成長するごとに、俺は掛け持つバイトの数を増やしていった。もちろん自分が学校生活を送るうえでの備品も自分の金から出すし、高校三年間の学費もしっかり出している。学校がバイト禁止なのは知ってる。申請出して学業と両立させれば許してもらえるのも知ってる。でもそんな気休め程度の救済処置よりも、今の俺には金が必要だ。どこかしかるべき所を頼れば解決するのかもしれない。でももはやこれは意地だ。ダメな大人のせいで引き返せないところまで来てしまった男の意地。絶対に弟を大学までいかせるし、何ならサッカー選手にだってする。そのために投資する。そしてその末に、俺は不幸になるような人生は送らない。クソみたいな両親がくたばった後にでも、もしくは早いとここの生活を安定させて、俺は俺のやりたいことをやる。それが俺の意地で、今こんな世界で生きている理由だ。


 彼女を認識したのは高二の春。書店でバイトを始めてすぐのことだった。商店街の片隅にあるような、昼間は年寄りの井戸端会議の会場になるようなそんな店。時給の良さと、あまりこちらへ干渉してこない気難しい店主に惹かれて働き始めたその職場で彼女はとても目立った。仕事一筋、無口な店主が「また来たね」と、俺にその存在を認識させたほどだ。彼女は俺がシフトに入っている週二日。毎回来る。学校帰りで制服のままの時もあれば、休日に母親と一緒に訪れることもある。他の店員の話によるとほぼ毎日来ているらしい。そして最近は今まで一人だったのに、いきなりあの白峰や明らかに系統の違う茶髪のギャルも連れてくるようになった。バレてちくられるのが嫌で直接接客することは避けていたが、毎回毎回レジ締めの時に彼女が購入したものを見ては驚いていた。どれもこれも、俺が売り飛ばした本の新刊や、気になっている作者の本。個人的に読みたくて目をつけていた本。何が云いたいかというと、俺と彼女は恐らく、確実に、驚くほど明確に、本の趣味が合う。


彼女と話したい。話したいけど話したら終わる。そんでいよいよバレた。彼女が俺のことを知っているのかは別として、同じ学校なら何らかの形で教師陣に伝わるかもしれない。まさか念願だった彼女との初めての会話が、本の話題ではなくこんな下らないお願いになるなんて思わなかった。しかもその時彼女が手に持っていたのは「蟹工船」。俺も好き。話したい。新潮文庫の「蟹工船」の表紙いいよね。俺も好き、って言いたい。お願いの承諾よりも先に、彼女は正論をぶつけてきた。彼女に対して、心の中でずっと思っていたことがある。気が合うから話したいっていう気持ちと同時に、「羨ましい」って気持ちがあった。あんなにたくさん本が買えて、本が読めて、買ってくれる親がいて。そんな彼女だから、そんな正論投げられるんだ。八つ当たりだと分かっていて、彼女が困るのも分かっていて俺は一方的に彼女に言葉をぶつけて、そのまま振り返らないで歩いた。彼女を羨ましいと思った瞬間に、俺の意地が、生きる理由が揺らいだ気がした。




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