第四章 蟹工船①


 じめじめとした梅雨が終わり、蝉たちが大合唱を始める季節。アスファルトから立ち込める陽炎が、気温の高さを物語る今日この頃。澄み渡る青空と、毒々しく輝き始めた太陽を睨み上げる、そんな七月。照り付ける日差しにため息をつく私の隣で、「やー、今日はピーカンだね」と空を仰ぐ母。買い物帰りの信号待ち。母に持たされたビニール袋が、わずかながら結露を纏い始める。


 「ピー…カン…?」

 「え、今の子ってピーカン使わないの?」

 「初めて聞いた」

 「マジかァ」


 「私ももう歳かなぁ」とぼやく彼女はまだ40代前半。他の同級生の母親に比べたら、断然若い方の部類に入る。身内贔屓かもしれないが、とても若々しく整った容姿をしていると思う。そんなことを考えていると、どんどん思考が遠のいていく感覚がした。暑さのせいで脳が溶け始めてしまっているのだろうか、なんてバカみたいなことを考えてしまうのも暑さのせいだ。この季節、なんでも「暑さのせい」で片づけることが出来てしまうのが最大の美点だと思う。


 視線だけで空を仰ぎながら、青信号を進む母の姿を追いかける。ふと母が立ち止まったのは、私の馴染みの書店の前。視線だけで、「寄るの?」と問いかけてくる。私は言葉で答える代わりに、母を置き去りにして店内へ入ることで答えた。


 書店の中は冷房が程よく効いていて、暑さで溶け始めていた脳が急速に元の形へと戻っていく。頭は働いていなくとも脊髄反射の域で、いつもの近現代文学の棚へと足を運ぶ。手に取ったのは新潮文庫の『蟹工船』。赤地の表紙に黒い船のシルエットが描かれている。私はこの表紙が好きだ。シンプルにカッコいいと思う。


 表紙を撫でて愛でて数秒。母の視線が痛くなってきたタイミングで、それを棚に戻したほかの棚を物色する。母と本屋へ行くと、必ず一冊は本を買ってもらえる。貴重な機会を無駄にしないために、血眼で良い本を探す。なんとか探しに探し、選び抜いた一冊は最近お気に入りの作者の新作ミステリーだ。母親と並び立ってレジへ向かう。ふと視線を感じて顔を上げると、私と母が並んだ隣のレジの店員がこちらを見ていた。かなり顔色が悪い。視線がぶつかると、気まずそうに眼をそらしてカウンターの奥へと消えていく。


 どこかで見たことがあるような気もするが、思い出せないのならたいしたことではないだろうとすぐに思考を放棄した。


 しかし翌日。早くも再会の時間が訪れた。学校で生徒指導室から出てきた彼とすれ違った。名札には「帆澄」と書かれていた。心の中で反芻していたつもりだったが声に出てしまっていたらしい。一緒にいた莉子ちゃんが食いついてきた。


「何?和香ちゃん帆澄のこと気になる?」


 まるで新しいおもちゃを見つけてはしゃぐ子供のように、目を輝かせて私の表情を覗き込んで伺ってくる。そのキラキラした瞳を掌で遮りつつ、「莉子ちゃんが期待しているような気になり方はしていませんよ」と否定した。「なぁんだ、つまんないの」と口を尖らせて入るけれど、これ以上は話のネタにするつもりはないらしい。直ぐに瞳が冷めるので分かりやすい。


「帆澄君ってどんな人ですか?」

「バ畜」


 聞き馴染みのない言葉に首をかしげると、莉子ちゃんは丁寧に教えてくれた。どうやら「バ畜」とは「社畜」のバイト版のことを言うらしい。そこまで聞いて、ふと疑問が頭をよぎった。


「この学校、バイト禁止ですよね?」

「でもやってるんだよ。性懲りもなくね。一年生の時からずっとそう。申請出せばいいのにね」


 我が校は原則アルバイト禁止ではあるが、やむを得ない理由があるときは申請すれば許容される。しかし、成績を学年順位上位五十位以内に保たなければならないという条件がある。「要するに勉学としっかり両立させろ」という意味だ。莉子ちゃんの話によると、私が昨日見かけた本屋のバイト以外にも、コンビニや引っ越し業者などでもいくつか掛け持って働いているらしい。素直に凄いなと感心してしまった。申請を出さないのはバイトのせいで勉学に励めず、授業についていくだけでやっとな状態だからなんだそうだ。


 先ほどすれ違っただけ、先日見かけただけでも目の下の隈や、やつれた頬。無造作に乱れてくせ毛には目が留まった。三角眼の鋭い目つきと、長身ゆえの猫背と相まって少し怖い印象を受ける。次の授業の始まりを告げる鐘がなり、私は彼が去ってい居た方へ向けていて視線を前へ向けて、莉子ちゃんと一緒に走り出した。


 授業中ふと思い出したのは「蟹工船」。労働者を主役にした小説。何でもかんでもつなげてしまうのはいかがなものかと思うが、ちょうど今日の一冊がそれなのだからしょうがない。自分の思考回路に呆れて、私はかなり大きめのため息をついた。


 校舎が茜色に着替え、放課後という名の生徒たちの憩いの時間が始まる。いつものように国語科準備室へ向かおうと教室から出ると、廊下に帆澄君が立っていた。気にも留めず、彼の前を通ろうとしたら、同年代の男子の中でも低めの重い声で呼び止められる。


「星野さんですか?」

「そうですが?」


 首をかしげて疑問符を浮かべる私に、彼はスッと手を合わせて頭を下げた。突然の行動に驚いて一歩下がった私は、廊下の壁に背中をぶつけた。ガバっと効果音が付きそうな勢いで浅く頭を上げた彼は、いたって真剣な瞳で私に「お願い」をしてきた。


「俺が本屋で働いてるの、誰にも言わないでください」


 今日生徒指導室から出てきたことから、アルバイトをしているのはバレているのだと思うのだが…。その疑問をそのままぶつけると、彼はあっけらかんと「本屋はまだバレてないんだ」と、三角眼を細めて乱れたくせ毛をいじりながら笑った。「申請をしてみればいいのでは?」という提案には、先ほどまで緩めていた口元を引き締めて「そんな余裕ねぇよ」と、気まずそうに眼をそらした。なぜそこまで意固地になっているのか、そんなに苦しい表情を浮かべてまで、何故続けなくてはならないのか。私は今日初めて会話を交わした彼のことを、当然ながら何も知らない。どこまで踏み込んでいいのかわからず、私はただただ、今日も働きに行くその背中を見送った。

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