第三章 桜の森の満開の下 ④


 黒く重い雲に覆われて、太陽は今日も姿を見せない。じめじめとした空気が体にまとわりつき、制服のシャツが肌に張り付く。まだ今日は雨が降っていないだけいいのだろうが、私はこの「梅雨」という季節を好きになれる気がしない。先生からの宿題に答えが出ないまま、もう一週間が経とうとしていた。「期限はないから大いに悩め」と先生は豪快に笑ってくれたが、ここまで来て答えが出ないと、流石に焦ってくる。あれから何度も『桜の森の満開の下』を読み返したが、途中から自分の解釈が分からなくなり、頭がぐちゃぐちゃになってしまった。学校帰りに立ち寄った馴染みの本屋の中、独り大きなため息をついた。

 文庫本が置かれている棚へ向かう途中、視界の端で茶色いツインテールが揺れた。それを追いかけた先にいたのは、桜城莉子…隣席の彼女だった。近代文学の棚の前で固まっている彼女に、特に声をかけようとは思わず、その場から離れようとした。が、私の存在に気付いた彼女に呼び止められる。呼び止められたので素直に立ち止まると、彼女は分かりやすく動揺していた。どうやら反射で呼んでしまっただけのようだ。「あー」だの、「うー」だの唸った後に、彼女は絞り出すように呟いた。


「この前は、ごめん…」


 何に対しての謝罪だか分からなかった。私は彼女に何かされた覚えはないし、そもそも彼女とそんなに関わっていない。首をかしげる私を見て、彼女は鞄の持ち手をいじりながら、おずおずと謝罪の理由を説明し始めた。


「現国の時間に…、中じぃとのことあったでしょ?いやな思いさせちゃったなって思って…」


 驚いた。当事者である私でさえ、一週間で「そんなことあったなぁ」くらいの認識になっていたものを、ここまで深刻そうに考えてくれたこともそうだが、何より、彼女がしたことではないことを謝っている、その行動自体に驚いた。


「何故…、貴方が謝るんですか?」


「それは…」


 そこから先の言葉は続かなかった。彼女は俯いて黙り込む。やがて沈黙に耐えられなくなったのか顔を上げ、私の目をジッと覗き込んでくる。その瞳には「察して」と書いてあるのが読み取れたが、他人の思考を読み取るなんて無理な話である。さらに首をかしげる私に、彼女は深いため息をついた。


「一応…、あの子私の友達だからさぁ」


 「友達」という関係はそんなにも面倒なものなのか。自分がした行いじゃなくても、「友達」がしたことなら謝らなければならないのか。それはもう、対人関係の一つというよりも、一種の縛りに近いのではないか。固まる私を見て、彼女は少し笑った。普段教室で見せているものとは違う、上品で綺麗な笑みだった。それこそまさに、桜の花のような…。


「星野さんでも、そんな顔するんだね」


「桜城さんも、そんな風に笑えるんですね」


 「えー、なにそれー」と、やはり彼女は上品に綺麗に笑った。そのあとどうしてもお詫びがしたいという彼女に連れられて、喫茶店に入った。それから彼女からいろいろな話を聞いた。クラスメイトの誰々はこうなのだとか、隣のクラスのあいつはどうだとか。私にとってはとてもどうでもいい話だったが、彼女があまりにも楽しそうに話すの、でついつい聞き入ってしまった。


「星野さんは?最近どう?」


 いきなり話を振られて少し固まる。私は彼女のように楽しい話題は提供できない。それをそのまま伝えると彼女はまた笑った。


「楽しいかどうかは私が決めるからいーの。私が星野さんの話を聞きたいだけなんだから」


 私は必死に話題を探したが、結局口から飛び出したのは「桜の森の満開の下」の話だった。中嶋先生と意見が対立したことを話せば、相槌を打ちながら聞いてくれていた彼女の笑顔が、分かりやすくひきつった。


「難しいことはよくわからないけど…。」


 そこまで言いかけて、彼女は視線を泳がせる。なんとも気まずそうに口角を無理やりあげて、ぎこちない笑顔を作った。その笑顔は普段彼女が教室で浮かべているものとよく似ている。


「独りって、怖いよ」


 短いその言葉の中に、複雑で黒々とした、色々な感情が混ざっているのを感じた。そして彼女が、心底それを恐れていることも。


「貴方が孤独を恐れるのは、貴方がその人たちを愛しているからだと思います。」


 私の言葉にかぶせるように、彼女は「違う」と否定した。「現実は小説のように綺麗ではない」と。彼女の栗色の瞳が今までにない力強さで、真っ直ぐしっかり私をとらえた。でもそれは一瞬で、すぐにまた、いつもの彼女の柔らかく緩い瞳に戻る。


「私、あの子たちのこと好きじゃない。うるさいし、言動軽いし、口を開けばずーっと人の陰口悪口ばっか。どうせ表面だけだよ。皆独りになりたくないから、適当に話し合わせて群れてるだけ」


 畳みかける勢いで彼女は言葉を紡いだ。照れ隠しなどではない。いうなればそれは、日ごろため込んできた、愚痴を吐き出すようなものだった。


「私、星野さんのこと尊敬してた。いつも独りで、でもそれは自分と戦っているようで、凄く凄くカッコよかった」


「愛してるから一緒にいる…って考えが浮かぶのは、星野さんがちゃんと好意を持って中じぃや、白峰君とつるんでるからだと思うよ。恋愛とかの好意じゃなくて、友愛?とか、憧れ的な。まぁ、今の星野さんも楽しそうでいいと思うけど…」


 今まで誰かと一緒にいたからこそ、孤独は恐ろしく哀れなものだと感じるようになるのだろう。想像してみた。先生がいない日常を。考えようとした途端に、思考が止まる。まるでその状況を想像することを、脳が、心が拒絶しているように感じた。そして思う。きっと彼女は恐れることにも、哀れむことにも疲れて、何かを諦めてしまったのだろうと。でもそうして諦めた先に彼女が切り離したのは、面倒な「友達」ではなく、他でもない「自分自身」だった。それはきっと、彼女が桜の花のように優しいから。そしてその優しさは、舞い散る桜の花弁のように儚いもの。永遠には咲き誇ってはくれないものだ。


「好きじゃない…ということは、嫌いではないということですか?」


 喫茶店を出て歩みを進める。彼女の背中と揺れるツインテールに問いかける。夕日を背に振り返った彼女は、ただ何も言うでもなく悪戯っ子のような無邪気な笑顔を返した。


「あー、私も本読んでみようかなぁ」


「いきなりですね」


「だって星野さんともっと話したいんだもん。てか堅苦しいから和香ちゃんって呼ぶね!」


 こちらの意見なんてお構いなしに繰り広げられる会話。いつもなら不快に思う遠慮のなさが、今はなんだか嬉しかった。「何かおすすめある?難しくない本で!」と、笑顔で無理難題を突き付けてくるところも、すんなりと許せてしまえる私がいた。


「…見た目から入ってみればいかがですか?ブックカバーや栞を自分好みに買い揃えるとか、表紙が綺麗だなと思って本をとりあえず手に取ってみるとか。その方法の方が、…莉子ちゃんにはあっていると思います」


 さりげなく呼んでみただけだった。与えられた好意に同等のものを返しただけ。なのに彼女があまりにも嬉しそうに笑うから、あぁ返して良かったなと心から思った。この後彼女のブックカバー選びに散々付き合わされて、くたくたになって家に帰った。

 翌日、朝一で国語科準備室へ向かった。答えは出たかと笑う先生に、「分かりません」と堂々と答えた。椅子から転げ落ちて落胆する先生に私は続けた。


「でも先生がいなくなったら、私はみっともなく涙を流すと思いますよ」


 先生の心底嬉しそうな笑顔を確認して、私は教室へ足を進めた。酷く明るく優しく、儚い彼女に「おはよう」というために。


参考文


角川文庫 『白痴・二流の人』 坂口安吾著


新潮文庫『檸檬』(改版) 梶井基次郎著




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