第三章 桜の森の満開の下 ➂


「『桜の森の満開の下』は、坂口安吾の短編小説です。彼の代表作の一つで、傑作と称されることの多い作品でもあります。ある峠の山賊と、妖しく美しい残酷な女との幻想的な怪奇物語。桜の森の満開の下は恐ろしいと物語られる説話形式の文体で、花びらとなって掻き消えた女と、冷たい虚空がはりつめているばかりの花吹雪の中の男の孤独が描かれています。」


「なんか暗い話だな」


「そうですね。…ところで、なぜあなたがここに?」


「え?中じぃが来いって言ったから。あと部活なかったし」


灰色で少し暗い、雨音が響く国語科準備室。いつもは先生と私の二人だけの場所に、今日は白い虎が遊びに来た。先生が臨時の職員会議で呼び出されたため、先生が帰ってくるまでの時間で白峰君に『桜の森の満開の下』についてザックリ説明しておこうと思って話し始めたのが、つい先ほどのこと。あまりにも自然に居座るので、つい突っ込むのを忘れていた。


「桜の説話ってあれもそうか?えーっと、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」ってやつ」


「梶井基次郎ですね」


「え、あれの元ネタあんの?」


「ありますよ、そりゃ」


どうやら白峰君は、文学において知識量が多いというわけではないようだ。本人曰く授業でやったことなら人並み以上に分かるということだった。そして彼の面倒なところは、知りたい、学びたいという欲求も人並み以上にあるくせに、それと同等に高いプライドのせいで人に聞けないことだ。今だって、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」の元ネタにつて深く聞きたいだろうに、自分からは聞かずに、私が勝手に話し始めるのを待っている。虎というより、餌を待つ犬のように見えた。仕方がないので、私は彼の望み通り「勝手」に話し始めることにする。


「元ネタは『桜の樹の下には』という作品です。1928年に文芸雑誌、『詩と詩論』で発表された短編小説で、桜や生命と、死を結びつける斬新な内容となっています。話者の「俺」が聞き手に語りかける形式で展開している、とても面白いものですよ。 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という冒頭文が有名なんです」


畳みかけるような勢いで紡いで言葉を、白峰君は静かに聞いていた。全部聞き終わった後に、「知ってたし!」と強がるものなので、なんだか面白くて笑ってしまった。机に向かい合い、誰かと話をする。まさか白峰君とこんな風にできる日が来るなんて、思いもしなかった。本当に人生というものは、何が起こるか分からないものである。話が脱線してしまったので、咳払いをして早急に軌道修正をする。


「安吾が後に書いたエッセイ『桜の花ざかり』には、東京大空襲の死者たちを上野の山に集めて焼いたとき、桜が満開で、人気のない森を風だけが吹き抜け、「逃げだしたくなるような静寂がはりつめて」いたと記されていて、それがこの作品を執筆する2年前に目撃した「原風景」…。つまり、元ネタではないかと言われています」


二人の間に置かれた机。そこに置かれた本。書店のブックカバーに包まれたそれを撫でる。もちろん、『桜の森の満開の下』だ。私の今日の一冊がこれだと知るや否や、先生は声高らかに今日の議題をこの本に決めた。あの後、先生の一撃をもろに食らった彼女は居心地悪そうに着席し、シンっと静まり返った教室で、滞りなく授業は行われた。クラスメイトも例の話に触れてくることはなく、こうして何事もなく一日が終わろうとしている。


「俺だったら…」


本に向けていた視線を白峰君に戻す。静かだなと思っていたが、どうやらずっと考えていたようだ。正直ここまで真剣に話をしてくれるなんて思っていなかったので、少し驚いた。


「そんな女、即捨てる」


確かにやりそうだなと思ってしまった。プライドの高い彼のことだから、そもそも女性に主導権を握らせないかもしれない。「亭主関白」という言葉が良く似合う。絶対に結婚したくない。


「捨てられるわけがねぇだろ、男は孤独を恐れているんだから」


突然介入してきた第三者の声に驚いて、二人して固まる。職員会議を終えた先生が、教室の入り口に立っている。遠くで雷が轟音を立てて落ちた。さながら魔王の入場である。


「…女を愛していたからだと、私は思います」


突如現れた魔王と、果敢にそれに挑んでいく私を見て白峰君は一歩椅子を引いて後退る。しかし、すぐにそれを誤魔化すように、わざとらしい咳払いをしてから、椅子をもとの位置に引いて座り直した。どうやら私たちが話している様子を見るのは初めてだったようで、分かりやすく驚いている。一応気遣うつもりで視線を向ければ、「どうぞ続けろ」と視線で促してくる。私はお言葉に甘えて、私たちが座る国語科準備室の隅へと近づいてきていた魔王に向き直る。また、今度はもう少し近い場所に雷が落ちた。


「愛だけで人が一緒にいれるなら、世界はもっとシンプルなはずだろ。お前さんは今まで「独り」だったから、孤独の怖さが分からないんだよ」


坂口安吾が描いた、美しくもグロテスクな『桜の森の満開の下』は、その解釈を読者に委ねるような結末を迎える。女が消えた静寂の中で、声をあげて泣く男。私は今まで、それは愛故の涙だと思っていた。いつだって本の登場人物は私の理想。孤独を恐れて泣く山賊の姿は、酷くみじめでかっこ悪い。そしてその姿のまま、桜の花びらのように散って消えていく。その姿は実に哀れなものだろう。


「ではなぜ、愛していたならば、どうして山賊には女が鬼に見えたのか。なぜ女を殺したのか」


魔王がぶつけてきた疑問に、私は私なりの答えを紡いだ。それこそ桜が見せた恐ろしい幻影だろうと。恐ろしくも美しい桜に狂わされたのだろうと。本当のところ、山賊は女を殺すつもりなんて一ミリもなかったのだろうと。その意見は二人合致したが、山賊の心情については意見が割れたまま、最終下校時刻を迎えた。最後にまた、遠いどこかで雷が鳴る。


「宿題だな」


その宿題は、あまりにも重く難題なもの。確かに私は孤独を恐れたことがない。だからと言って誰かを愛したこともない。ビニール傘越しに、真っ暗な空を眺めて思う。「孤独」とは何なのか。果たして皆が恐れるほど、それは恐ろしいものなのか。


「そばに誰かがいてくれたら、そりゃ楽しいだろうよ。でも薄っぺらい、上辺だけの関係なら、それは寂しいに決まってる」


隣で黒い傘を揺らす彼が、雨粒のように零した言葉。かつて…という程昔ではないが、袁傪を求めて吠えていた虎の言葉だ。妙な説得力がある。クラスで常に人に囲まれている彼女も、そんな寂しさを抱えているのだろうかと、想いをはせつつ水たまりを飛び越えた。

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