第四章 蟹工船④

 翌日の放課後。彼に会おうと彼のクラスを訪れると、何故か白峰君が出てきた。「何でいるんですか?」と問うと、「ここ俺のクラスだけど」とぶっきらぼうに答えた。初めて知ったというのを隠さずに表す私に、彼は力いっぱいのデコピンをした。痛みに悶える私に彼は要件を尋ねてくる。帆澄君を呼んでほしいと頼むと、あからさまに嫌な顔をする。「なんで海璃?」と曇らせた表情を崩さずに彼は詰め寄ってくる。帆澄君の下の名前がここにきて判明した。話を聞くと二人は小学校の時に、同じサッカーチームでプレイしていたらしい。中学に上がるタイミングで帆澄君がサッカーを止めてしまったらしい。そして今は放課後、彼はもうバイトに出かけてしまったみたいだ。


 ついてこようとした白峰君を説得して部活に向かわせてから、私はいつもの本屋へ向かった。帆澄君が出勤していたらいいなぁと思いつつ、あまり期待せずに足を運んだ。本屋へ入って当初の目的を忘れるように、本の世界へ没頭してしまった。普通に買い物をしてレジに向かうと、カウンターにお目当ての彼がいた。驚きすぎて抱えていた本を落としそうになったのを、彼がカウンター越しに長い腕を伸ばして支えてくれる。「すみません」と謝りつつ、カウンターに本を載せて会計を済ませる。バイト中に話しかけるのもどうかと思ったので、今日のところはお暇しようとすると彼に呼び止められた。「俺もう少しで休憩なので」と、店の奥にある談笑スペースを指さして言う。その言葉に従って、先ほど買った本を読みながら彼を待った。


 バイトの規定の服装であろう白い長そでシャツを腕まくりして、エプロンを脱いで近くの椅子に掛けてから彼は私の向かいの席に座った。近距離で見つめ合う彼の三角眼は思っていた以上に鋭くて、一瞬ひるんでしまいそうになった。呆けている私に彼はガバっと頭を下げた。驚いて椅子を一歩引くと、その音を合図に今度は勢いよく頭を上げる彼。「先日は、すみませんでした。八つ当たりしました」という謝罪の言葉に対して私も、「こちらこそ、踏み込んだことを言ってしまってごめんなさい」と謝罪した。


それから彼は、ずっと私と話してみたかったのだと告げた。その流れで彼の家庭事情も聴いた。好きだった本を売るなんて、私には耐えられないなとくだらない感想ばかりが浮かんだ。でもきっと「大変でしたね」とか、「大丈夫ですか」とか、そんな薄っぺらな言葉を彼は決して望んではいない。彼が歩んできたその道の大変さなど、彼が決めることであって赤の他人の私が図れるものではない。大丈夫かなんて問うてしまえば、まるで彼が今まで歩んできた道、積み重ねてきたものが間違いになってしまいそうで。


「先日『蟹工船』について談義する機会がありました。」


 いきなり語り始めた私に、彼は眉間に皺を寄せる。私はカバンの中から『蟹工船』を出して、私と彼の間に置いた。窓から差し込んでくる、放課後の時間独特の赤みがかった光が表紙を照らす。「『蟹工船』はご存じですか?」と問いかけると、眼を優しく細めて柔らかく微笑み、「大好きです。特に講談社文庫の表紙はカッコいいですよね」と、私と似た感性を示唆する言葉をくれた。


「これは男たちの「意地」の物語だと思っています。例え倒れた仲間が目の前で海に捨てられようと、愛する家族に会えなかろうと、戦うことを、反旗を翻すことを止めなかった男たちのドラマ」


「カッコいいですよね」


 彼の合図地の言葉に、本へ向けていた視線を彼へと戻す。三角眼のせいで他の人より小さい黒目が、いつも人を怖がらせてしまっているのであろうその瞳が、まるで憧れの戦隊ヒーローを語る幼子のようにキラキラと輝く。窓から差し込む赤をわずかに吸い込んで、彼の黒は僅かに熱を帯びた。思わず見とれてしまって固まる私に、彼は不審気に首を傾げた。


「帆澄君もカッコいいですよ」


 私の言葉に彼は目を見開いたが、構わず続けた。弟のことも、自分の人生も見捨てず譲らずに、守ろうと、つかみ取ろうとしている今の彼の様は最高にカッコいいものだ。そう伝えれば彼は耳まで顔を赤くしてうつむいた。「しかし」とそんな彼にかまわず再度続ける。


 「意地を張るのと無理をするのは違います。別物です。今のあなたは意地を張っているのではなく、無理をしているように見えます。しかし、矢張り、頑張るあなたはカッコいいです」


 だから今後も無理と意地をはき違えることなく、貴方らしくあなたに譲れないものを貫いて行ってください。そう話を締めくくると、彼は無言で『蟹工船』に手を伸ばした。優しく表紙を撫でて、「売らなきゃ良かった」とか細い声で零した。それは心からの後悔で、今までしょうがないと押し殺してきた彼の本音のように感じた。今にも泣き出してしまいそうな小さい男の子のような、そんな幻覚が見えた気がした。早く大人にならざるを得なかった子供。まだもう少しだけ子供であれたはずの大人っぽい彼。達観しているようで諦めが悪く、冷静なようで意地っ張りで。いろんなものを手放さなければ此処までこられなかった、そんな同い年の男の子。いてもたってもいられなくなって、彼の柔らかそうなくせ毛に手を伸ばす。予想通りのそれは柔らかくて、私のその行動に固まってしまった彼の反応は、あまりにも年相応な男の子のものだった。「よく頑張ったね、もういいよ」。そんな言葉を彼が欲するのは今じゃないし、それを言うのは絶対に私ではない。


 それから彼と沢山の話をした。『蟹工船』の話もそうだけれど、もっとたくさんの好きなもの話を。私はこの『蟹工船』を彼に差し上げることにした。幸いにもあともう一冊持っている。お近づきの印と、ここまで頑張った彼へのほんの小さなご褒美として。他にも私が所有する本を彼に貸し出す約束もした。


「今日はありがとう」


 すっかりとれた敬語。どういたしましてと答えつつ、彼が開けてくれている書店のドアから出る。静かな店内とは打って変わって、酷くにぎやかな夕飯時の商店街。休憩時間を過ぎてまで話しこけている私たちを、お咎めなしで見守ってくれた硬派な店主がカウンターの奥から会釈してくれた。それに会釈で答えて、再び彼に向き直る。


「また時間があったら話に行っていいか?」


「お待ちしています。国語科準備室で」


 二人で少しだけ笑い合う。すると彼が申し訳なさそうに伺いを立てる。それは私に「勉強を教えてほしい」というものだった。


 「今更遅いと思うけどさ、目指してみようと思うんだ。五十位以内」


 彼の小さな決意に頷いて、私はいつもよりも軽やかに、少し早歩きで家路を辿った。翌日先生に、「弟子が増えるかもしれませんよ」と告げると、凄く嬉しかったのか黒飴を大量に貰った。白峰君と莉子ちゃん。帆澄君にも分けて食べた。初めて食べたそれは美味しくて、心が芯から温まる感じがした。


参考文献


講談社文庫 『蟹工船』 小林多喜二著


三修社 『アメリカ文学入門』 諏訪部浩一著

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