第三章 桜の森の満開の下 ①
やけにうるさい雨音に叩き起こされた。連日続いたテスト勉強の疲れを癒そうと、今日はいつもより長く寝るつもりだったのに、結局いつもと同じ時間に起きることになった。未だに窓をノックし続けている雨粒を睨み、本棚から今日の一冊を引き抜いた。
『桜の森の満開の下』
この雨の季節には全く似合わない本。通学用のリュックにその本を詰め込んで、私は除湿機のスイッチを入れた。衣替え移行期間には入ったものの、まだ半袖になるには肌寒い。そんな微妙な六月は、もう半ばに差し掛かっていた。私は悩んだ末に、長袖のワイシャツに学校指定のベストを合わせた。
新緑の中に淡い紫陽花が目立つ。雨は嫌いだが、紫陽花は好きだ。ビニール傘越しに淡い紫を眺めつつ、足元に気を付けながら通学路を進んだ。
先日行われた中間考査で、私は見事に現文、古文、日本史で学年一位を獲得した。例のプライドが高い彼には、勿論突っかかられた。「お前がこんなにできるなんて聞いてない」とか、「最初から本気出せや!」等など、これでもかというほど吠えられたが、残りの教科全ては彼が一位を取ったのだから、十分ではないかと思う。ちなみに先生には、「流石俺の弟子!」とクラスメイト全員の前で褒められた。正直視線が痛いのでやめていただきたかった。さらに追い打ちをかけるように、私の点数を見てしまった隣席の彼女が、「100点!!」と叫んだことによって、私の点数は見事に露呈した。何なんだ、皆揃って。本当にやめてくれ。切実に。そんなこんなで、今は本当に学校へ行きたくないのだが、スクールバスに乗ってしまった今、もう後戻りはできない。
「お前、マジで中じぃとどーいう関係なの?」
学校に到着するなり、白い虎に捕まった。白い虎…もとい、白峰風虎である。件の告白騒動の後、彼はちゃんと『山月記』を読み、こと細やかに感想を伝えてくれた。今では本を貸し借りする仲である。ちなみに「中じぃ」というのは、中嶋先生の愛称である。私もノリで一度だけ呼んでみたが、心底嫌そうな顔をされたため、「先生」呼びを続けている。
「一応、私は弟子なんだそうですよ」
「は?」
訳が分からないという表情を前面に浮かべる彼をおいて、私は自分の教室に入った。私の席の周りには、いつもながら人がたまっている。隣席の彼女に集まっているのだ。彼女に群がっているうちの2・3人が私の姿を見つけるなり、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべる。嫌な予感がしなくもないが、気にしたら負けの精神で席に着いた。
そこから私はいつものように活字の世界へと旅立った。現実は酷い雨なのに、本の中では美しい桜吹雪が舞っている。そんな美しい情景の中、主人公の山賊が味わう孤独と静寂。桜の美しさとの対比で際立つ、女の惨忍さと恐ろしさ。風景描写は美しいのに、そこに登場する人々の内面や外見は、ドロドロとしていて汚い。決した人間を美化して描かないところが、坂口安吾のいいところだと思う。
授業が始まった。一限は現国の授業。中嶋先生の授業だ。いつも通り本をしまって、教科書を広げる。日番の号令で起立し、礼をして着席する。いつも通り…のはずだった。一人だけ着席しない人がいた。黒く傷んでうねっている黒髪が鈍く輝く。嫌に間延びした声が静かな教室に響いた。
「先生はァ~、星野さんとォ~、付き合ってるんですかァ~?」
クラスメイトの反応はそれぞれだった。私に眼を向ける者。先生に眼を向ける者。冷やかすように甲高い声を上げる者。我関せずと下を向く者。そんな中私は今自分が置かれている状況よりも、隣席の彼女が浮かべる表情の方に気を取られていた。彼女はあの黒髪の彼女と仲が良かったはずだ。同類だったはずだ。それなのに彼女が浮かべていた表情は、あまりにも冷たく、黒髪の彼女への「軽蔑」が確かに浮かんでいた。彼女の鮮やかな茶色の髪が、一瞬くすんで見えた。そして彼女は確かに口にした。「信じらんない」と。
「お前さんたちは、年寄りの長話に最後まで付き合ったことはあるか?付き合うといっても、ただ聞き流すのではなく「対話」をしたことがあるかという話だ」
先生の言葉に場が鎮まる。ほとんどの生徒は、先生が何を伝えたいのかわかっていないようだった。先生はニカッと明るい笑みを浮かべて続けた。
「お前さんたちが普段繰り広げている会話を、「無駄話」とまでは言わんが、しっかり対話している者を、したことない奴らが冷やかすんじゃねぇ。ガキか」
その言動はあまりにも過激的で、私と先生の関係の説明としては一ミリも機能していないが、それでも野次馬を黙らせるには十分な一発だった。
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