第二章 山月記 ④
四
話をする機会なんてそんなにないだろうと思っていたら、意外とあっさりとその時はやってきた。
「あ」
「お」
放課後、国語科準備室へ向かう途中に廊下で遭遇した。手に持っていた山月記が、ひしゃげた嫌な音を立てる。ごめんね、山月記。あとでページ伸ばすから。その場で硬直したままの私に彼は言った。
「ちょっとツラかせや」
つれてこられたのは空き教室。茜色の夕日に照らされて、彼の茶髪がやけに眩しく見えた。正面から彼と向かい合うのは、恐らく告白されたとき以来のことだと思う。
「相変わらず、本好きなのな」
「…はい」
彼の視線は、私が持っている山月記へと向けられている。本に何かされたら嫌なので、返事をしながら背中に隠した。私が警戒しているのが分かったのか、彼は分かりやすく、眉間に皺を寄せる。私が用件を尋ねると、彼は少し視線を泳がせた。
「本当は、高校卒業するまで話しかけないつもりだった。でも、最近のお前、なんか変ってきて変に焦って声かけた」
それはまるで悪事を白状するかのような口ぶりだった。虎になってしまった友人を見つけたとき、袁傪はどんな気持ちだったのだろうか。今の私のように、少し戸惑っていたのかもしれない。私は彼の前に、持っていた『山月記』を掲げた。その行動の意味が分からないらしく、彼はさらに眉間に寄った皺を濃くした。
「貴方は李徴のような人です」
「…虎になるやつか」
「はい」
やはり頭がいい。『山月記』の内容はだいたい頭に入っているみたいだ。「プライド高いもんな、俺」と自分の短所もしっかり自覚しているみたいだった。
「こんなの自分ではないと虎になるのは構いませんが、その牙を向ける対象を私にしないで頂きたかったです」
「お前が、俺のにものにならなかったのが悪いんだ」
先ほどのしおらしさの影の中から、彼の虎が姿を現した。彼は言う、お前のせいで傷ついたと。お前ひとりでさえも手に入れられない俺は、俺ではないのだと。それはまさしく、虎の鳴き声のような叫びだった。その姿はまるで、存在しない袁傪に助けを求めているようにも見えて、痛々しかった。
「俺がどんだけ、お前のこと好きだったのかも知らないくせに!」
震えた声で最後に放たれた咆哮が、私の脳に木霊する。自分はずっと、こんなにも歪んだ恋慕を向けられ続けていたのだなと、ここにきて初めて自覚した。
「…貴方が私のせいで虎になってしまったように、私も貴方のせいで人間を失格してしまったんです」
彼は目を見開いて固まった。私はそんな彼に、一歩だけ近づく。
「私はあなたの気持ちに答えられません。でも、聞くことはできます。袁傪のように、貴方の弱い部分を認めてあげることは出来ます」
彼は私の言葉に拍子抜けしたらしく、その場に力なくうなだれた。「知ってどうすんだよ。…またサラッと振りやがって」さながら、茂みに隠れた白い虎。では私は、それをたまたま見つけた袁傪か。
「特にどうもしませんよ。強いて言うなら馬鹿にして笑うくらいですかね」
「酷い女だな、お前」
「まあ、私は袁傪のように優しくないので」
自嘲気味に笑って顔を上げた彼の姿に、私はもう恐怖を感じることはなかった。彼が私に一歩近づく。私たちの間には、未だに『山月記』が掲げられたままだ。彼と目が合う。多分初めてだ。「好きだなぁ」と呟かれた言葉を私は無視した。彼も無視されたことが分かったらしい。泣きそうな、震えた声で私の名前を呼んだ。
「星野和香さん」
「何ですか?」
「初めて見たときから、ずっと好きでした」
小学生のころ受けた告白とは違う、静かで優しい声。あの横暴さは、一体どこへ消えてしまったのだろうか。でもきっとこれが、「虎」ではなく「人間」の彼だ。私は彼の言葉を受け止める。受け止めたうえで答えた。
「ありがとうございます。私は貴方が嫌いです」
彼は俯いて、蚊の鳴くような声で言った。
「知ってたよ」
そのあと彼は、私に今までの行いを詫びた。決して簡単に許されたいいものではないため、まあもちろん許さない。でもそれは、今後彼と関わらない理由にはならないと私は思った。彼とは少しづつ、話をしていきたいと思ったのだ。
「ありがとな」
満月を見上げてそうつぶやいた彼の背中は、満月に吠えて消えた、あの白い虎と重なった。きっと彼は、これから何度でも虎になるだろう。でもその度に、私が袁傪として彼が人間でいた証であり続ける。それが多分、私にとっての正しい彼との関わり方だ。
「山月記貸してくれ、ちゃんと読む」
「いいですよ、感想聞かせてくださいね」
翌日、先生に事の顛末を話してわしゃわしゃと頭を撫でられることになるが、そんなこともつゆ知れず、私は彼と一緒に満月に照らされた家路を辿った。
参考文献
講談社文庫 『山月記』 中島敦著
角川文庫 『李陵・山月記・弟子・名人伝』 中島敦著
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