第一章 人間失格 ➂
三
「やっと気付いたか馬鹿め」
今までのやりとりは、私にこの事実を気づかせるための布石に過ぎなかったのだ。先生が言う人間に私は何一つ当てはまらないし、私はそれが理解できない。もうここまで来ると答えは決まっていて、ただ単純に私が人間を失格していたのだ。だからと言って私は、自分自身が大庭葉蔵に似ているだなんて思ったことは一度もなく、自分の今までの人生を振り返っても「美しい」だなんて感想は一ミリも湧いてこない。それをそのまま先生に伝えると、先生は何を当たり前のことを言っているのかとさらに笑った。
「お前さんと大庭葉蔵の違いはな、人間に焦がれているかどうかだ」
大庭葉蔵は人間が理解できないと謳いながらも、それに焦がれてそれを演じようとした。私は人というものがめんどくさいと分かるや否や、関わることを諦めて自分の世界に引きこもった。大庭葉蔵は私の理想だのなんだのと語っていながら、その理想に近づこうともしない。先生が言いたいのは、きっとそういうことなのだろう。「人間に焦がれて空回って、その末に失格していく様が美しいというのなら、なぜお前さんは今何も行動しようとしないのか」先生は問いかけてきた。その醜さこそ人間らしいというのなら、その人間になぜ関わろうとしないのか、焦がれている癖に、空回る覚悟も持たずに何もしないでいるのはおかしいと続けた。
先生が私に伝えたいこと、先生が私に求めていることは既にもう分かっている。でも大人に逆らっていたい子供心からか、あるいは図星を突かれて嫌にヤケになっていたからなのか、先生のそれに素直に従ってやろうなどとは思えなかった。さらに反抗しようとする私の態度が気に食わなかったからなのか、先生は眉間に皺を寄せて言い放った。
「お前とは気が合わん!勘当だ!!」
そもそも貴方に弟子入りした覚えはないと言い返そうとしたが、問答無用で国語科準備室から追い出されてしまった。たった数日間だけで築かれたこのなんとも言えぬ関係が壊れることに、自分でも戸惑うほどに傷ついている私がいた。…人と関わるということは、こういう事なのかもしれないと思ってしまった。こんな些細なことに心痛めるのも人間なのかと先生に問いただしたかったが、進んできた廊下を回れ右して引き返すことが出来ずに、そのまま教室へと戻った。
教室に戻ると一人だけ生徒が残っていた。茜色と言うには赤すぎる、紅の中、茶髪のツインテールが視界の中で揺れた。隣の席の一軍女子だ。何故か彼女は、私の席に座っている。その手には、私が置いて出て行った「人間失格」があった。声をかけようと近づくと私の気配に気付いた彼女は、バツが悪そうに視線を泳がせた後、私に『人間失格』を押し付けて教室を飛び出して行った。なんなんだよと心の中で呟きつつ、私は本を鞄の中に突っ込んで、いつもよりだいぶ遅い時間の帰路に辿った。家に帰って開いた本は、『人間失格』ではなく、井伏鱒二が著した『小説 太宰治』だった。何かしらヒントが得られるかもしれないと思ったのだ。
師であり、友であった井伏鱒二に対して、「会ってくれなければ自殺する」という手紙を出し、よく金を借りに現れる太宰は、恐ろしく人間関係を築くのがヘタクソだったと思われる。本人もそれを自覚していただろうに、それでも彼は人と関わることをやめなかった。それは太宰自身が、先生も言っていた「人と関わる楽しさ」をしっていたからだとおもった。少なくとも、この本の中で井伏鱒二が描いている太宰治はとても楽しそうだ。先生に言われただけでは、反抗心しか湧いてこなかったが、本の中で憧れの人がこうも楽しそうにしていると、少し、いやだいぶ心が動いた。母親が夕飯の時間だと私を呼ぶ声がしたが、私は本棚の前から微動だにせず、『小説 太宰治』を読み続けた。通学鞄も背負ったままだった。
一晩考えて私は、とりあえず人と何かしら話してみようと思った。誰かと自発的に話してみようと思うこと自体、私にとっては奇跡的なことだ。「人と関わる楽しさ」をとりあえず味わってみたいと思えるくらいには、己の思考を持っていくことが出来た。
手始めに隣の一軍女子にでも話しかけようかと思った。昨日の放課後の一件もあるし、何より隣の席というのは比較的話しかけやすいとネットに書いてあった。あと紙飛行機の謎も気になるところである。と言っても、相手は一軍さんなので、なかなか一人になることがない。常にたくさんの人がゴミのように群がっている。彼女の周りから人が居なくなるとしたら、それはもう授業中しかないので、そこを狙って話しかけることにした。
現国の授業中、何時もは指してくる先生が、今日は指してくる気配はない。昨日の今日なので、まぁしょうがないとは思うが、それに寂しさを感じる自分にイライラした。イライラを鎮めるべく、いつもは片手間に済ませるワークの問題に神経を注いだ。ふと隣に目を向けると、一軍女子が頭を抱えていた。どうやら苦戦しているらしい。そもそも現国という教科でワークを作ること自体に、苦言を呈したいところではある。解釈なんて人それぞれでいいだろうと思いつつも、とりあえず声はかけてみることにした。
「…教えましょうか?」
「え、いらないんだけど」
サラッと拒否され、言わなきゃ良かったと後悔する。その場に居辛くなった私は、身体をできるだけ小さくして、静かに息を殺して俯いた。そんな私の姿を、先生はにこにこ…いや、ニヤニヤしながら見守っていた。授業終わりに先生に呼び出されて廊下に出ると、大変愉快そうな表情を浮かべた先生が待っていた。いつかそのツラひしゃげてやると心に誓った。「見事な振られっぷりだったな」と笑う先生に、昨日の件はもう怒っていないのかと問う。すると先生は、優しく大きな手で私の頭を撫でて言った。
「俺はな、確かに大庭葉蔵の生き様にイラつくし、焦れってぇし回りくどいなとも思う。けどな…、それでも最後までその生き様を見届けたいと思っちまう」
先生は私の頭を優しく二回叩いて続けた。「それを俺は愛しさと呼んでいる」と。先生と目が合う。その手と同じくらい優しく、慈しむような目だった。「やっと人間のスタートラインだな」。そんな目に似つかわしくない豪快な笑い声と共に、先生は私に背中を向けて、国語科準備室へ戻っていく。私も教室へ戻ろうとした時。その時、先生に名前を呼ばれて立ち止まる。振り返ると未だ豪快な笑みを残したままに先生は言った。
「次は山月記だぞ!!」
参考文献
角川文庫 『人間失格』 太宰治著
中公文庫 『太宰治』 井伏鱒二著
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