第二章 山月記 ①


 校庭の木々が桜から新緑へと衣替えをして、少し湿気が多くなってきた五月。桜の雨降る先生との出会いから数日しか経っていないと言うのに、もう季節は夏へと変わろうとしている。本当に桜が散るのは早いものである。少し寂しさを覚えながら校庭の木々を眺めつつ、私は人がウジのように湧いている購買へと足を進めた。普段は母の手製の弁当で昼食を済ませる私にとって、学校の購買というのは非常に縁がない場所である。それなのに今回足を向けたのは、先生からお使いを頼まれたからだ。それは、購買でエビマヨおにぎりを買ってくるというも。そんな変わり種なおにぎりが高校の購買に売っているわけがないだろうと思っていたが、それは当たり前のようにそこに存在していた。


「…本当にあった」


 それを取ろうと棚に手を伸ばすが、何者かの手によってそれは拒まれた。こんな変わり種のおにぎりを、他に狙っていた人がいたことに驚いた。最後の一個ということも無いし、腕を下ろしてそのひとつを譲ろうと顔を向ければ、そこには一人の男が立っていた。その男の容姿などに抱いた感想を省けば、私が彼に抱いた感想はただ一つ。何故ここにいる?というものだった。体の奥底から警報が鳴る。逃げろと叫ぶ自分がいる。どうして?何故?と疑問をめぐらせる頭では、そんな自分自身からの警報に反応できるほどの余裕がなかった。その男は昔と変わらない、意地の悪い笑みを浮かべて私の手を掴んでいる手に力を込めた。


「久しぶりだな」


 声をかけられたのを合図に、男の手を振り払って一目散にその場から逃げ出した。入学してから今まで、まともに人と関わってこなかったせいで知らなかった。あの男が同じ高校に進学していたことに。その事実は私にとって、結構絶望的なものだった。どうして今まで、こんな危険な人物が近くにいたのに気が付かなかったのか。己の危機感の無さに呆れを通り越して、一周まわって怒りが込み上げてきた。

背後から彼が私の名前を呼ぶ声がする。気持ち悪くて吐き気を催した。背筋がゾッとして悪寒がする。やめろ。黙れ。心の中の叫び声が止まらなかった。なんでこのタイミングで私に話しかけてきたのか分からないが、とりあえずもう二度と関わりたくないので、私は全力で彼から逃げた。


「白峰風虎か」


 おにぎりを買いに行ったくせに、息を切らし、顔を真っ青にして帰ってきた私を見て、先生はただ事ではないと悟ったらしい。いつもは頼んだものを買ってこないと有り得ないほど怒るくせに、今回はお咎めなしで話を聞いてくれた。話を聞いた先生は、顎に手を当てて私が告げた男の名前を口にした。白峰風虎という男は、昔からここらの土地を収めていた地主の家系なんだそうだ。移り変わる時代の中でも財産を失うことはほとんどなく、今では「白峰グループ」という有名な金融グループへと成長している。確かサッカーの世界大会かなんかに協賛していて名が広まったはずだ。白峰風虎も小学校の頃からサッカーの界隈では有名だったと噂で聞いたことがある。

私は小・中学校時代の彼しか知らないので先生から高校での評価を聞いた。どうやら白峰風虎は成績こそいいものの、授業態度が最悪な問題児として職員室で名を馳せているらしい。先生も現国の授業で苦労していると話した。それでいて小テストなどではいい点数を叩き出すから、タチが悪いのだと。まるで教師たちを下に見ているような態度だと先生は続けた。プライドが高すぎると。今日の一冊がちょうどその本だからだろう、ふと頭に浮かんでしまった。


「まるで李徴のようですね」


 李徴とは中島敦の小説、『山月記』に登場する主人公の名前である。とても高い自尊心を持ち、その自尊心を傷つけられたことによって虎となってしまう男だ。私の言葉に先生はニヤッと笑った。この笑みこそ私たちの文学談義が始まる合図である。だがしかし、ちょうどよくチャイムが鳴ってしまった。もう少しで五限目の授業が始まってしまう。国語科準備室を飛び出して、教室へ駆け出しながら思う。そういえば彼の名前に虎の字が入っていた気がする、と。そして私は虐められていた当時から、彼のことを人間だと思ったことは一度も無かった。

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