ムスクの香り
紫椿
ムスクの香り
僕は悩んでいた。
「僕、ここ辞めようかなあ」
テーブルに頬杖をつき、空になった紙コップを弄りながらそんなことを呟いた僕に、カウンターに立っていた相沢は「えっ!?」と声を上げた。
相沢は急いでカウンターから出てきて、僕の向かいの椅子に座った。
「ユキくん、辞めるんですか?」
「うーん、割と給料いいし気に入ってたんだけど。連絡先とかしょっちゅう聞かれるの面倒になってきた。この前なんて退勤のときにあとつけられたし」
「ああ…。ユキくんお客さん引き悪いですよね〜。まあ、こんなイケメンに添い寝してもらったらついついすきになっちゃうよなあ」
この店は最近少し話題になっている添い寝カフェだ。ここは店員が全員男性で、所謂女性向けの添い寝カフェである。店員にイケメンを揃えているのが売りらしい。
「まあでも、店長に止められると思いますよ。ユキくん、西尾先輩に次ぐナンバーツーだし」
「ホストみたいにいうなよ」
「だってこんな綺麗な顔の人そうそう見つかりませんよお!十人中十人はイケメンだっていいますよ、ユキくん。ユキくんの顔を見たお客さんの女の子が緊張しすぎて吐いたの、いま思い出してもウケます」
僕の向かいに座るエプロン姿のこの男は相沢拓馬。この添い寝カフェは一階がテーブルと椅子、カウンターがある簡易的なカフェになっていて、二階に添い寝用の個室がある。相沢は一階のカフェスペースで働いていて、いつもほんのりレモネードの匂いがしている。ちなみにカフェのメニューはレモネードしかない。僕より二つ下の二十三歳だ。いつも弾けるような笑顔を浮かべていて人当たりもよく、太陽が人になったら相沢みたいなやつだろうなと思う。
「まあ、もうちょっと考えてみる。辞めたあとのこともあるし」
「辞めないでくださいよ、俺寂しくなっちゃいますから。レモネードおかわりします?」
「うん」
相沢がぱたぱたとカウンターの中に戻っていった時、からんからんと音を立てて店のドアが開いた。
19時を回ってすっかり暗くなった外。ドアを開けたのは、スーツ姿の一人のサラリーマンだった。
「い、いらっしゃいませー」
男の客が来るのは珍しい。相沢は物珍しそうな顔で男に駆け寄ると、受付を始めた。客の最初の受付も相沢の仕事である。
「ご来店ありがとうございます。当店は初めてですか?」
近くに座っているというのに、男はぼそぼそと小さい声で話すせいで全く会話が聞こえない。
「予約されていらっしゃらないので、今空いている店員になりますね……はい。よろしいですか?では、そちらの椎原が担当いたします」
名前を呼ばれてぎょっと振り返ると、相沢が僕に向かってウインクした。圧倒的少数の男性客は殆ど西尾先輩が担当していたから、男のお客さんは初めてだった。
「よろしくお願いします」
僕が立ち上がって言うと、男は僕の顔を見て暫く静止し、その後僅かに此方を向いて無言で会釈をした。目は前髪に隠れて見えなかった。
隣を歩いて、二階の個室へ移動する。男は僕よりも背が低くて、細身で肌は雪のように白く、真っ黒の髪は前髪が長くて表情が伺い辛い。ちょっと幽霊みたいだ。
よれたスーツを見に纏い、疲れた様子の男の歳は僕よりも少し下に見える。二十三歳くらいか。
「どうぞ…」
と言って個室のドアを開ける。狭い部屋にベッドと小さい机、間接照明があるだけの質素な部屋だ。
男は無言で鞄を置いて、もぞもぞとベッドに潜り込んだ。
何もコミュニケーションとかないのか、たのむからなにかはなしてくれ、とおれは困惑したまま、そっとベッドに入った。
男は僕に背を向け、壁のほうを向いて横になっていた。部屋は恐ろしいくらい静かだ。
「………………」
き、気まずい!気まずすぎて死にそう!
女の子相手だとすらすら会話ができるのに、男相手だと何を話したらいいか分からない。ていうかこの男は本当に添い寝してほしいと思ってるのか?一向にこっち見てくれる気配がないけど。
僕はしばらく待ってみた。初めてでちょっと緊張してるだけで、慣れたらこっち向いてくれると思った。緊張してるだけだよね?
しかししばらく待っても男はこっちを向かなかった。この男はなんで添い寝カフェに来た!?おまえのニーズはなんなんだ!?僕はついに耐えられなくなった。
「あ、あの………」
僕は布団を目元まで被って、男の背中に話しかけた。
「………」
男は応えない。
「え、あの、起きて、ますよね………」
男はそれでも応えなかった。
「寝てるんですか…?」
僕はひどく慎重に、そっと男の顔を覗き込んだ。
「ね、寝てる…………」
男は眠っていた。瞼を閉じて、すうすうと静かに寝息を立てている。透き通った白い肌と綺麗な目鼻立ちで、素朴だけど綺麗な顔だと思った。疲れたサラリーマンのくせに、僕より童顔だ。
「なんだよ、それ……」
とおれはぼやいて、ベッドにゆっくり頭を戻した。
何も話さずに寝る客なんて初めてだ。お金の無駄じゃない?寝るだけなら自分の家で寝ればいいのに!僕は特大級の溜息を吐いて布団を被った。
することがなくなってしまった僕は部屋の電気を消してスマホの画面の明るさを一番暗くしてSNSなんかを眺めながら、時間が過ぎるのを待った。
一時間ほど経った時、男が寝返りをうってこちらを向いた。僕はスマホを消して男の寝顔をじっと眺めた。
隈がひどいけどやっぱり綺麗な顔。ふんわりした黒髪が気持ち良さそうで、そっと手を伸ばした。ふわふわしているけどさらさらで気持ちよかった。
それにしてもガッツリ寝てるなあと思っていると、ふと、男の閉じられた瞳からひとすじの涙が流れ出した。部屋をぼうっと照らす小さい照明の光が反射して暗闇のなかで涙のしずくがきらきらと輝いている。僕はぎょっとして手を引っ込めて、男の様子を伺った。男は起きない。
仕事帰りに一体どうしてこんなところに来てこの人は眠っているんだろう、何かいやなことがあるのかな、なんてぼんやりと考えながら、僕はもう一度手を伸ばして、頬の涙のしずくを指でそっとすくいとった。
事情はしらないけど、よく眠れるならまあそれでもいいか、と思って、男の背中をやさしくゆっくりと叩いてやった。
結局時間になっても男は起きなかった。
「あの、すいません、時間です」
と僕がとんとんと肩を叩くと、男は一瞬眉をしかめたあとゆっくりと目を開けて、しばらくきょろきょろと困惑したように周りを見て、二時間前のことを思い出したのか急に冷静になって起き上がった。
「……ありがとうございました」
男はそれだけ言うと、鞄を持って逃げるように部屋から出て行った。僕がありがとうございましたと言う暇さえ与えずに。
「ああ、本当………なんだったんだ、あの人」
部屋に一人残された僕は呟いた。
次の日、またあの男は同じ時間に店に来た。しかも、今度は僕を予約して。
相沢が「ああ、今日ユキくん19時からあの男の人の予約入ってますよ〜」と言った時はあまりに驚いて転びそうになった。
結局その日も一言も話さずに男は眠った。
次の日も、その次の日も、男は店に来て僕の横ですやすやと眠った。進展といえば僕の方を向いて眠ってくれるようになったくらいで、僕たちの不思議な関係はしばらく続いた。
僕がいつものように一階のカフェスペースで休んでいると、ふんわりとレモネードの香りが香った。後ろを向くとやっぱりレモネード男の相沢がいた。
「はあ………」
「俺の顔みて溜息つかないでくださいよ!なんですか?なにかお悩みですね〜あの男の人のことですか?」
向かいの椅子に座った相沢に僕は驚きの目を向ける。
「え、何で、わかるの!?」
「わかりますよ〜!ユキくんの考えてることは」
「怖……」
レモネード飲みます?と相沢が言うので、いい、と断って僕はもう一度溜息を吐いた。
「あの人、いつも来るけど何も喋らないんだよ。さっさと寝て時間が来たらさっさと起きて帰ってくの。僕ってどうするのが正解なわけ?ていうかいつも僕を予約してるけど別に僕じゃなくてもいいよね?だって喋らないんだし、誰だっていいじゃん、そんなの」
相沢はうーんと唸った。
「もう何回も寝てるのに名前も知らないんですね。もうちょっと上手くいってるのかと」
「語弊あるなその言い方。そうだよ。おまえ、あの人の名前しってる?」
「そりゃ知ってますよ。俺は受付だから」
「教えろよ」
「真壁。真壁 優さん」
「まかべ……ふうん」
「真壁さん俺と同い年なんです。二十三歳。ユキくんの二つ下ですよね。真壁さんにユキくんの年齢教えたら、めっちゃびっくりしてました。めちゃくちゃイケメンだし、絶対年下だと思ってた、って」
「はは、なにそれ。……って待って、おまえ、あの人とそんな喋ったの!?」
いつもの良い笑顔を浮かべている相沢はその顔のまま「はい」と屈託のない返事をした。
「いつ!?なんで!?」
「予約の時間まで時間があるからって、たまにここでレモネード飲んで時間つぶしてるんですよ、真壁さん。それでよくそこのカウンターでお話するんです。俺あの人好きです。俺が作ったレモネード、美味しそうに飲んでくれるから。ほら、ここのお客さんって添い寝目的に来るから、俺が作るレモネードなんてみんな興味ないでしょ?飲んではくれますけど………だから、あの人が美味しい美味しいって言いながら飲んでくれるの、本当に嬉しくて」
「そ、そうなんだ……」
相沢は心底嬉しそうな顔を浮かべていた。僕には喋ってくれないのに相沢には喋るのか、あの人。
「僕のこと、何か言ってた?」
「ああ…、初めて見たときイケメンすぎてめっちゃびっくりしたって言ってましたね」
「それだけ?」
「うーん、はい、そのくらいですね。他は特にはないです」
僕は落胆の溜息を吐いた。
「気になることがあるなら本人に聞いてくださいよ…」
「いや、喋りづらいし…」
「あの人も同じこと思ってると思いますよ。ユキくんから話しかけなきゃ!」
話しかけたら迷惑そうな顔されそうで不安だ。本当に眠りに来ているだけみたいだし。僕はうーんと唸ってまた小さく溜息を吐いた。
「でも一つ言えるのは、あの人、別にユキくんじゃなくても隣で寝てくれるなら別の人でもいい、とは思ってないと思いますよ。待ってる間、ユキくんの隣で寝るの、実はちょっと楽しみにしてる顔してますから」
相沢は爽やかな笑顔で言った。
「そっか…良かった」
「だから次は話してあげてください!」
「うん、そうする」
僕があの人と話してみることを決意したその日、あの人は店に来なかった。
「今日、あの人来ないのかな?」
「うーん…予約は入ってないんですよね〜」
その日はまあそういう日もあるよな、と思ったけど、次の日もその次の日も、結局三週間経ってもあの人は来なかった。
あの人が来なくなってから三週間が経ったその日、22時に僕は店を閉めて、私服のニットとズボンに着替えて、ロングコートを羽織って店の外に出た。外はすっかり冬になっていて、吹き付ける風は凍えるほど冷たい。東北ではもう雪が降り始めているらしい。家まで帰るの寒いなあと考えていると、此方に歩いてくるスーツ姿の男が見えた。
あの人だった。
彼も僕が居ることに気付くと、少しだけ驚いた顔をして足を止めた。
「…こ、こんばんは」
僕が言うと、彼はぺこりと頭を下げた。
彼は初めて会った時よりもさらに疲れている様子だった。疲れた顔色の悪い白い顔と、よれたスーツ。今にも倒れそうなくらい弱々しい。
「こんな時間に、どうしたんですか…?」
僕が訊くと、彼は暫く困ったように視線を右往左往させた後、ゆっくりと口を開いた。
「……もしかしたら間に合うかも、と思って来たんですけど、間に合いませんでした」
と言って彼は自嘲するように鼻で微かに笑った。初めてちゃんと聞いた彼の声は心地のいいテノールで、猫みたいな顔によく似合う落ち着いた声だった。
「帰りますね、すいません」
と彼が踵を返したので、僕は咄嗟に彼の手首を掴んでいた。
彼は目を丸くして僕を見た。
「あ、あの」
口が渇いて上手く喋れない、なに緊張してるんだ、僕!
「ちょっと、休んでいきますか……?」
絞り出した僕の言葉を聞いた彼は目をまんまるにしたまま固まった。頬がぼうっとあつくて、多分僕いま顔赤いだろうなと考えると恥ずかしかった。男だからいいけど、こんなの相手が女の子だったら僕はクビだろうな。
電気を消して、布団の中に入った彼は安心したような溜息を一つ吐いた。疲れた顔が少し落ち着いたように見える。
「ずっと貴方と話がしたくて」
同じ布団の中で向き合って、僕が呟くと彼は無言で僕に視線を向けた。彼の前髪の隙間から見える猫みたいな知的な涼しい目とかち合った。
「なんで急に来なくなっちゃったんですか?」
「…仕事が、忙しくて」
「そっかあ。心配してたんですよ〜毎日来てたのに来なくなったから。どこかで死んじゃったんじゃないかと」
と言うと彼は「生きてますよ」と笑った。猫みたいな目が細くなった。
「なんで毎日来てくれてたんですか?」
僕はずっと気になっていたことを聞いた。喋りもしないのに、僕を選び続けた理由を。
「眠れたんです」
「え?」
「貴方の隣だと、眠れたから」
彼は天井のほうを向きながら喋り始めた。
「此処に初めて来た日、あの時期の俺、仕事のストレスで全然眠れなくなってて。色々試したんですけど、本当に眠れなくて………偶然この店のことを知って、来てみたんです。そうしたら…何でかわからないけど、貴方の隣だと眠れたんです。だから、毎日ここに寝に来るようになって」
彼は照れくさそうに「だから、ありがとうございます」と笑った。
「そっ、かあ〜……。僕、びっくりしたんですよ。最初。何も話さずに寝ちゃったから。でも、そういうことならよかったです」
「え?ふ、普通はどんなことしてるんですか?」
「え?普通は……こうやって話したり、あとはマッサージとか…膝枕とか、あと、ハグとかしたり」
「…え、あなたみたいなイケメンが女の人とそんなことして、大丈夫なんですか」
彼がキョトンとした顔で言う。
「ん〜?そうだなあ、まあ、たまにハグ以上のことを求めてくる子もいるけど、ここはそういうお店じゃないからなあ。あくまで大事なお客さんだし」
「そういうもんですか…」
「僕のことイケメンだと思ってたんですね?」
「そりゃ、思いますよ……。初めて見たとき、小さい顔に高い鼻と大きい目が収まっててすごくびっくりしました。アイドルみたいだなあって…」
「照れますね」
「嘘だ、言われ慣れてるでしょう」
「ふふ」
「俺、男だけどこうやって同じ布団で向かい合ったらちょっと緊張します…」
「女の子のお客さんが緊張しすぎて吐いたことあるよ」
彼は「本当ですか」と笑った。心地良いテノールがころころと揺れて部屋に小さく響いた。
「僕、椎原由紀っていいます。よかったらユキって呼んでください」
「俺、真壁優です」
「優くんって呼んでいい?」
「はい」
可愛い顔に似合う可愛い名前。僕が欠伸を一つこぼしたので、布団を深く被りなおすと
「そろそろ寝ますか?疲れてるでしょ、優くん」
「はい、明日も仕事があるので…そうします」
「大変だね」
今相当大変な時期なんだろうなあとぼんやり考えながら、遠慮がちに目を閉じた彼の顔を見つめた。
ゆっくりと夜の時間は過ぎていったけれど、彼は暫くしても眠れない様子だった。
「眠れない?」
と僕が囁くと、彼は目を開けて控えめに頷いた。
「目を閉じたら仕事のこと考えちゃって…」
「うわあ、追い詰められてるねえ」
彼は苦笑いをこぼした。
「ハグする?」
と僕が唐突に言うと、彼は「えっ」とやたら大きい声を漏らして僕から視線を逸らした。
「い、いいです…」
「ハグってすごいストレス解消効果あるんだって。ちょっとだけやってみたら意外といいかもですよ?誰かが見てる訳じゃないんだし」
彼はまた困ったように視線を右往左往させて、かなり迷った後ゆっくりと口を開いた。
「じゃ、じゃあ、少しだけ……」
「ん」
僕は彼の枕に移動して、顔を近付けると彼の背中にそっと腕を回した。リネンの香りに混ざって彼の素朴な柔軟剤の匂いがふわりと香った。彼の背中に添えた手から、彼の温もりがじんわりと感じられる。彼は僕の胸あたりに顔を埋めてじっとしていた。
「だいじょうぶ」
と囁いて、彼のふわふわした髪の毛を撫でつける。そしてまた背中に手を戻すと、心臓の鼓動に合わせてゆっくり、ゆっくりと優しく撫でた。
このお店の人気ナンバーワンの西尾先輩は「僕たちの言葉は宝石だ。甘い言葉を囁けばそれだけお金になるし、だからこそ僕たちは言葉を安売りしちゃいけない」と僕に言った。僕はその言葉に従ってきたけど、たまにはちょっとした宝石ぐらい、いいよね。
「おやすみ、いい夢みてね」
彼は何も言わずにすすすと控えめに僕に腕を回して、何だかそれが面白くて、僕は「ふふ」と小さな笑みをこぼした。
*
初めて会った時、なんて美しい人なんだろうと思った。目が醒めるような美形とはこの人のことを言うのだと思う。寝不足でぼやぼやしていた意識が、その人を見た瞬間すうっと透き通ったのがわかった。イケメンを見ると目が良くなるというのは本当だ。
すらりと背が高く、真っ白のTシャツに黒のスラックスというシンプルな格好なのにその風貌は上品で、東京の繁華街の外れにあるこの店とは正直似合わない。まるでどこかの御曹司だ。
アーモンド型の綺麗な目とキリリとした眉毛は誠実そうな印象を与え、整った輪郭と、ラフに整えた黒髪、艶めかしい唇は嫌味のない品の良さと優しさを漂わせている。全てのパーツが完璧な位置に配置されていて、こんな人間が生まれてくることがあるのかと俺は感心した。
最初は恥ずかしくて布団の中では背を向けていたけど、背中から感じるあの人の小さな息遣いや体温が俺を安心させて、気付いたら眠りに落ちていた。仕事の嫌なことを忘れて心地良く眠れたのは久しぶりだった。それから毎日この店に足を運ぶようになった。背中を優しくトントンと控えめに叩いてくれるのが好きだった。
一緒に布団に入るあの人からは毎日違う香水の匂いがした。今日はお花の匂いだな、とか、石鹸っぽい香りだな、だとか色々あったけれど、それらはいずれも女の人の匂いなのは明確だった。まるで芸術作品のような彼と少し仲良くなろうなんて、烏滸がましいと思っていたし、そうして距離を保つのが正解だと思っていた。
だから、あの日、帰ろうとして引き留められた時は本当に驚いた。喋ってみると意外と人間らしく、ころころと良く笑う人だった。笑うと目が少し細くなって、口元は潤った美しい三日月を描く、まるで花が綻んだような笑顔を向けられる。俺は男だし性的嗜好はノーマルだけど、この笑顔には思わず目を奪われた。男とか女とか、そういうものを超越した美しい人。
だから眠れない俺に「ハグする?」と言った時は本当に動揺した。そんな俺とは打って変わって提案した彼はきょとんと純粋なきらきらした目を俺に向けていて、俺は余計に動揺した。
「じゃ、じゃあ少しだけ…」
「ん」
と言って彼は俺と同じ枕に移動してきて、鼻と鼻が触れ合いそうなくらい顔が近付いた。俺は咄嗟に目を逸らして(というかあの距離であの顔を見られる自信がない)、俺の背中に腕を回されるのを待った。そうして彼に促されるまま、彼の胸元に顔を収めると、少し落ち着いた。彼からはいつもと違う匂いがした。普段の甘い女の匂いではなく、爽やかで品の良いムスクの香り。深呼吸したくなるその香りはきっとこの人の本当の香りだろう。直に伝わるあたたかい体温が心地良く、微かに感じる心音は心を穏やかにさせる。彼は俺を抱きしめたまま俺の髪を片手で軽く弄んだりして、また手を背中に戻して優しく撫でた。
「おやすみ、いい夢みてね」
あたたかい体温のなか、耳元で深く響く彼の囁きは俺を眠りへと誘う。俺が彼に腕を回すと、彼が「ふふ」と小さく笑ったのが聞こえた。天使みたいに綺麗で、それでいて底のない魅力を持った悪魔みたいな人だ。
*
その日から、優くんは毎日ではないけれど来られる日はまたお店に来るようになって、その度に僕たちは布団の中で少し話して、まどろみのなかで一緒に眠りについた。
「ユキくーん、そういえば辞めるって話どうなったんですかー?」
昼下がり、今日もレモネードの香りを漂わせる相沢は手作りのサンドイッチを頬張りながら僕に尋ねた。
「ん、ああ、やっぱまだ続けることにした」
「そーですかー!よかったー!」
相沢は眩しい笑顔を浮かべて、サンドイッチを持って僕の向かいの椅子に移動してきた。
「そうだ、俺ちょっと聞いちゃったんですけど…」
と相沢は周りには誰も居ないのに周りを気にする素振りをして、僕にずいっと顔を寄せると小声で話し始めた。
「西尾先輩のことなんですけど…」
「うん」
「あの人、女の子でも男の子でもどっちでもいける人じゃないですか」
「ああ、言ってたね」
「それで…その…」
「何だよ」
「今、西尾先輩、真壁さんを狙ってるらしいです…」
「はああ!?!」
相沢は「声でかいですよ!」と僕を引っ叩いた。
「なんで?西尾先輩と優くんって関わりあるの?」
「その…今まで黙ってたんですけど、真壁さんが一階でユキくんの予約の時間待ってる時、けっこう西尾先輩が真壁さんに喋りかけに行くことが多くて…。最近は特に仲良くなったみたいですし、真壁さんが笑いながら喋ってるところよく見ます。真壁さんって笑うんだなあってビックリしましたよ〜…」
「はあ……」
「だから、ユキくん、頑張ってくださいね」
「は?」
相沢は立ち上がると弾ける笑顔で言った。
「ユキくん顔良いからって油断してるとヤバいですよ!」
相沢はそれだけ言って、手をひらひら振りながらキッチンに戻っていった。
「なんだあいつ…」
僕の呟きは、相沢に聞こえることなく店の中の生ぬるい空気に溶けていった。
ムスクの香り 紫椿 @kozakana
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