【終話:葛見千花SIDE②】

 それから一週間が過ぎた頃。千花は、専門学校がある千葉を目指してひた走る電車の中にいた。

 頬杖をつき、窓の外の景色を見続けていた。住み慣れた土地が、どんどん遠くなっていくのを意識すると、募る不安に心が波立ってくる。気を紛らわすため、鞄の中から便箋を取り出して膝の上に置いた。

 あの日、冒頭部分だけを読み、しまっておいた父からの手紙。

 この手紙が存在しているという事実は、ある種の歴史改変にあたるのかな、と千花は思う。

 でも……パパの所から戻ってきたあの日、時間旅行の管理事務所で、自分の行動を咎められることはなかった。

 となると、と千花は首をひねる。

 私が置いてきた手紙も、この返信の手紙も、予定調和の一つとして、元々存在していた物なのだろうか?

 いやいや、それはおかしいじゃないか。この程度の変化ならば、許容範囲のうち、と考えるのがごく自然だ。

 どのくらいの変化まで許されるのだろう、と彼女は考え、もしかしたら……と次の可能性を頭に浮かべたところで考えるのを止めた。

 だってそれはやっぱりまずい。お父さんがお父さんじゃなくなっちゃうし、何よりも花音の存在が消えてしまうから。

 気を取り直して、再び便箋に目を通していく。

『拝啓。十八歳になった俺の娘、千花へ』

 そんな書き出しで、手紙の文面は始まっていた。


   ◇


 数年前に別れた未来の娘に手紙を書いている今の心境は、正直、なかなか複雑なものがあります。

 今日、筆を取ろうと考えたのには、二つ理由があります。

 俺たちが、最初に出会った日のことを覚えているでしょうか?

『私、あなたの娘です』などと、荒唐無稽な台詞を口走った君のことを、虚言癖のある女子高生、もしくは、性質の悪いイタズラなのではないかと、当初は疑っていました。

 でも、君は必死だった。

 俺のことを気遣い、サポートをし続けてくれる君に惹かれていき、いつの間にか、疑念のすべては吹き飛んでいました。

 今にして思えば、君が俺の所にきてくれたからこそ、透子とも出会えたような気がします。

 ありがとう。俺のところにきてくれて。

 ありがとう。俺のことを、愛してくれて。

 けれども君は、突然俺の前からいなくなってしまいました。だからどうしても、感謝の気持ちを言葉にして伝えたかった。

 これが、一つ目の理由です。


 それから二つ目の理由。

 今日俺は、君と喧嘩をしてしまいました。

 理由は、ささいなことかもしれません。でもね、俺はわかっているんです。君が六歳の誕生日を家族で慎ましく過ごすことを、どんなに楽しみにしていたのかを。

 俺は、父親らしいことがあまりできていないように思います。

 春から野球部に入った孝人ともキャッチボールをしてやれていないし、君とも平日はほとんど会えていません。毎日、仕事で帰りが遅くなってしまうから。

 君が、休みの日はお出かけをしたいと、透子にダダをコネていることも知っています。

 だから透子にお願いをしておきました。せめてもの罪滅ぼしに、明日は千花をデパートに連れて行ってやって欲しいと。

 このくらいのことしかできない父親のことを、どうか、恨まないでください。



 ――知らなかった。あの日デパートに行ったのはママの気遣いだと思っていたけど、違ったんだ。



 ああ、そうだ。一つだけ忘れていました。

 十八歳になった君のかたわらに、俺はいないのでしたね。

 どうして側にいられないのか、今もまだわかりませんが、真実を伝えられないことで、君が苦しんでいるのだけはよくわかっていました。

 だからもし、まだ美容師になることを反対されているのなら、この手紙を透子に見せなさい。

 透子。

 千花の夢、どうか叶えてやってください。娘が本気であることは、他ならぬ君が一番よくわかっていることとは思いますが。



 千花の口から、ふ、と笑みが零れた。

 ──大丈夫だよ、パパ。私、専門学校に行けることになったんだよ?

 それに、もしかしたら……美容師になることをママが許してくれたことすらも、パパのおかげなのかもね?



 いいかい、千花。

 どんなに辛いことがあっても、下を向かないこと。必ず前を向いて生きていくこと。お前の側には、いつでも父さんがいるから。


 それでは、これが最後の言葉です。

 千花と出会ったあの年の冬。あのとき俺は確かに君のことを愛していました。娘としてではなく、一人の女性として。

 この手紙を読み終わったら、『何を言っているんですか』と笑い飛ばしてください。君の得意な、たとえ話でも使って。


   ◇


 手紙を読み終えたとき、千花は胸に何かが刺さった気がした。痛みのあった場所に手を持っていくが、そこには何も刺さってはいない。それなのに、じわりとした痛みが手のひらの下から広がる。火を焚きつけられたみたいに、胸が切なくなってくる。

 本当はね、と千花は思う。旅行に行ったことを心のどこかで後悔していた。私は、パパからたくさんの思い出をもらってきたのに、彼のところに何も残してこなかったから。未来を変えることもできず。パパを救うこともできず。ただただ彼の生活をかき乱して、感傷のみを置き去りにしてきたんじゃないかと、ずっと心配していたから。

 でも、そんなことなかったんだ。

 通じていた。私の気持ち、ちゃんと届いていたんだ。

 パパは、私が思うよりも、もっとずっと私のことを愛してくれていたんだ。

 窓の外は、いつの間にか雨が降っていた。父が石川県に向かったあの日も、確かこんな感じの雨だった。そぼ降る雨のカーテンにさえぎられ、長閑な田園景色も煙って見える。まだ水がはられていない田んぼも、まだ枯れ木の目立つ山の景色も寂しげだ。空は一面鈍色で、差し込む日の光も控え目だ。そんな、物寂しい風景を眺め、何を考えていたのだろうな、と千花は思う。娘との約束を守ってやれなかった自分を恥じて、うつむいたまま、声もかけてくれなかった娘に対する罪悪感とやるせなさを胸一杯に抱え、電車に揺られていたのでしょうね。今の私とは比べ物にならないくらい、心細かったのでしょうね。

 ゆっくりと目を閉じる。あの日の父の姿を思い浮かべ、背中に声を掛ける。

 ――大丈夫ですよ。

 表面上、怒っているように見える娘だけれど、本当は全然怒ってなどいないのですよ。ただ、あなたに構ってほしくて、気を引きたくて、拗ねてみせているだけなのですから。

 あなたの娘は、あなたが思うよりももっとずっと、あなたのことを愛していますから。あのときも、今も変わることなく、あなたのことを愛していますから。

 だから、自分のことをどうか許してあげて。今はただ、あなたが愛した妻のことを考え、二人の子どもと過ごした日々の記憶に思いを馳せて、心地よい電車の揺れに身を委ねていれば良いのです。あなたと娘は、実のところもう二度と会うことはないのだけれど、何も心配はいらないよ。会えなくなったそのあとも、娘は変わることなくあなたのことを愛していますから。決して、忘れることなどないのですから。絶対に。でも――。

「ゴメンね。パパ」

 パパが天国で元気でいますようにと千花は思う。私は大丈夫だから。だからどうか、安心して……安らかに眠ってください。私の大好きなお父さん。

 流れていく車窓の景色を眺めているうちに、茅ヶ崎の海を二人で目指した日の記憶が蘇る。千花の口からは、自然と懐かしいメロディーが紡がれていた。


 ──君は今も元気でいますか? さびしくなど、していませんか?

 ──私は今、君のことをふと思い出して、少しだけ涙があふれたよ。


 そして彼女は今日、初めて父との約束事を一つ、

 破った。

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