【終話:葛見千花SIDE①】
【
仏語。福徳の因を積めば、福徳の果が得られるということ。
歴史は覆らない。
変わらないこと。変えられないことがルールであるが故に。
けれど、不変の想いは形となって、彼女の手元に舞い戻る。
Afterday
──epilogue 葛見千花 side
『あなたは元気でいますか? 寂しくなど、していませんか?』
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
小さな鳥が、車窓すれすれに飛んでいく。まだ青味がちな空の色が、沈んでいる千花の心を投影しているようでもあった。やがて、小鳥の姿も、街の景観も、光に包まれて消える。
列車が時空を越えたと認識したその時、彼女は
◇
──今振り返ってみても、あれは、夢のような七日間だったのだ。
旅立ちの日に感じていたこと。
それは――若かりし日の父と出逢い、僅かばかりの時間を共有し、最後は辛い気持ちになりながらも、笑顔で手を振り合って別れる。そんなシチュエーションになれば良いな……という漠然としたイメージでしかなかった。
だが同時に、多くの不安も抱えていた。
自分が娘であることを、父親は信じてくれるのか?
その上で、自分のことを受け入れてくれるのだろうか?
深く思い巡らすほどに、彼女の心配事は尽きなくなった。
だがそれらも、すべてが杞憂だった。父親は彼女のことを優しく受け入れ、彼女も父親のために尽くしているうちに、どうしようもなく惹かれていった。
よく人は、自分の両親に似ている人を、恋愛対象に選ぶと聞いたことがある。両親と長い間一緒に生活していることから、男性像として、父親が潜在意識にくっきりと刻み込まれてしまっている。だから本能が鋭く嗅ぎわけて、似ている人を選ぶのだそうだ。彼女の場合は似ているどころか実の父親なのだから、それはごく自然な成り行きだったのかもしれない。ダメだ、これはイケない恋だと頭では理解しながらも、日々募っていく切ない想いは、もう抑えられなくなっていた。
最後の日。手紙だけを残して出てきたことを、
気持ちを伝えたかった。
キスから先のことも、して欲しかった。
考えれば考えるほど、彼女の胸は締め付けられるように苦しくなった。
だからこそ千花は、
美容師になるための勉強を、無心でした。春から始まる新生活に向けての準備に奔走し、それも滞りなく終わろうとしている。
それでも──胸の中には大きな
忘れよう、忘れようと何度努めても、募る想いは膨らんでいくばかりだった。
千花が元の世界に戻って来てから、半年以上もの月日が流れていた。
時刻は夕方。千花がリビングに入ると、魚を焼いている香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
その他にリビングにいたのは、千花と十二も歳の離れた妹だけ。千花はキッチンのカウンターに肘を載せると、母親の背中に声を掛けた。
「ママ、何か手伝えること、ある?」
「うーん、そうだねえ……。じゃあ、キャベツをみじん切りにしてくれる?」
「わかった」
千花はお気に入りのエプロンを腰に巻くと、母親の隣に並んで立った。こうして並ぶとよくわかるが、肩の高さは丁度同じくらいになる。いつの間にか、親の身長に追いついていたらしい。
包丁を握り締めながら、懐かしいな――と彼女は思う。短い滞在期間ではあったけれど、最後のほうの数日間は、父親の栄養バランスを考えながらメニューを決めていたものだ。
──最初の頃は、安直にパスタにしたっけ。
包丁がまな板を叩く音をリズミカルに響かせて、千花はそんなことをふと思う。
「しばらく見ないうちに、随分と上達したものね」と彼女の母親──
「んー、そうでもないよ。強いて言えば、ママの教育のおかげかな」と千花は謙遜してみせた。
母親が再婚をしたのは、千花が小学六年生になった頃。相手は、佐々木さんという母親より二歳年下の男性だった。母親の姓が変わったのもその時で。夫と死別後、母方の実家に身を寄せるにあたり旧姓である葛見を名乗っていたが、そこから再婚を経て佐々木姓に変わった。
そんななか、家族の中で千花一人だけが、母親の実家に籍を残すことによって、変わることなく葛見姓を名乗り続けていた。
葛見と言う姓が珍しいから、とか、新しいお父さんのことが嫌いだったから、とか、そんな理由では決してない。
その時になって初めて、秋葉姓を残しておかなかったことを千花は後悔する。とはいったものの、幼い頃の彼女ではそこまで頭が回らなかったし、親子で別姓を名乗る方法・手段もなかった、というだけの話なのだが。
「ねえ、ママ。パパと最初に出会ったのっていつ頃だったの?」
「どうしたの、藪から棒に?」
くすぐったそうに笑んで、母親は千花の質問に答えてくれた。そこに思い出す過去でもあるみたいに……天井を見上げながら。
「私が最初に彼と会ったのは、高校の卒業を間近に控えた頃。場所は、電車の中だったのよ――」
一番最初のデートは映画館で。でも女性経験の薄い彼にしてみると、具体的な案は幾つも持っていなかったみたい、そう言って、思いだすように彼女は笑った。二回目のデートはドライブ。これは、彼の中でもとっておきのデートプランだったんでしょうね。その日の夜に、交際を申し込まれちゃった。私とあの人は歳の差が七つもあったから、どうしようかな……と酷く迷って。でもやっぱり、好きになっていたんでしょうね。悩んだ末に、数日後にオーケーした。そこから初めてのキスまで、それはもう……何日も何日もかかっちゃって。本当にあの人は
熱を帯びたように話し続ける母親の横顔を見ながら、本当にパパのことが好きだったんだな、と千花は思う。丸い襟首から覗く細い首筋。ほうれい線も薄っすらとしか浮かんでない口元。母親は四十代の半ばにしては、若く見える方だ。
「うん。ありがとう千花。もう、大丈夫よ」
母親の言葉を受け取ると、千花はエプロンを外しながらキッチンを出る。リビングに引きこまれると、アニメを視聴している幼い妹の対面にあるソファに腰かけた。
母親の再婚からまもなくして、小さな妹が家族に加わる。
生まれたばかりの妹の世話に、母親はかかりきりになっていった。離乳食に。おむつの交換に。突然の夜泣き。見るたびに妹を抱いている母親の姿に、彼女は寂しさを覚え、妹の存在を疎ましく感じた日もあった。
そんな妹も、既に六歳。千花のことを「お姉ちゃん」と慕いついてくる妹のことを、今ではすっかり娘のように愛しく感じ、可愛がっている。
──娘、か。
あの頃のパパも、私に対して同じような気持ちを抱いていたのだろうか。それももちろん嬉しいんだけれど、恋人みたいな目線で見てくれていたなら、もっと、もっと嬉しいな――。
そんな妄想を、常々考えていた。
忘れかけていた自分の感情を思い出して、千花はぼんやりとしていたのだろう。
テレビの前を占拠してアニメを見ていたはずの妹が、自分の顔を覗き込んでいることに、しばらくの間気が付いていなかった。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
気遣うような口調で、妹が訊ねてくる。
泣いている? 私が? 妹に指摘されて初めて、自分の頬を伝う涙の存在に気が付く。彼女は慌てて目尻の涙を拭い、妹の頭を撫でた。
「なんでもないよ、大丈夫。ちょっとだけ、目にゴミが入っただけだから。だから
健在振りをアピールするように拳を握って見せると、妹は瞳をパチクリさせていたが、やがて理解したのか元の場所に移動して座り直した。
泣いちゃダメだ。父親とした約束事を思い出して、千花は上を向いた。
「千花が旅行に行きたいって言った時、私、凄く驚いたの」と母親が、顔だけをこちらに向けてくる。
「私、パパに大好きって伝えてなかったし、事故があったあの日も、喧嘩したまま別れちゃったから……。もう一度だけ、パパの顔を見て伝えたかったの。大好きです。それと、ごめんなさいってね」
でも、私大好きって伝えたかな? 記憶の糸を手繰りながら、千花は思案げに首を傾げた。
「行って良かったじゃない。凄く楽しかったんでしょ?」
「楽しかった?」
私が。楽しかった。胸の内で、二つの単語を反芻してみる。確かにそれは間違いじゃない。けれど同時に、たくさんの切ない想いも抱えて戻って来てしまったので、自分の中でうまく消化できていなかった。
「だって千花、パパに手紙を書いたでしょ?」と母親が言った。
彼女の本当の父親を
手紙のこと、なんでママが知っているのかな? と不思議に思ったそのあとで、
「ああ、そういえば確かに書き置きしてきたよ。去年行った、時間旅行の最終日に、ね」
「そっか、じゃあその時の物なのね。この間、思い出したようにパパの私物を整理していたら、差出人が千花になっている手紙が出てきたのよ。そんな物があるはずない、と思ってびっくりしていたけれど、それで納得したわ」
ほら、と言って、母親が一通の手紙を差し出してくる。長い歳月を越えて彼女の手元に戻ってきた手紙は、表面がそこそこ日焼けしていたものの、目立った損傷もなく綺麗な状態を保っていた。
「あなたから手紙をもらったのが、よほど嬉しかったんでしょうね。あまり思い出とか大事に仕舞っておくような人じゃなかったから。悪いと思ったけど……ちょっとだけ中身見ちゃった。良い旅行になったみたいね」
母親が笑うと、目尻に皺がよった。若いように見えても、こんなとき母親の年齢を実感する。
「勝手に見るなんて酷いよ」
手紙を受け取りながら、抗議の意味をこめて舌を出した。
──懐かしいな。
ほんの半年ほど前のはずなのに、ずっと昔の出来事のように感じられていた。中から便箋を取り出すと、自らがパパに送った手紙に再び目を通していく。色々な記憶が脳裏を駆け巡った。私を背負ってくれた広い背中。運動会で私の手を引いて走った父の姿。転んで泣いてしまった私に、優しく手を差し伸べてくれた姿。――でも、それらすべては遠い過去の記憶となってしまい、今ではおぼろげにしか思い出すことができない。だから彼女の中に残っている記憶の幾つかは、二十五歳の秋葉のイメージにすり替えられた。
すべて読み終えた直後に、わずかに視界が滲む。最後の便箋の末尾に、彼の文字で『ありがとう』と書き添えてあった。どういう意味だろう……? よくわからなかったが、その筆跡を懐かしく感じ指でなぞっていた。
──あれ?
便箋を折りたたんで封筒に仕舞おうとした時、中に別の便箋が紛れ込んでいるのに気が付いた。取り出してみたそれはシンプルな白い紙で、自分宛の名前が書いてあった。少しだけ読み進めてから、再び丁寧に封筒に仕舞う。
いつかもっと寂しくなったら、その時に続きは読んでみようと思う。まだきっと早い。
……それまでは、大切に仕舞っておこう。
「あら、大変。雨が降ってきたわね」と母親が、窓の外へ目を向ける。
曇天の空と千花の心は、同時に涙を流し始めたようだった。でも、潤んだ瞳が溜め込んでいた涙は、零れないように指で押さえた。もう泣かないと、父親と約束したのだから。
「お父さんに傘を持って行ってくれない? 彼、忘れていったと思うのよ」
「わかった」
千花は頷くと、ずっとテレビを注視していた妹に問いかける。「花音も、一緒にお父さんの迎え行く?」
「行く~」と妹は満面の笑みを浮かべた。「お姉ちゃんと、お散歩にいきたいの!」
玄関口で傘を二本持つと、幼い妹の手を引いて雨の中に飛び出した。とたんに傘が全天のスピーカーとなって雨音を耳に運んだ。パタパタ……パタパタ……。
空のずっと向こうから、遠雷の音がひとつ響く。怯えた妹の手を引いて、二人は駅を目指して歩き始めた。
お気に入りの赤い長靴を履いた花音は、終始上機嫌だ。急な雨が作り出した水溜りをめざとく見つけては、躊躇いもなく踏み込んで行く。
妹が飛び跳ねる、バシャバシャという音と共に舞う水飛沫。あはは、花音やめてよ~と抗議の声を上げつつも、一緒になってはしゃぎ回る千花。
いつも無邪気な小さな天使は、ちょっとだけ沈んだ私の心も、雨と一緒に洗い流してくれるようだ、と千花は穏やかに思う。
彼女にも、四つ年上の兄にも、自分の子供と分け隔てなく接してくれる。だから千花は、お父さんのことが好きだった。
しかしお父さんは、千花と血が繋がっていないこと、千花がパパと死別している事実を心のどこかで気に病んでいるのだろう。千花たちの間には、時折他人行儀な風が吹く。千花も頑張って笑顔を作ろうとしてみるものの、どこかぎこちない笑みになる。そんなとき、家族の中で自分だけが佐々木姓を名乗っていないことを、後ろめたくも感じてしまう。そして余計に余所余所しくなる。
――私が、心のどこかで、パパのことを引きずっているからなんだよな。
自分の心を映したように泣き続ける空をそっと見上げた。灰色と、漆黒の闇が交じり合った空の色。泣きたい私と、泣いたらダメだと戒める私。二人の自分がそこにいるみたいだな――と彼女はふと思う。
やがて駅前に着くと、丁度電車が到着したのだろう。改札口から溢れ出てくる人の波。その中に、困ったような顔で空を見上げる男性の姿を認めた。
「お父さん!」と千花は手を挙げて叫んだ。彼は二人の娘の姿を目に留め、手を振りながら近づいてくる。
「傘、持ってきてくれたんだ。ありがとう、助かったよ」
「わたしも一緒に来たの、エライ?」と主張する妹の頭を、お父さんが優しく撫でていた。「花音も、ありがとな」
「よく気が付くお母さんに、感謝したほうが良いですよ?」と千花が意味あり気に笑うと「そうだな。透子は千花に似て、良く気が付くからな」と彼は答えた。
「私が――お母さんに似ているの間違いだよ?」
「ああそうだな、すまない」
そうして、いまだ止まぬ雨の中、三人で肩を並べて歩き始める。青と赤。二つの傘が、雨の中に並んで咲いた。
「そうだ千花、すっかり忘れていたよ。これ、お前にプレゼント」
傘を差し、数分歩いた頃、お父さんが話しかけてくる。千花が顔を向けると、キーホルダーとよく似た物を手渡される。受け取って、顔の前に掲げてみると、『茅ヶ崎サザンC』を象ったストラップのようだ。
懐かしい思い出が、瞬間、脳裏を駆け巡る。
「去年の夏に行った旅行で、千花が茅ヶ崎の海に行った話を聞かせてくれただろう? 最近、仕事の関係で神奈川まで行く用事があったからね。ついでに買っておいたんだ。安物で申し訳ないけどね」
「わ、ありがとう。嬉しいよ」
「それに……来月は千花の誕生日だろう? もうすぐ千花は家を出てしまうから、それまでに、ちゃんとした誕生日プレゼントを買ってやるから」
彼の言葉に、「え?」と千花は酷く驚いた。
「誕生日のこと、覚えてくれていたんだ」
「当たり前だろう? たとえ血が繋がっていなくても、俺たちは家族なんだからな」
その時突然、花音の足が止まる。急に足並みが乱れたことで、妹の手を引いていた千花が、強く引っ張る格好になってしまう。痛かったんじゃないかな、と心配になった千花は、振り返って花音に声を掛けた。
「花音……どうしたの?」
沈黙が、数秒流れた。花音は俯いたまま何も言わない。膝を折ってしゃがみ、千花は妹と目線を合わせる。不審に思って顔を覗き込んだその時、消え入りそうな声がようやく妹の口をついて出る。
「……いやだ」
それは、アスファルトを叩き続ける雨音に、かき消されてしまいそうなほどか細い声で。
「え?」
「お姉ちゃん、もうすぐ家を出ていくんでしょ? そんなのイヤだ。お兄ちゃんも去年いなくなって、お姉ちゃんもいなくなったら、花音ひとりだけになっちゃうもん。──そんなのイヤだ。いかないでお姉ちゃん!」
千花の視界が強く滲んだ。濡れた路面の上に傘が落ちるのも
わずかに震える、その小さな体を夢中で抱いた。
知らなかった。妹がその小さな体で、その小さな心で、辛い気持ちや寂しい気持ちと闘っていたことを。私のことを、こんなにも想ってくれていたことを。
私が抱えていた心配事は、すべて杞憂だったのかもしれない。旅行から戻ってきてまもなく、母親は専門学校へ行くことを許してくれた。今月の末頃、私は新しい街に移り住む。住み慣れた家を出ることを不安に思い、寂しい気持ちを抱えていたのは、私だけではなかったんだ。
同じ屋根の下、こんなにも気にかけてくれる家族がいる。
全員の血が繋がっていなくても、こんなにも想ってくれる家族がいる。
隣で微笑むお父さんと、胸の中で泣き続けている妹を見ながら、私の家で共に暮らしてきた人たちを、家族だと思い続けようと千花は思った。
いつの日か妹が、私とは親が違うことに気が付いたとしても、私は変わらず、彼女の姉でいよう。
私はこれからもずっと、お父さんの娘でいよう。
私はこれからもずっと──パパの娘でいよう。降りしきる雨の中、葛見千花は、天国にいる父親にそう誓いを立てた。
空のずっと向こうから、ふたたび遠雷の音が響く。
しかしその音は、先ほどよりも遠く小さくなっていた。降り続いている雨ももうすぐ止むのかもしれないと、理由もなく千花は思う。次第に彼女の心にも、晴れ間が見え始めていた。
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