【四つ目の約束】

 満開の桜が惜しみなく散り、木々が瑞々しい青に衣を変える頃、千葉にある美容師専門学校に私はいた。

 東京にある実家を出てから足早に一年は過ぎ去り、私は二年次の生徒となっていた。専門学校に入学してからできた友人の沙耶さやと廊下を歩いているとき、意味ありげな顔で彼女が話しかけてくる。


「ねー千花。あれから鈴木君とはどーなってんのよ?」


 嫌な予感は的中。あんまり聞かれたくない話題だったな、と私は思う。


「別にー……。どうにもなってないよ。だってあれから、一度も会っていないし」

「え、そうなの。なんで? だって連絡先の交換もしたんでしょ?」

「あー、一応したよ。でも……」

「でも?」


 ──友達としてなら良いけど。


 頭の中に浮かんだ台詞を、言わずに飲み干した。男女間の友情なんてものが、ありえない絵空事だということは知っているつもり。同時に、彼が求めているものが、単なる友達ごっこじゃないってことも。だから……。


「いや、なんでもない。と・に・か・く、彼と付き合う気はさらさらないんで」

「もったいないねえ。チャンスはモノにしなくっちゃ」

「チャンスだと思ってないから、モノにしないんですが」


 ふーん、と沙耶は一応の理解を示しながらも、納得はできていない様子だ。


「じゃあ千花は、今も変わらず処女バージンってことだね?」

「ぶはッ!」


 沙耶の口から飛び出した爆弾発言に、思わずふき出しそうになる──じゃなくてふき出した。


「私のデリケートな事情を、大きな声で宣言しないでよね……」

「だってさ、事実じゃん」

「たとえ事実だとしても、私にだって人権というものがあります」

「うーん。わからないなーどうしてそんなに晩熟なのか。千花は見た目だっていいんだから、その気になれば、男の一人や二人、捕まえるのは容易いでしょうに。どうして? 理想の王子様が現れるのを、待ち望んでいるの?」


 ロマンチストだねえと口元を歪める沙耶に、頭を抱えてしまう。

 そう言われてもちょっと困る。別に高い理想を掲げているつもりなんてないが、この人が運命の人だ! と思えるような出会いがなかっただけのこと。


「自分の恋を、大切にしているだけなのです。私は沙耶とは違うんです」そう言って、頬を膨らませた。

「私は遊んでいる、みたいに言わないでよ……。今の彼氏で二人目だし普通だよ。こんなの普通のことだよ」とぼやいて、不満そうに沙耶は肩を竦めた。


 美容師専門学校に入学してから、とにかく必死で勉強していた。

 講義を毎日真面目に受けて、技術を自分のものにしようと躍起になっていた。そんな忙しない日々の中では、恋をしている時間も余裕も、まったくなかった。

 ──と、表向きは沙耶に説明しているが、実際のところ、言い訳なのかもしんない。

 沙耶に誘われて、一度だけ合コンなるものに参加した。四対四で行われたその席では、二人の男の子が私に声を掛けてくる。

 お酒を飲み始めたのは、成人するちょっと前からだったと思う。友人と行った最初の飲み会で、綺麗さっぱり記憶を無くし、自分が決して酒に強くないことにはまもなく気が付く。だから合コンにしても飲み会にしても、酒宴の席では飲み過ぎないよう常時気を遣っているし、可能な限り、そういったイベント事を避けてきた。それでも、数少ない友人の主催だったので断れなかった、というのが裏にある事情だ。

 結局その日、私はずっと上の空で、二人の男子との会話もろくに弾まなかったと記憶している。

 それでもそのうちの一人……前述の鈴木君は、私のことを気に入ってくれたようで、一応チャットアプリのアカウントも交換した。早速翌日には彼からの連絡もあったし、デートの誘いも受けた。けど私は、「用事があるから」と都合をつけて断り続けた。煮え切らない態度に愛想を尽かされたのだろう。そのまま彼からの連絡は途絶え、こちらから連絡をすることもなかった。

 なんのことはない。

 何年経っても私は、あの、夢のような一週間の記憶を消し去ることができずにいた。沙耶が心配して気遣いをしてくるのも、ごく当たり前のことなのかもしれない。


 ――はあ。溜め息と共に、顔を上げた。ここ最近で、何度目かもわからない溜め息。


 丁度その時、前方から歩いてくる男子生徒の姿が目に入る。背はさほど高くなく、華奢な体つきにそぐったなで肩だ。わわ、髪型私の好きなショートレイヤーだ。ちょっとだけ可愛いかも。

 そんな妄想をしながらすれ違う。横顔をチラ見した刹那に、ふわっと漂ってくるシャンプーの甘い香り。

 男の子なのに、良い匂いがするんだな――でも……なんだろう、この不思議な気持ち。

 私の脳が、強い緊張と異常を訴えた。

 その時、私の心の声が告げてくる。『今すぐ、あの子の名前を確認しなさい』と。

 ちょッ、なんで? そもそもどうやって? 初対面の男の子に『名前教えて』って言うの? なにそれハードル高い。

 訊かなきゃ始まんないでしょ。千里の道も一歩より、違う?

 違わない。違わないけど、急に言われても心の準備が。

 またそうやって逃げるんだ? パパになんて言われたか覚えているの?

 パパに? あ──。


『気になる男の子がいたら、ちゃんとアタックしろよ』


 あの子のこと、気になるんでしょ?

 心の中の自分とせめぎ合った結果、ついに私は根負けした。足を止め、ぐりんと勢いよく振り返る。


「ねえ、沙耶」

「ん、どうした千花」

「私の王子様。……見つかったかも」

「は? あまりの暑さに、遂に頭でもやられたか?」


 失礼だな。それにまだ六月だ。……最近、暑い日が続いているけれど。

 狐につままれたような顔をしている彼女の声を置き去りにして、私は迷いなく駆けだした。

 彼の背中まであと数メートルの場所で足を止めると、胸一杯に息を吸い込んでから叫んだ。


「あの!!」

「はい!?」


 身を震わせたのち、恐る恐るといった体で彼が振り返る。

 一年次の生徒だろうか? 昨年までは、見かけなかった顔だった。わずかに怯えの色を滲ませた表情。自信なさげに垂れ下がった眉と口元。

 まるで、夢の続きを見ているようだった。ドクン、ドクンと心臓の音が重低音で鳴り響く。

 まさか。

 そんなはずはない。

 私の脳が、先ほどとは別の異常を訴える。

 だってあれは(この世界においては)二十年以上も前の出来事であり、パパはもう、この世界にはいないのだから。

 けれど、私の正面に立つ少年の姿は、どことなく……いや、どことなくなんてレベルじゃなく、父親の雰囲気とよく似ていた。

 私は、無意識のうちに彼に秋葉さんパパの面影を重ね、これがきっと、運命の出会いって奴なんだと確信した。そして同時に思った。ヤバい! めっちゃタイプ!


「あの、僕に何か用でしょうか?」


 沈黙に耐えかねたのか、おずおずと彼が口を開いた。


「いい」

「え?」

「ごめん、じゃなくて」


 もちろん。君のことがタイプです……なんて言えるわけもなく……。


「ええっと……さっきハンカチを、落としませんでしたか?」


 私はさりげなく、ほんと、さりげなく、ポケットの中にあるハンカチを差し出した。

 彼は差し出されたハンカチをみて、少し驚いた顔をして、次に私を見て、「いえ、それは僕のじゃありませんけど」と言った。

 そりゃそうだよね。だって話し掛ける口実だもの。これ、私のハンカチだもの!


「あれ? おかしいなあ……じゃあ別の人が落としたのかなあ?」


 あざといな、と思いながらも、狙いすました上目遣いで彼の瞳を見据える。


「はい。たぶん、そうじゃないですかね」


 彼は少し照れたように呟き、視線をそっと逸らした。効いてる?


「君、初めて見る顔だね? もしかして、一年次の生徒?」


 逃げられないように、距離を詰めながら質問を重ねる。


「あ、はい。そうですよ」

「学課はどこ?」

「総合美容課です」

「ああ~、じゃあ私と同じだね。私、二年次の葛見千花といいます、よろしくね」


 ということは、私と同じ美容師志望かな? それとも理容師のほうかな?

 私が考え込んでいると、離れて様子を見ていた男子生徒が彼に声を掛けた。「秋葉ー。俺、先に行ってるぞ」


 ──友人グッジョブ! さらなる会話のネタが転がり込んできた。


 彼の手をがしっと強く握り締め私は言った。「秋葉君か、とても良い名前だね。実は私も旧姓は秋葉なんだ。凄い偶然だね」

 彼は怯えたように、ひっと短く悲鳴を上げたが、やがてひとつ息を吐いてから言った。「そ……そうなんですか? もしかして、山形の出身ですか?」

 唐突に手を握ったので驚いたのだろう。その初々しい反応も、「なんだか可愛い」と思った。


「ううん、私は東京の生まれ。秋葉は山形出身のお父さんの姓。葛見ってのはお母さんの姓で、そちらは千葉の出身ね」

「なんだか、複雑なんですね」と彼は笑った。

「うん、そうだね。えっと……それでさ」

「はい」

「ええと……」

「はい?」


 私の声、めっちゃ震えてる。


「せっかくなんだし、とりあえず連絡先でも……交換しとかない? 電話番号とチャットのアカウント」


 何がせっかくなんだろう。自分でも怖い女の子だよねと軽く引いてしまう。でも彼、そんなに嫌がっていない? ここまできたら、もう押しの一手だよね?


「僕とですか……? どうして?」


 たちまち困惑した顔に変わる秋葉君。うーん、ちょっとやり過ぎただろうか。流石に警戒されてしまったようだ。でも、やがて彼は、「いいですよ」と言って微笑んだ。


「僕の名前、秋葉慎吾あきばしんごです。四月に入学したばかりで、まだ学校には慣れていないんですが、よろしく……お願いします」


 山形に秋葉姓ってどのくらいいるのか知らないけれど、もしかすると、遠い親戚なんてこともあり得るのかな。飛躍していく自分の思考に、たまらずぷっとふき出した。……あり得ないよね。

 秋葉君にパパの面影を重ねているだけでも頬が緩んでしまうのに、これ以上私は何を望むのかしら?


 ──そう、思っていた。


 ところが、この妄想があり得る話だったと私が知るのは、もう少し先のお話。

 父親と死別したのち数年も経つと、葛見家と秋葉家の関係は殆ど切れてしまった。そのため私も忘れていたが、父親には弟 (つまり私から見ると叔父)が存在していて、その息子が慎吾君だったのである。まったく、神様も粋な計らいをしてくれる。

 二人がよく似ているのも、必然なわけでありまして……。


「それでさ……君が迷惑じゃなかったらなんだけど、またそのうち連絡してもいいかな?」


 頬が熱っぽい。たぶん、耳まで真っ赤になっているんだろうな。

 彼はもう一度、驚いたような顔を見せたが、やがてはにかむように笑いながら言った。「別に構いませんよ」と。

 やばい、顔が綻んでしまう。

 連絡先が問題ないことを確認し合って別れると、遅れてやって来た沙耶がニヤけた顔で私を見た。


「なーんだ、年下が好みだったのね。だったら、最初からそう言ってくれればよかったのに」


 いや、そーいうわけでもないんだけどね。私は心の中で、そっと舌を出した。


「じゃ、行こうか。講義遅れるぞ」

「うん」


 沙耶と並んで歩き出す。私は一度だけ振り返ると、秋葉君の背中を探した。人波の中に彼の姿を見つけ満足して顔を戻した時、ふわりと心地よい風が吹き、私の頬を優しく撫でた。

 窓から吹き込んだ風かな?

 不意に、そうしなければいけないような気がして、私はもう一度だけ振り返る。


 ──千花。


 誰かが私の名前を呼んだ気がした。たぶんこれは空耳だ。でも、凄く懐かしい響きの声だった。だからきっと今日の出逢いも、やっぱり奇跡なんだと私は思う。

 私は思い出していた。茅ヶ崎の海に行ったあとで、「なんのお願いごとをしたの?」とパパに訊ねたことを。

 パパは笑って、「千花が、素晴らしい恋人に巡り合えますように」と祈ったんだと答えた。


 ──パパの願い事。ようやく叶いそうです。


 私は一週間の時間旅行で若かりし頃の父親と出逢い、ちょっと不思議な、そして切ない共同生活を送った。

 彼は私のことを愛してくれて、私も彼の存在に安らぎを覚えた。あの時私は、確かに恋をしていた。結ばれないとわかっていたのに、それでもあなたに恋をしました。ううん。もしかすると、今でも……。

 でも、父親の運命を変えることはできなかった。変えてはいけないのが、契約ルールだったから。

 けれども、私は後悔していない。あの一週間の出来事は特別であり、もう私自身の大切な一部なのだ。一生切り離すことのできない、大切な宝物。

 失われて、損なわれて、あらゆるものが時と共に移ろってゆくのだとしても、変わらないものも確かにある。

 それは、人の心。

 この先どんなことがあろうとも。

『私が、パパのことを愛していた』

 この事実だけは、絶対に変わることはない。パパはこの先もずっと、私の想い出の中で生き続ける。三十八歳のパパも、そしてもちろん、二十五歳のあなたも。

 私はあなたへの想いを胸に、一瞬、一秒、過ぎて行く時間。ただ前だけを向いて、私らしく生きていきます。

 それでも辛くなってしまった時は……そっと、空を見上げてみよう。

 だって世界は、こんなにも輝いているのだから。いつでもそこには、私を見守ってくれるあなたがいるから……!!

 足を止め、窓の外に私は目を向ける。水彩絵の具を薄く塗り広げたみたいな、青い空が広がっていた。


「さようなら」


 私は遠い空に向かって呟きをひとつ漏らす。それから──


 ──ありがとう、私のお父さん。


 素晴らしい日々を。素晴らしい想い出をありがとう。


 私は輝いていたあの日々のことを、決して忘れません。


 それではこれが、パパと交わす最後の約束事です。


 私は、良い恋をします!



 ──二十歳になった、葛見千花より。



 冴えない俺と、ミライから来たあの娘(こ)~END~ 

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