【滞在期間六日目:海へ行こう。赤いオープンカーで】

【惚れて通えば千里も一里】

 好きな人のところに行くのに、どんなに遠くても短く感じるという意味の諺。


 けれど、二人の関係は、千里よりもさらに遠い場所にあった。

 天の川によって東西に別たれた、織姫と彦星のように。あるいは、気持ちを伝える声を奪われた、人魚姫と王子のように。





 Day6

 ──滞在期間六日目。


 それは甘くて切ない、禁断の恋の味。


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


 仕事も年収もそれなり。

 恋人居ない歴=年齢。

 ファッションにも疎くて目立った趣味もない。そんな冴えない秋葉にも、たったひとつだけ他人に誇れる趣味がある。

 それは車だった。

 背伸びをして新車で買った赤いオープンカーは、多額の借金を背負った代償として、彼にわずかばかりの見得を与え自尊心を満たしてくれる相棒だった。この車に千花を乗せるのは今日が二度目。ただし前回は、高尾駅から体調不良の彼女をアパートまで送り届けただけなので、千花の記憶にどれだけ残っているかは疑問であったが。


「なんだか狭い車ね」と開口一番、彼女は切り捨てた。

「このタイトさが良いんだろうが。理解できないなら、乗って頂かなくて結構だね」と彼も負けじと応戦する。


 秋葉が唇を尖らせると、千花は、あははっと笑った。


「ごめんなさい、ちょっとからかってみただけだよ。狭いけど、カッコいい車だと思うよ。私が住んでいる時代の車って、たとえるならば、マッチ箱とかサイコロみたいな形ばっかだもん。こんな凄い車、初めて見たかも」


 千花はシートベルトを締めながら、興味深そうに車内の様子を観察していた。

 突然、「海が見たい」などと言い出した娘のわがままに付き合わされ、神奈川県の茅ヶ崎海岸ちがさきかいがんを目指すことになったのだ。

 彼女が落ち着いたのを確認してから秋葉はギアを一速に入れると、愛車をそろりと発進させる。

「ねえ、屋根開けてよ」そんな千花の声に、秋葉は自分の耳を疑った。「正気か? 今は十二月なんだぞ」


「そんなの関係ないよ。だってこれ、オープンカーなんでしょ? 開けなかったら意味ないじゃん。どのくらい意味がないかというと、消しゴムのカスを集めて丸める行為に、ささやかな至福を感じるくらい意味がないよ」

「それ、俺のことだわ……」

「ヤダ、気持ち悪い……」


 何をバカなことを、と笑い飛ばした秋葉であったが、結局、彼女の意見を尊重することにした。

 彼の車はタルガトップのオープンカーだ。ボタンひとつでルーフの開閉を行うことができる。電動でゆっくり屋根が開いていくと、とたんに吹き込んでくる肌寒い外気。広がった上方の景色を見上げて、彼女が「ひゃあ」と感嘆の声を漏らした。

 とはいえ、先ほど千花が言った、『狭い』という指摘は的確だ。秋葉の愛車は二人乗りであったし、駆動方式もFR(後輪駆動)だ。室内空間はきわめてミニマムだし、トランクにも申しわけない程度の荷物しか載らない。

 それでも、秋葉にとってこの車は最高なのだ。

 都心の渋滞を抜け出すと、高速道路の入口に進路を変え料金所を潜る。


 首都圏中央自動車道に合流するや否や、ここぞとばかりに秋葉は愛車に鞭を入れた。エンジンがカーンという甲高い音を奏でると、ぐっと加速感が体に伝わってくる。

 シートに体を押し付けられるその感覚に慣れていない千花が、短く悲鳴を上げた。


 ──レッドゾーンまで一気にフケるこの音。この陶酔感。死ぬほどイイぜ、たまんねぇ!


 とある漫画にでてくる、登場人物のような台詞を秋葉は思いついた。

 もちろん、どこぞの国の赤いスーパーカーみたいな加速は得られない。それでも、アクセル操作に素直に反応するレスポンスの良さと官能的な音は、彼が仕事で日々溜め込んでいるストレスを癒すには、十分なものだった。


「パパ──。なんでさっきから、その棒みたいなのをガチャガチャと動かしているの?」


 不思議そうな顔で、千花が首を傾げる。


「棒ってなんだよ? ……もしかして、マニュアルトランスミッションのことか。これはね、自分でギアを自由に選択して走る車なんだよ。君の住んでいる世界では、すでに絶滅しているのかもね」

「ぎあをじゆうに洗濯?」


 彼女は先ほどよりも深く首を傾けた。頭の上には、疑問符が三つほど浮かんでいそうだ。


「千花には毎日洗濯ばかりさせているしな──じゃなくて。簡単に説明するなら、運転するのが楽しい車なんだってこと」

「なるほど。それなら、なんとなくわかるよ」と千花は納得した顔で頷いた。


 そうか。このくらいかみ砕いて伝えたほうが、すんなりと理解してもらえるのか、と秋葉は独り言ちた。

 高速道路の路面は、端の辺りが所々濡れていた。昨晩は雨でも降ったのだろうか。不意に天候が気になって、そっと頭上を見上げてみる。夕立の前触れを思わせる、銀箔ぎんぱくの雲が広がっている。一雨こなければ良いが、と秋葉は思う。

 その時、飛ぶように流れていく景色に目を向けたまま、気後れするみたいに千花が言った。


「昨日、大丈夫でしたか」


 彼女の質問は、言葉が若干不足していた。それでも、田宮のことなんだろうな、と秋葉は得心した。


「ああ、問題なかった。どうやら、失恋のショックで塞ぎ込んでいたようで、しばらく相談相手に乗って慰めてやったよ」


 意図的に、軽い口調で笑い飛ばした。それから、「何もなかった」と付け加えておく。内心で、弁解がましいな、と苦笑しながらも。


 千花に言ったことは嘘ではなく、本当に何もなかった。「私を抱いてください」と懇願した田宮に、やましい気持ちを抱いたのも確か。添え膳喰わぬは男の恥とばかりに、彼女の肩を掴んで床の上に押し倒そうとした。

 しかし、近づいてくる田宮の顔が、千花の泣き顔と綺麗に重なったその瞬間、急速に酔いが醒めた。そこから、どうしても手が動かなくなってしまう。掴んでいた肩を解放し、「自暴自棄になるな。もっと自分の体を大切にしないとダメだ」と田宮を窘めると、堰を切ったように彼女は泣き崩れた。ずっと張り詰めていた緊張感が途切れ、自身の言動を後悔するような泣き方だった。

 田宮の辛さも悲しみも、痛いほどに理解できた。だから秋葉は、背を震わせて泣いている彼女の体を抱き寄せると、涙が乾くまでずっと抱きしめてあげた。


 こんな説明でも納得したのか、千花は「そうですか」と呟いたきり、それ以上の詮索をしてこなかった。

 漂い始めた沈黙と、吹きすさぶ風の音が耳に痛い。ややあって沈黙を破ったのは、千花の声だった。


「海に着くまで、どのくらい時間がかかるの?」

「一時間は、かからないくらいかな」

「じゃあさ、何か音楽をかけてよ。パパの好きな曲でいいからさ」

「古い物しかないんだがな――」と言いかけて、「そうか。君の視点で見れば、この時代の曲は全部古いのか」と彼は言い直した。

「そうだね」と同意しながら千花が笑う。「でも、良い曲は、いつの時代でも変わらず名曲なんだと思うよ」

「それも、君のお母さんが言ったのかい?」

「そうだよ。よくわかったね」

「昨日交わしたやり取りと、よく似ていたからね」


 とはいえ、気まずい沈黙を紛らわすのに音楽は最適だろう。そう考えた秋葉は、一枚のCDを車載オーディオにセットする。耳を裂くような風切り音のなか流れてきたメロディーは、彼が好きな女性ボーカルの曲だ。

 高校生の卒業シーズンからその後の展開について歌う、ミドルテンポのしっとり聞かせる旋律。時には喧嘩をし、ふざけあいながらもかけがえのない日々を過ごした友人。卒業を経て彼女と別れたその後も、あの日と同じ青い空を見上げて互いのことを想う。そんな感じの曲だった。


「全然聴いたことの無い曲ね」


 などと不満の声を上げつつも、なんとなくリズムに合わせて千花が口ずさむ。

 車内を満たしている空気も風も肌寒い。愛車のヒーターの温風では、全然間に合っていないようだ。それでも二人は、文句を言うこともなく、ひたすら海を目指して走り続けた。


 神奈川県に入り、茅ヶ崎中央インターチェンジで高速道路を下りると、海沿いにある海水浴場を目指した。

 市街地に入り、細い路地を抜けていくと、視界の先に水平線が見えてくる。天候は生憎の曇天。海面の色は、鈍色の空を投影してくすんでこそいたが、眼前に広がっていく砂浜と海は開放感に満ちていた。

 海水浴場脇にある駐車場に車を停め、屋根をクローズにした。

「外に出てみようか」と秋葉は提案してみたが、「寒いからこのままで良いよ」と彼女は答えた。


「じゃあ、なんのために海まで来たんだよ」

「う~ん」と考え込む仕草を千花が見せる。「この時代の思い出が、ひとつでもいいから多く欲しかった。そんなところかな?」

「なるほど?」


 秋葉はなんとなく、千花の気持ちが理解できると思った。記憶の抽斗ひきだしを探ってみても、楽しい思い出が殆ど入っていない彼にとって、今という瞬間を、大切な一ページとして記憶の中に刻み込みたい、という彼女の行動理念はとても眩しく思えた。

 それにしても、千花は、なぜこの時代にやって来てまで俺との思い出を欲するのだろう。彼女が住んでいる時代の俺は、いったい何をやっているのか──と憤りを覚え始めたところで思考を切り上げた。

 自分に憤慨してもしょうがない。

 そういえば、と秋葉は話題を差し替えた。


「ここの海岸には、『茅ヶ崎サザンC』と呼ばれるモニュメントがあって、そこで願い事をすると、縁結びの効果があると言われているんだ」


「それは本当なの?」と千花が身を乗り出してくる。しかし、彼女はゆっくりとシートに座り直すと、「親子で縁結びはおかしいよ」と呟いた。


「……うーん、確かにな。やめておくか」


 千花は秋葉の言葉に対して、すぐには返事をしなかった。しばらく灰色の空と、同じ色の海を見つめていた。

 秒針が三周する間、沈黙が続いた。

 やがて、「やっぱり、行きたい」という囁くような声が聞こえてくる。そんな娘の様子に笑いながら、二人で車を降りた。


 夏場は多くの人で賑わう茅ケ崎の海水浴場であるが、季節は冬。しかも生憎の曇天となれば、流石に人の姿もまばらだ。

 歩道を歩いている時、何人かのマラソンをしている人とすれ違う。砂浜に入ると、犬を散歩している女性と、遠くの防波堤で釣りをしている男性の姿が目に入った。人の姿は精々そのくらいだろうか。強い海風が吹いていて肌寒い。強風に煽られることで、波もかなり高くなっているようだ。

 秋葉は自分の着ていたコートを脱ぐと、千花の背中からかけてやった。「パパは寒くないの?」と彼女は訊ねてきたが、ブレザーの制服にスカートという娘のほうが、よっぽど寒そうだと彼は思う。

 どちらからともなく、二人は手を繋いだ。


 ──寒いからな。


 言い訳染みた台詞を漏らした。だが、娘と手を繋ぎたいと感じた理由は、決して温もりを欲したから、だけでもないんだろうなと秋葉は思った。

 歩き続けること数分。アルファベットのCを象ったモニュメント「茅ヶ崎サザンC」の前まで辿り着く。


「これって、具体的にどうすれば良いの?」と彼女が首を傾げる。

「Cの右側の切れ目の部分に、カップルで立って円 (輪)として完成させれば、縁 (円)結びの効果があるらしいよ」

「へ~なるほど。いかした語呂合わせだね」


 手のひらの上で拳をぽんと叩くと、千花は秋葉の腕を掴んで強引に引っ張った。この辺りかな? と思案しながら、モニュメントの側に二人で立ってみる。


「せっかく来たんだから、何かお願い事でもしようか?」


 そうだね、と同意して、千花は手を合わせた。

 彼女は、『パパが事故に遭ったりしませんように』と祈ってみた。きっとこの願い事は、聞き届けられないのだろうな、と思いながら。

 一方で秋葉は、『千花が素晴らしい恋人に巡り会えますように』と祈っていた。

 お祈りが終わると、不意に沈黙が訪れる。

 吹きすさぶ風の音と、高くうねっている波の音だけが響くなか、ウミネコの鳴き声が沈黙を切り裂いた。

 空の色を落とし込んだ水面が、濃い灰色に波立つ。鈍めの光を懸命に拾い上げた波頭が、白く煌めいて見えた。

 彼女は口を噤んだまま、荒れる波間を見つめ続けていた。やがて秋葉は、静かな口調で問いかける。


「これが最後の質問になるかもしれないが――どうして、この時代に来ようと思ったんだ?」


 その質問に、千花はしばらくの間答えなかった。今日の彼女は、なんとなく沈黙する時間が長い――秋葉はそう感じていた。


「それを説明するためには、私の夢の話からしないといけないの」

「美容師になりたいんだったな」

「そう。夢を叶えるために、自分でも練習しているし、一生懸命勉強もしている。でも……美容師になるためには資格が必要になるの。専門学校に行かないとダメなのよ」


 それはそうだろうな、と秋葉も思う。

 美容師として働くためには、国家資格である美容師免許の取得が必要になる。まずは試験を受けるために、二年間美容専門学校に通って所定の課程を修了させなければならない。そのあと国家試験を受けて、合格する必要があるのだ。口で言うのは簡単だが、道のりは決して平坦ではないはずだ。


「でも」と彼女は表情を曇らせた。「ママは反対されているんだ。私が美容師になること」

「どうして? 手に職を付けるのは、とても良いことだと思うんだが」


 秋葉が首を傾げると、そうでしょ? そう思うでしょ? と彼女はうんうんと何度も頷いた。

 しなやかな黒髪が風になびく。眉をつり上げた横顔を秋葉が見つめていると、やがてぽつりぽつりと、彼女が身の上話を始めた。


「ママの希望はね、私が公務員になることなんだ。私も最初はそのつもりだった。きっかけは、美容院でヘアカットをしてもらった時かな。普段と違う自分に変身できたみたいで感動したの。その日から、将来はこんな風に人の心を動かせる美容師になりたいと思うようになったの。そしたらさ、美容師になりたいという夢を意識したらさ、抑えられなくなっちゃったんだよ。ママは、私の動機を短絡的だって言うんだけど、好きになることに理屈なんていらないよね?」

「要らないと思う。人に恋をするのに、理屈が要らないのと同じかもね」


 自分の初恋を、秋葉はそっと思い出した。そう、理屈ではない気がする。それに、人の心を動かしたいという動機は立派なものじゃないかとも思えた。


「でしょ? だからさ、悩んだけどちゃんと打ち明けたの。専門学校に通わせて欲しいって。私は本気なんだって。そしたら――」

「反対されたわけか」


 彼女は頷くことで同意した。


「専門職は大変だから。公務員なら、結婚したあとのことを考えても有利だから。ママが伝えてくるのはそればかり。どうして私が美容師になることを反対しているのか、その辺は曖昧にして教えてくれないんだ。やってみなくちゃわかんないじゃん? チャレンジする前に諦めるなんて……私はずっと不満だった。だからさ──」

「怒って飛び出してきたのか?」

「そう──でもないかもしんないけど、まあ似たようなもんかな」と言って彼女はもう一度不貞腐れた。

「俺はなんて言ってるんだ?」

 千花は一拍置いてから、小声で答える。「は、反対してないよ」

「そうか、ならいいんだけど。じゃあ問題はママなんだね。ママのこと、怒ってる?」

「怒ってます。どのくらい怒ってるのかと言うと、後で食べようと思って大事にしまってあったプリンが、いつの間にか冷蔵庫から消えてなくなっていた時と同じくらい、怒っています」

「なんか、そこまで怒ってなさそうだな……」

「とんでもない、激おこですよ」と彼女は頬を膨らませた。

「う~ん……多分だけど。ママも千花のことを心配しているんだよ」

「心配? 私を?」

「そうだね。親であれば誰でも、娘に苦労をさせたくないと思っている。面白みはないかもしれないけど、無難な職に就いて、無難な結婚をして、ありきたりでも平穏な人生を送って欲しいと願っている」

「うん」

「でもその反面――しっかりとした目標を見つけて、夢を叶えるための努力をして欲しいとも考えている」

「うん……」

「おそらくは、相反する二つの感情の狭間で、ママの心も揺れ動いているんじゃないかな。これは予想だけど、そう思う」


 彼の言葉を受け取ると、千花は砂浜の上に膝を抱えて座った。自分の顎を、膝の間にうずめる。秋葉も彼女に倣って、傍らに座った。

 千花はそのままの体勢で、しばらくの間黙り込んだ。本日何度目かとなる沈黙だった。

 そっか──とやがて、掠れた声を千花が零した。


「パパがそう言うんだったら、きっとそうなんだろうね。もしかすると私、ママに酷い事言っちゃったのかもしんない」


 ひとつ息を吐くと、千花はゆっくりと項垂れた。強い風に乱されている髪の毛を梳くように、秋葉は娘の頭をそっと撫でる。千花は俯いた姿勢のまま、彼の手のひらに身を委ねていた。


「俺も、今のところは親になれていない人間だから、言っていることが正しいかどうかはわからない。でも、俺の言葉を理解できるのならば、きっと千花は大丈夫。良い美容師になれると思うよ。だから――頑張れ」


 励ましの言葉を秋葉が贈ると、「帰ったらママに謝っておくよ」と言って千花が首肯した。


「さすがパパだね。ママのことならなんでもお見通しだ」

「お見通しも何も、嫁のことは知らんのだけど」

「そういえば、そうでしたね」

「もしかして、今の俺に進路相談をするために、この時代に来たってことなのか?」

「うーん、まあそんな感じかもね。利用したみたいでゴメンね、パパ」


 途端に声のトーンが半音落ちた。


「いや、俺は思ったことを言っただけのこと。別に構わんさ」

「ううん、そうじゃないの。今もだけど、とにかくごめんなさい」

「ふーん? なんだかよくわかんないけど、勝手に押しかけてきて振り回され続けたんだから、多少は感謝されても罰は当たらないかな」


 進路相談。口実──。

 そもそもの話。お前、たとえ話はうまいけど、隠し事をするのは下手だよな、と秋葉は心中で思う。

 今だってそうだ。嘘をつくとき、わずかに声のトーンが沈むし、表情も露骨に曇る。

 これまで何度か頭に浮かび、けれど、直視することを避け続けてきた問題。

 何故千花が、わざわざ高額の旅費を払ってまで、若い頃の自分に会いに来たのか、ということ。当初は離婚だろうと浅く考えていたが、単純に父親に会いたいだけならば、たとえ離れ離れになっていたとしても、会う手段なら幾つもあるはずだ。つまり、未来において千花は、なんらかの事情を抱え状況に置かれている可能性がある。もっとも、この先俺たちの未来はどうなる? と問い質したところで、時間旅行者の制約とやらもあるだろうから、決して本当のことは喋らないんだろうけどな。 

 悪い妄想を始めた自分を意識して、気分転換に煙草を吸おうと懐に手を入れる。そして、車に忘れてきたと気づいて秋葉は舌打ちをした。

 やむなく視線を海に向けた時、千花が啜り泣きを始めた。どうして泣くんだよ。いたたまれなくなるから止めてくれ、と内心思いつつも、秋葉は娘の肩を軽く抱き寄せた。

 一方で千花は、目元を軽く拭ったのち、父親の腕にぎゅっと両手でしがみついた。


 ──今だったらこんなに簡単に謝れるのに。どうして幼い頃の私は、素直になれなかったんだろう。


 父親の肩に頭を預けてみると、彼の体温が直に伝わってくる。嘘を重ねることで張り詰めていた心に、ちょうど風穴のように不意に緩みが入った。空虚だった穴の中を、温もりが満たしていく。心地よい。

 父親の優しさに夢中で浸りながら、千花は思っていた。また──嘘をついたなと。

 私、本当はね。パパに会いに来たんだよ。ちゃんと謝ることができないまま、別れてしまったから。もっと色々なことを、話してみたかったから。だからママとの馴れ初めを聞いた上で、この時代を選んだんだよ。

 パパが生きていたら、こんな風に励ましてくれたんだろうな。

 パパが生きていたら、どんな風に私の人生は変わったんだろうな。

 パパがもし、生きていたら。そんな世界が、もしあったとしたら。

 もし――

 私の六歳の誕生日に、出張に行かないで。どこにも行かずに、ずっと私の側にいて。もし、そう言えるなら。

 そう伝えるだけで歴史は変わるのに。でもそれは、決して許されないことだから……。

 ママだったら、パパに本当のことを伝えるのかな、と千花は考え、即座に『それはありえない』と考え直した。


 彼女は思い出していた。自分が幼い頃、母親に言われた一言を。

 それは学校で父母参観があった日。自分に父親がいないことを嘆いた時のこと。

「他の子はいいよね。だって、パパもママもいるんだもん」悪気はなかった。頭の中に浮かんだ不満が、口をついて出ただけのこと。「パパじゃなくて、別の人が事故に遭えばよかったのに」

「千花」母親の声が酷く低音だったのに、反射的に彼女の背筋が伸びる。「……うん」


「そういうことを、簡単に言ってはダメ。千花が良い目を見ようと願ったぶんだけ、代わりに誰かが悪い目を見ることになる。だから、辛いけど我慢しようね」


 言いながら、母親は千花の頭を優しく撫でた。

 だがそのとき千花は、こう返した。「そんなのヤダ。私だって良い目みたい」


 今ならばわかる。私が言った言葉の拙さも、ママが伝えたかった本当のことも。

 幸せと不幸は表裏一体。短絡的に、未来を変えたいと私が願うなら、必ず他の誰かが割りを食う。私は、を護りたいから。

 だから言えない。……ゴメンね、パパ。

 暗くて深い穴に落ちていくような悲しみが、千花のみぞおちの辺りを締め付けると、止め処なく涙が溢れてきた。拭っても拭っても止まらない涙に、秋葉が驚いて声を掛ける。


「……千花? どうした、大丈夫か?」

「パパ……」


 千花は秋葉いとしいひとの名を呼んだ。それから心の中でママの名を呼んだあと、そっと彼女に謝罪した。「――ごめんなさい」と。

 ごめんなさいの意味を訊ねる間も与えられず、千花の唇が重なってくる。

 突然の出来事に秋葉は驚いたが、そのまま娘の要求に身を委ねた。触れた唇から伝わってくる父親の温もりに、その優しさに、千花は夢中でひたっていた。

 別れの日が近づくにつれ強くなる胸の痛みに耐えながら、彼女の心は泣いていた。頬を伝う涙は、控えめに降り注いでいる日の光を懸命に拾い上げ、宝石のように煌めいていた。

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