【滞在期間最終日:初めてのお客様です】

愛別離苦あいべつりく

 親愛なるものと別れる辛さ。親子、夫婦など愛する人と生別、または死別する苦痛や悲しみを表す言葉。


 もっとも尊くて、もっとも切ない二十四時間。

 彼女の旅路が終わる時。






 Last Day

 ──滞在期間最終日。


 さようなら。大好きだった、私のお父さん。


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


 旅、というものは一期一会。

 出会いがあるぶん、同じ数だけの別れも訪れる。

 二人の関係も、一週間限定。

 そのことを、秋葉も千花も、十分に理解しているつもりだった。

 それでも、次第に近付く別れの刻に、二人の心は細波さざなみのように揺れていた。

 そして、秋葉は完全に気が付いていた。最早どうしようもないほど自分が、娘である千花に心を惹かれている、という事実に。


 昨日海に行ったことで、体を冷やしてしまったのだろうか。秋葉は早朝から熱を出していた。

 体温計の表示は、三十八度を指し示している。これは無理だと判断して、体調不良で休む旨を電話で会社に伝えた。明日から年末休暇に入るというタイミングで風邪とは、なんとも情けない限り。

 千花が彼の氷枕を取り換えながら言った。


「もうすぐお粥ができるから、待っていてくださいね」

「ほんと、面目ない……」 

「いいえ。たとえるならば、一足早い親の介護みたいなものですから」

「そんなたとえをさせるなんて、ますます情けないよ」と秋葉は、力なく項垂れた。


 ややあって、お粥の入った器を持ってくると、彼女はベッドサイドに腰を下ろした。


「あ~んして下さい。食べさせてあげます」

「流石にそれは恥ずかしい──」

「いいえ、ダメです。パパは病人なので、私に甘えても良いんですよ? はい、あ~ん」


 やれやれ、と思いながらすっきりしない頭を左右に振り、秋葉はベッドの上に上半身だけを起こした。

 不承不承秋葉が口を開けると、中にスプーンが入ってくる。熱すぎるのではないかと不安が過るが、実に適切な温度だった。餌付けをされている雛鳥のようで、なんともいたたまれない気持ちになってくる。

 だが、お粥は普通に美味い。梅干しの他にもわずかに塩気が効いていて、とても口当たりが良いのだ。やはり千花は料理がうまい。自分の娘にしては上出来だ、と彼は思う。きっと、俺の嫁ははおやの教育が良いからに違いない。


「千花が帰るのは、明日だったな」


 熟考したのちに、秋葉はこの話題を口にした。


「うん」と千花の表情が、少々寂し気になる。「当初からの予定だしね。こればかりはしょうがないよ」

「日程はもう、変えられないのか?」

「アハハ……そんなの無理だよ。時間旅行は、結構な旅費がかかるからね」

「そうか、寂しくなるな」

「……それは、私も同じだよ。できればもうちょっとだけいたかったな」


 お前が望むなら、このままいればいいじゃないか。喉元まで出かかった台詞を、咀嚼して飲み込んだ。


「元の時代に戻ったら、素敵な恋人を見つけて良い恋をしろよ。千花は……可愛いから、絶対に良い相手が見つかると思う」


 ああ遂に、可愛いと告げてしまったな。代わりに出てきた台詞に自分でも驚き、諦観とよく似た感情が湧いてくる。千花は驚いたように瞬きを繰り返したあとで、「うん」と小さく頷いた。


「それからもうひとつ、お母さんにもよろしく伝えておいてくれ。……いまだに、顔も名前も知らないけど、な」

「わかった。若い頃のパパは凄く優しくて、おまけにカッコよかったと伝えておくね」

「……流石にそいつは褒め過ぎだろう。今さらおだてたところで、なんにも出てこないぞ」

「そうですね」と千花も口元を覆って笑った。「もしかしたら、私まで熱があるのかもしれません」

「なあ、今日の午後までに俺の熱が下がったら、の話なんだが、どこか行きたいところはないか?」


 柄にもないことを切り出したな、という自覚はあった。だとしても、今の秋葉には気の利いた台詞なんて他に考えつかなくて、そう訊ねていた。思えば昨日も一昨日も、すべて千花に言われるがままに行動してきた。

 何か、自主的にしてやれることとか無いのか? 俺には。

 うふふ、と千花が再び笑う。お粥の入っていた器を片付けながら、振り返りもせずこう答えた。


「……熱を出して仕事を休んでいる人が、外出してたら不味いでしょう?」


 はにかんだような声で。それなのに、少し沈んだトーンに聞こえた。


「全然構わないね。たとえ会社の人間に見られたとしても、言い訳なら幾つでも思い浮かぶ」


 嘘ではない、本心だった。だが、


「ううん、出かけなくていいよ。大丈夫」


 はっきりとした口調で返された。

 そうか、と呟いたきり、秋葉は口を噤んでしまう。会話が途切れ、カチャカチャと千花が洗い物をする音だけが響くなか思う。熱を出して寝込んでる人間に、こんなことを言われて頼めるはずもない。千花の滞在期間最終日だと思って、焦っていたんだろうか、俺は。

 今、俺がやるべきことは、しっかり体調を整えて、そうさ──と秋葉は思う。


「明日の朝、ちゃんと見送るからな」

「別に無理しなくていいですよ? パパの体調が心配だし、それに、朝だって早いもん」

「大丈夫、熱なら必ず下げてみせる。それに、下がらなかったとしても関係ない」と秋葉は仰々しく両手を広げた。「俺たちは、親子なんだからな? 父親の好意には、ちゃんと甘えておくもんだ」

「そう来ましたか……。こいつは一本取られたね」と千花が口角を歪めると、秋葉も釣られて大きな声で笑った。


 ──親子、か。


 次第に笑みを引き取りながら、心の片隅で秋葉は思う。

 本音を言うと、否定して欲しかった。親子であることを否定して欲しいのか。親子でも構わない、とむしろ認めて欲しいのか。熱のせいか、はたまた感傷のせいか。うまく回らない頭では纏められそうにないが、あっさり認めて欲しくなかった。

 その時、食器を片付けながら、ちらりと千花が秋葉のほうを向いた。一瞥してきたその顔が、少し陰っている様子を見て取ると、心の奥深い場所にある感情がキュっと音を立てきしんだ。そして、特に理由もなく悲しくなった。


 昼食後数時間が経つと、彼の熱も次第にひいてくる。体温計の数値はほぼ平熱を指し、身体を起こしていても、問題ない程度には回復した。

 天候は良いのだろう。わずかに開いたカーテンの隙間から、柔らかい陽が差している。

 本日の千花の服装は、出会った当初に着ていた赤いブラウスと黒いスカートの組み合わせだ。ブラウスの上に着用したエプロン越しの優しげな胸の膨らみを見ていると、秋葉はまた少しだけ悲しくなった。

 君は確かにこの場所にいるのに、あと半日もするといなくなってしまう。現実を直視するのが辛くなると、カーテンを開けて外界に目を移した。

 運送業者のトラックが、引っ切りなしに走っていた。往来を行きかう人の姿も、普段よりは多そうだ。年末か、と秋葉は思う。この街も、世界も、俺たちの事情など知る由もなく、慌ただしく回っている。せめてあと数日間だけでもいい。千花がこの時代にいられるのなら、二人で年の瀬を過ごすこともできただろうに。


「そう言えば、随分と髪が伸びているね」


 千花に指摘されるまで、秋葉はそのことを失念していた。


「俺は散々伸ばしてから、まとめて切る傾向があるからね」


 何事も億劫がる性質たちである秋葉は、散髪を数ヶ月に一度しか行わないという悪癖があった。


「やれやれ、しょうがないな」と呟きながら彼女は、自分の鞄の中身を探し始める。「切ってあげるから背中を向けて。ベッドに腰かけたままで大丈夫だから」


 怠惰な自分の性格を非難されているようで、それは悪いよ、と遠慮する気が失せた。秋葉は黙って、彼女の指示に従った。

 千花は散髪用のケープを彼の首回りに巻くと、水スプレーを頭全体に霧吹きしながら注文を確かめる。


「どのように、カットしましょうか?」

「いや……千花に任せるよ」

「お任せですね? 了解です」


 鋏を片手に、千花は彼の髪の毛を梳くように触った。


「量が多くて、髪質も硬いね。こりゃあ、チョップカットのほうが良いかも」


 最初に千花は、秋葉の正面に立つ。くしで前髪をときつけて左手の指で挟むと、鋏を斜めに入れながらカットしていった。

 続けてサイドの髪の毛も同じ手順で毛先を整えていく。

 次に後ろへ回り込むと、襟足の部分も同じように櫛でときつけてから、鋏で毛先を揃えた。

 いったん離れて全体を確認すると、頭の上半分のカットに入った。最初に切っておいた前髪の長さに合わせるように、髪の毛を垂直に引き上げてカットしていく。

 真ん中部分の髪も同様に切り終えると、梳きバサミに持ち替えて、頭の上から順に梳いていった。再度全体を確認したのち、若干の手直しを加えた上で、「よし」と彼女は頷いた。

 それは彼女が得意としている、ショートレイヤーと言う髪型だった。


「こんな感じで、どうでしょうか?」


 千花に差し出された鏡をのぞき込んで、映りこんだ自分の姿に秋葉は感嘆の声を漏らした。


「いや、本当に驚いた。まさかここまでうまいとはな。高校生だからと少々甘く見ていた」


 ふふん、と得意げに千花が胸をはる。


「当然です。だから言ったでしょう? 私は結構本気なんだって」

「最初の客が実の父親で、なんだかごめんな」

「いいえ、最高のお客様でした」そう言って彼女は花のように笑んだ。


 彼女の滞在期間最終日は、こうして静かに暮れていく。結局この日、外出することは叶わなかったし、目立って何かをした、というわけでもなかった。

 秋葉は一日の大半をベッドの上で過ごすことになったし、千花も、普段通りに家事をこなすのみだった。

 部屋の掃除に、炊事洗濯など。テレビから流れてくるニュースに耳を傾けながら、柔らかい表情を浮かべ、それらを順番に片づけていく。手際の良さは、ここにやって来た当初とは雲泥の差で、娘の成長ぶりに、秋葉はそっと目を細めた。

 晩御飯を食べ終えると、すぐに風呂を沸かし始める。その間も彼女は終始上機嫌で、歌を口ずさんでいた。

 そんな娘の様子を見ながら、一緒にいられる時間が刻一刻と少なくなっていることを認識すると、秋葉の胸の痛みは益々強くなるのだった。


 ──覚悟を決めていたはずだった。それなのに。


 千花と出会ったばかりの頃は、こんな気持ちになるなんて露ほどにも考えていなかった。こんなに名残惜しくなるとも、別れが辛くなるとも、予想できていなかった。


 ──時間が止まってしまえば、いいのに。


 風呂上りの彼女が無防備な姿を晒すこと自体は珍しくなかったが、今日ばかりは勝手が違った。長袖のシャツとパジャマの上のみを羽織った彼女の下半身は、下着が完全に露出していた。

 衣服の裾からチラっと覗く程度であれば、盗み見ることもできるというものだが、丸見えでは流石に恥ずかしい。

 ばかやろう……と困惑しながら、秋葉は顔を背けた。「お前まで、風邪をひくぞ」

 

「最後だからさ、ちょっとしたサービスみたいなもんだよ」


 恥ずかしいのか僅かに頬を染めながら、千花はにしし、と笑って胡坐をかいた。

 羞恥心から目を背けた秋葉も、甘美な誘惑に負け、結局目を向けてしまう。レースがあしらわれた可愛らしい水色の下着ショーツと、布地に生じるかすかな陰影と、寄るしわの一本一本までが、鮮明に脳裏に焼き付いた。

 胡坐はやめろと思いながら煙草を探ると、震える手で火を点ける。煙草を吸いたい気分でもないが、何か別のことで気分を紛らわせていないと、自制心を保てそうになかった。


 夜になると、彼の熱は完全にひいた。

 ベッドから抜け出すと、彼女と並んでテーブルの脇に座り、テレビを観ながら過ごした。バラエティ番組を観て大声で笑いながらも、秋葉は絶えず、時間の経過が気になっていた。そっと時計に目を向ける。会社にいるときはまったく進まないように見える長針も、今日ばかりは嫌味なほどに足早だ。

 窓から見える夜空には、まるい月がかかっていた。風に流される雲を、まるで昼間のように、くっきりと青白く照らしていた。

 もうそろそろ年末ですね──テレビの報道番組が暮れ行く年の瀬を伝えるなか、二人は就寝の準備に入る。ねえ、と千花が話しかけてきたのは、日付けがまもなく変わろうとしている頃合だった。


「ん、どうした?」

「今日なんだけどさ、一緒の布団で寝ても良いかな?」


 湧き上がりそうになる喜びをぐっと飲み干して、秋葉は答える。


「ああ、それも悪くないな。今日は俺がベッドを使うことになりそうだし、固い床で眠るのも辛いだろう。千花は最後の夜なんだものな」

「ううん、そういう意味じゃないの……。今日は、パパと一緒の布団で寝たい気分なの。それだけなの」


 それが、今にも消え入りそうな声だったことに少し驚くが、しばし考えてからこう答えた。「わかった。一緒に寝ようか」

 最後くらいはそれも良いだろう、と秋葉は思う。思ったあとで自嘲した。本当は、自分が一緒に寝たい癖にな。


「ただし、下にちゃんとパジャマのズボンを履け。そんな格好で寝たりして、俺の風邪がうつったら本当に困る」


「えー……面倒だな」と彼女は不満気に声を上げたが、やがて観念したようにパジャマの下に足を通した。

 下着を隠すのを嫌がる女子高生とか初めて見たわ、と思いながらも、水色の布地が覆い隠される瞬間を、名残惜しそうに見つめた。


「だがこれだけは言っておく。間違っても、変な気は起こすなよ?」

「それ、女の子に言う台詞じゃないよ?」

「あれ? ああ、確かに」


 ジト目に変わった千花を見て、いくらなんでも失礼だったか、と思う。


「そんなことは間違ってもしないよ。時間旅行者が、過去の人間とセックスをして妊娠することは、法律で禁じられているんだもの」


 遠ざけようとしていた事柄を指摘され、思わず背筋が伸びてしまう。


「せっかく気を遣って、マイルドな表現にしておいたのに、はっきり言うなよな……」

「じゃあ、性交? 媾合こうごう? それとも情交じょうこう?」

「全部同じ意味だ……というか、よくそんな言葉を知っているな」


 うん、でもね、と彼女はイタズラな笑みを湛えて言い添えた。


、その行為自体には何の問題もないんだよ」


 する? と言いながら千花は秋葉の傍らに寄ると、背中に艶かしく指先を這わせた。


「するわけがないだろう」


 一応の否定をするものの、秋葉の心と身体が強く疼いた。

 明らかに強張った彼の表情を見て取ると、ゆっくりと千花は笑みをひっこめた。


「冗談だってば……。真に受けないでよ」


 部屋の灯りを完全に消すと、二人揃って布団の中に潜り込んだ。

 秋葉は千花に背を向ける体勢で横になった。流石に向き合って眠るのは、マズいだろうと考えていた。

 千花は彼の背中にそっと手のひらを触れたあと、わきの下から腕を回して抱きついてくる。彼女の指先は、秋葉の胸の辺りを包み込むように優しく擦ると、這うようにおへその周辺まで下ろされていった。秋葉の身体は、緊張でやがて強張った。

 身体の変化を悟られないよう、秋葉は軽く膝を曲げると、そのあとは娘のやりたいようにさせておいた。

 無言のまま、静かに体を寄せあった。どこか苦しそうなお互いの息遣いの音が、静寂が満ちたアパートの一室に木魂していた。

 やましい気持ちは、持たないつもりだった。

 それでも秋葉は、千花むすめのことを抱き締めたいと思った。その肢体に、その柔らかい部分に、本音を言えば触れてみたかった。心臓の音が、嫌味なほど鼓膜を圧迫するなか、昂っていく気持ちを押しとどめていたのは、自分の娘だからと自重する思いと、彼女の『初めてバージン』を自分がけがしてはならないという戒めだった。


 また千花も、秋葉の腕に抱かれたいと思っていた。

 秋葉パパのおへその上を焦らすように触ると、彼の身体が強張っていく様子が手に取るようにわかった。同時に、彼が自分を求めていることも。彼女のお腹の奥にも硬い疼きの塊が生まれ、今度は彼の指先で慰めて欲しいと願った。

 パパの身体に触れてみたい。触れて欲しい。泡沫のように浮かんでは消えていく願望を必死に宥め、彼女は手のひらを秋葉のお腹に添えたままにしておいた。


 千花が決して一線を越えなかった理由。


 それは、私達は親子だからという事実と、ママに申しわけないと思う背徳感と、これ以上秋葉パパに依存してしまうと、離れられなくなる恐怖心からだった。

 父親の背中にそっと顔を埋め、千花は静かに涙を流した。

 本当は知っていた。本当は、ずっと前から気付いてた。

 どうしてこんなに、胸が苦しくなるのかも。

 どうしてこんなに、切ない気持ちになるのかも。

 私の胸の内で赤々と燃え上がり、心を蝕んでいる感情の一般的名称も。

 だから私は、明日を迎えるのが恐ろしくなって、こうして涙を流しているんだ。


 私は、秋葉さんパパのことが──好きだ。

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