【幕間:彼女の六歳の誕生日】
──雨音が、遠く聞こえる。
現実と、夢の狭間を漂うような意識のなか、葛見千花はそう感じていた。
彼女は、窓を開けて外を見ている。
季節は春。彼女がこの世界に生を受けて、何度目かとなる春だ。今年の春は――などと黄昏てしまうほど、多くの春を経験しているわけでもなかったが。
──
窓から見えているのは当時の風景。庭の一角にある花壇に、赤や黄色など、鮮やかな原色を身に纏ったチューリップの花が並んでいる。彼女の母親は、花壇の手入れをするのが好きな人だった。
緑色の葉が露に濡れている。しっとりと降り続いている雨のカーテンで仕切られた光景は、白く霞んでいた。
視線を、窓から家の中に戻した。
八畳ほどの和室が目に映る。中央に置かれているのは、食卓代わりに使っていた木製の丸いテーブル。壁際には、擦りガラスの嵌った古びた茶タンスがある。
この場所は、彼女が小学校に上がった頃まで住んでいた借家だった。
子供が小さいうちはなるべく空気の良い環境で生活させてあげたいから。そんな理由で、都心部から遠く離れたこの土地を選んだのだと、両親からよく聞かされていた。
木造の古い一軒家で、食卓のある居間と寝室がひとつ。彼女と、四つ年上の兄とで共有している部屋がひとつ。決して広い家ではなかった。家と同様、広くない庭の隅には栗の木が植えられており、秋になると
母親は花が好きだった、というよりも、ただ私たちに見せたいがために、庭の手入れをしていたのかもしれないな、と千花は思う。
――懐かしいな。遠い日々の記憶に思いを馳せる。
その時突然、居間の引き戸が大きな音を立て開いた。古い借家だったので、あちこち建付けが悪かったのを思い出した。
「パパが出かけるから、千花もお見送りしなさい」
引き戸から顔を覗かせたのは、今より若々しく見える母親。今よりちょっとだけ高いトーンの声が響く。はっとして和室の片隅を見ると、膝を抱えた姿勢のまま、無言で顔を俯かせている女の子がいた。
――私だ。
ここまで認識したところで、ようやく彼女の思考はクリアになった。
これは、私が六歳の誕生日を迎えた日の記憶。この日は朝早くから、家族四人──パパとママと、お兄ちゃんと私で、水族館へ行く約束をしていたのだ。
ところが、仕事が忙しいパパは、前日の夜になって突然出張の予定が入ってしまう。結局水族館行きは中止になった。パパは仕事で行くんだから、しょうがないんだって頭では理解できていた。けれど、心から納得できてはいなかった。
どうして今日なの?
なんで、私の誕生日なの?
呪詛の言葉が、頭の中で渦を巻いていた。
すっかりと拗ねてしまった私は、朝早くから出張に出かける父親を見送ることもなく、部屋の奥に閉じこもっていたんだ。
蹲っている昔の自分を、ひっぱたいてやりたい気分だった。
ともあれ、まもなく私は笑顔になる。ぬいぐるみを買ってもらい機嫌を直したことを覚えている。
実にくだらない、と彼女は思う。この日父親の見送りをしなかったことを、酷く後悔することになるとも知らずに。不満が沸々と湧き上がった。
場面は不意に切り替わる。
場所は、都心にあるデパートの三階。母親は拗ねている娘を気遣って、三人でデパートに向かったのだ。粗方買い物を済ませた彼女たちは、レストランで食事をしている。
買ってもらったぬいぐるみを抱え、お子様ランチに刺さっている旗の模様をしげしげと眺める六歳の彼女。口を開け、ご飯をおいしそうに口に含む。幸せそうな表情を浮かべ、そのくせ時々唇を尖らせる。
まだ機嫌は直っていませんよ。という無言のアピール。
悪いのは約束を破ったパパだもん。
心の声が聞こえてくるようだった。
現金なものだ、と呆れながらも、暗い感情が次第にせり上がってくる。そろそろだ。きっと――そろそろだ。
一本の電話。
母親の携帯電話が着信音を奏でる。「もしもし」と応対した母親の顔が、一瞬にして青ざめた。
平静さを装いつつも、悲鳴染みた声で母親が二人の子供に事情を告げる。デパートでの買い物は即座に中断され、三人が向かったのは、都心からだいぶ離れた場所にある大学病院。
タクシーに乗せられて、何時間も走ったという記憶がある。病院に到着した彼女らを出迎えたのは、今日の朝別れたばかりの父親だった。
ただし、残酷な現実を突きつけるように――変わり果てた姿となって。
父親が出張で石川県に向かうため乗っていた下り急行列車が、対面してきた上り普通列車と正面衝突をする事故を起こした。運転士と乗員乗客を含め、十二名にも及ぶ犠牲者を出した凄惨な事故だ。
そして、十二名の犠牲者の中には、千花の父親──秋葉悟も含まれていたのだ。
事故原因は、本来途中駅で対向する急行列車とすれ違う必要があった普通列車の運転士が、信号を確認せずに発車させたという人為ミスであると伝えられている。だが同時に、鉄道会社の超過勤務による過労の影響も指摘されていた。無論、鉄道会社は全面的に否定して、全ての原因は運転士にあると一方的に突き放し、責任を認めることはなかったのだが。
それでも、雲行きの怪しくなった鉄道会社の運行は停止に追い込まれ、後に別の鉄道会社に路線運営が譲渡されてしまう。
このことに加え、運転士が亡くなっていることも影響し、結局その後も真相究明には至っていない事故だった。
これは、いまだ癒えることのない傷となって、心の中に残っている記憶。
この日彼女は、父親の顔を見ることは叶わなかった。父親の遺体には、白いシーツのようなものが被せられていたから。
シーツを捲り、中を覗き込んだ母親が泣き崩れた。
「わたしにも見せて」
まだ、何も理解できていない幼い頃の自分が言う。「ダメよ。千花は見ないほうがいい」母親が彼女の瞳を遮った。
嗚咽を上げて泣き続ける母親とお兄ちゃんの姿を交互に見ながら、幼い彼女の頭でも、段々と状況が理解でき始める。
――パパはもう、この世界にはいないんだ。もう二度と、会うことはできないんだ。
夢なのに。
これは夢のはずなのに、辛い記憶を目の当たりにして、千花の瞳が涙で覆われる。
もはや、幼い頃の自分が泣き崩れる様子を見て、溜飲を下げている余裕もなくなってしまった。
今ならば。今ならば、パパの死に顔を見れるかな。一瞬だけ、そんな考えが頭をかすめるが、やっぱり怖くて見れなかった。
伝えたい。あの日、見送ることができなくてごめんなさいと。それから、私は今も変わらず、あなたのことを愛していますよ、と。
激しい嗚咽が聞こえる。――私の声だ。
◇
ぼんやりと、自分が視界に何を入れているのか理解し始める。
さっきまで見ていた病院の霊安室ではなく、木目の天井が見えた。
遠く聞こえる雨音。夢か現実かの区別がつかなくて、千花は何度か瞳を瞬かせた。
濡れている目元を拭いながら、悪い夢を見たな、と思う。背中は気持ちが悪くなるくらいに、じっとりと汗ばんでいた。
久しぶりに発作を起こした二日前のあの日。確かに父親に嘘をついた。だが、すべてが嘘でもなかった。
父親を亡くした日から数年後、小学校六年生の頃。親友が電車の事故に遭った。幸いにも親友の命に別状はなかったが、その日以降、父親が死んだ日の記憶をたびたび想起して、体調を崩すようになったのだ。
気持ちを落ち着かせるように息を吐き、ゆっくり体を起こしてみると、床に敷いた布団にくるまって、寝息を立てている父親の姿があった。
「良かった」
安堵の声が漏れる。
薄暗い部屋の中を見渡すと、準備しておいた料理の幾つかが、片付いているのが見えた。良かった、と彼女は思う。ちゃんと食べてくれたんだ。
満足そうに笑みを零し、千花はベッドから静かに這い出した。秋葉の頭を、優しく撫でてみる。カーテンを静かに引いて、窓の外に視線を向けた。
雨だ。
あの日と同じ、傷ついた心を慈しむような優しい雨。いまだ宵の闇が世界を支配するなか、降り続いている雨が、天井を叩くパタパタという音だけが響いていた。
夢はもう覚めたのだから、この雨も、もうすぐ止むのかもしれないと、理由もなく千花は思う。
でも、彼女の心は、それほど晴れそうにはなかった。
「あと、二日」
彼女の呟きが、静かに朝の空気に溶けた。
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