【滞在期間五日目:クリスマスデートなんて、どうでしょう?③】

 駅前のカクテルバーに到着すると、すでに田宮は酔っ払っていた。ちょっとどうかと思うくらいの、酔い方だった。

 恐らくそうだろうと、秋葉も当たりをつけてはいたが、店には案の定彼女一人だけがいて、瞼は泣きはらしたように腫れぼったくなっていた。

 カウンター席にいた田宮の隣に座ると、とりあえずソルティードッグをバーテンダーに注文した。


「驚くじゃないか。突然電話なんてよこしたら」

「ごめんにゃさい。ほんとうに、大丈夫でしたか?」


 呂律ろれつが回っていない。不味いな、と秋葉は思った。


「ああ、何も問題なかった」


 そう、なにも。まるで自分に言い聞かせるように、心中で秋葉はそう呟く。


「じゃあ、そういうことにしておきます」


 トロンとした甘い目つきで、田宮がこっちを見た。酔いが酷いせいで感情の揺れ幅が大きい、と秋葉は思った。


「そんでさー、部長がうるしゃいんだよ。社員の気も知らにゃいで、二言目には契約数、契約数ってさー」


 それからしばらくの間、会社の愚痴が続いた。普段真面目な田宮にしては珍しく、弱音を吐き続けていた。ソルティードッグを飲み干してお代わりはなんにしようかとメニューを眺めていたその時、ようやく田宮は本題を切り出した。


「聞いてくれますか。秋葉しゃん」


 そこから田宮の愚痴は、彼氏の内容に移っていった。チャットアプリでメッセージを送っても、なかなか返信してくれないこと。週末の予定を決めようと電話をかけても、たびたび留守電に繋がること。会う時間帯や曜日が不規則になり、デートの回数も段々と減り、最近は数週間に一度になったこと。


「最近は、話しかけてもにゃんだか上の空で、食事が終わると、すぐホテルに行きたがるんですよね」


 田宮と交際していながら上の空とはけしからん、と秋葉は、仕事中も時々上の空である自分を棚にあげた。でも──?

「それってさ……」と秋葉は言いかけた。彼氏の対応には不自然な点が実際多く、鈍感な彼でも流石に気が付いた。「ええ」と不満を吐く息に乗せ、田宮は続けてこう言った。


「それでもなんとか、クリスマスの予定を取り付けたところまでは良かったんです。ところが──です。今日も早い時間に夕食を済ませてしまうと、とりあえず休憩しないかと持ちかけられました。なんでそんなにせっつくの? と問いただすと、『このあと、予定があるんだ』とか『明日早いから』などと、要領の得ない説明を始める始末。ちゃんと説明してと口論になりかけた矢先に、あの女が現れたんです」


 あの女、と強い単語が出てきたことに、秋葉は居住まいを正した。

 田宮いわく、デートしている最中に、彼の新しい恋人と鉢合わせになったらしい。そのまま往来のど真ん中で口論に発展した二人は、事情説明を彼に求めた。ところが、はぐらかすみたいに彼は曖昧な答弁をするばかり。その煮え切らない態度に愛想を尽かした田宮が一方的に別れ話を叩きつけ、勢いもそのままに逃げて来た。ここまでが、今日の顛末だった。


「私と違い、とっても背が高くて、とっても綺麗な女の子でした。どうやら私は、彼の中では二番目の女だったみたいでしゅね」


 二股ですよ、と吐き捨てるように結論を述べ、田宮はカクテルをぐいっと一息に飲み干した。

 それで、電話をしているとき声が震えていたのか、と秋葉は独り言ちた。どんな事情があったにしろ、自分のところに連絡をくれたことに、下心を持たなかったわけでもない。だが、所詮自分は彼女の慰め役に過ぎないのだな、と認識すると、流石に落胆を禁じ得ない。

 それからしばらく、二人で飲み続けた。「飲みすぎだよ田宮」と秋葉が注意をしても聞く耳を持たず、結局トイレに行ったまま戻って来ない彼女を介抱して、タクシーを呼ぶ羽目に陥った。

 タクシーの中でも彼女は目覚めない。秋葉にしなだれかかったままの田宮から、なんとかアパートの住所を聞き出した。彼女を抱きかかえて玄関の前に着いた頃には、時刻は二十三時を回っていた。

 静かな寝息を立てている田宮の顔が、一瞬、千花の顔と重なって見える。彼女は、怒っているだろうか。不可抗力とはいえ、この状況はやっぱり不味いと自分でも思う。

 本音を言うと、玄関から入ってすぐの所に、田宮を置いて帰りたかった。

 しかし、安堵しきった表情で、彼に体重を預けて眠っている田宮を見ていると、とてもそうはできなかった。軽い体を抱えてベッドまで運んだところで、ようやく田宮の目が開いた。


「あ、あれ? 秋葉さん、どうして家にいるんですか?」


 ポカンと開いた口。紡がれた予想外の台詞に、記憶が欠落しているのかと軽く驚いてしまう。


「カクテルバーで君は酔いつぶれてしまったんだよ。何度呼びかけても目が覚めなかったから、ここまで送ってきたところだ。気分はどう?」


 キッチンでコップを探して水を汲むと、田宮に差し出した。受け取って一息に飲み干すと、彼女は小さく息を吐いた。


「ふう……。すいません。かなり、ご迷惑をおかけしたようで」


 頭を下げた田宮の仕草と表情から、反省していることは伝わってきた。


「いや、俺は別に構わないんだけどさ、あんまり無茶をしちゃダメだ。自棄酒やけざけなんて、身体に良くないぞ」


 実際、良くはない、と秋葉は思う。名前のとおり、自棄な感情のまま飲む酒。

 我を忘れてエスカレートする場合もあり、急性アルコール中毒や、アルコール依存症の遠因となることもある。


「そうですね。……ほんとにすみません」

「少しは落ち着いた?」


 無言で頷いた田宮の顔色を見て、多少酔いも醒めてきたようだ、と秋葉は判断した。


「じゃあ、時間も時間だし、俺はこれで帰るから」


 その時、田宮の口が、何か言いたそうに動いた。それでも秋葉は、見なかったことにして立ち上がる。

 せっかく田宮のアパートまで上がり込んだのに、何もせずに帰るのか。よくよく俺もお人好しだな、と内心で呆れながら。財布と携帯電話の所在を確認して、玄関のほうに向かって踵を返した時だった。

 背後でベッドの軋む音がわずかに響いた。嫌な予感が脳裏を過ると同時に、背中から田宮に抱きすくめられる。

 心臓がドクンと飛びはねた。


「田宮?」


 全身がすくんで、振り返ることができなかった。混乱していく思考のなか懸命に絞りだした声は、自分でもどうかと思うほどのかすれ声で。


「秋葉さん」

「あ、ああ。どうした、まだ気分が悪いのか?」

「今から行っても、終電には間に合いませんよ」

「そうかもしれない。でも、大丈夫だよ。それならそれで、タクシーでも捕まえるから」

「遠慮しないで、泊まって行けばいいじゃないですか」


 遂に、遠ざけようとしていた言葉が出たな、と秋葉は思った。


「いや、そいつはやっぱ不味いだろ。だって、俺たちはただの……」


 ただの、なんだと言うんだろうな。会社の同僚だから、とでも言うつもりか? あわよくば田宮と、なんて内心では期待していた癖に、と秋葉は自嘲する。だがそれでも、彼女が弱っているこのタイミングにつけこむのはたちが悪い。

 言葉が喉に絡んで、うまく継げない二の句。そんな彼の内心を見透かしたように、田宮が耳元で囁いた。


「秋葉さん。私とセックス、しましょうよ」



 秋葉が自宅アパートの前に着いた時、時刻は深夜一時を過ぎていた。近所迷惑にならぬよう、忍び足で外部階段を登るが、どうしてもカツンカツンと音がでる。この時間まで千花が起きているとも思えないが、顔を合わせるのはやはり怖い。

 部屋の前で一度足が竦んだ。だが、しょうがないんだと意を決して、部屋のドアを開けた。

 案の定千花は寝ているようで、室内は闇に閉ざされていた。

 残念なような、少しほっとしたような、複雑な心境を抱えながら、秋葉は部屋の電気を点けた。

 ベッドの上で、布団に包まる千花の姿が見えた。それはいい。問題は部屋の真ん中にあったテーブルの上だ。

 炒飯や餃子、麻婆豆腐など、中華をメインとした料理が並んでおり、そのひとつひとつに、綺麗にラップがかけられていた。


「千花……」


 こみ上げてくる想いと一緒に、呟きも漏れる。

 この段階になって初めて、彼は自分の過ちに気が付いた。よもや千花が、豪勢な夕食を準備する計画だったなんて思いもしなかった。

 次第に冷めていく料理を見つめ、たった独りで食事をし、いつ戻ってくるかも知らぬ父親の帰りを待ち侘びる。やがて、かすかにくすぶっていた希望の火も潰えると、食べてもらえるかもわからぬ料理を残したまま、布団の中に潜り込む。

 どんな気持ちだったのだろうか。強い後悔と自責の念に、握った拳に力がこもった。


「バカだろう」


 秋葉の口から、再び呟きが漏れた。

 それでも彼女は、俺の背中を押したのか。おそらく、いや間違いなく、田宮が将来の伴侶かどうか上で、それでも俺の背中を押したのか。もし、俺が間違いを犯したら、未来が変わってしまったら、どうするつもりだったんだ。

 勤勉で、律儀で、馬鹿がつくほど正直で。なんとも要領のよくない娘だな、と彼は思う。

 最早疑う余地もない。お前は俺の──自慢の娘だよ。

 握っていた拳を解いて、秋葉はテーブルの側に座る。思えば田宮に振り回されてばかりで、まともな食べ物を口にしてなかった。

 健やかな寝息を立てる娘の背中に一礼をして、秋葉はそっと両手を合わせた。


「いただきます」


 すっかり冷たくなった炒飯ではあったが、今まで食べたどんなお店の炒飯よりも美味しい、と秋葉は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る