【滞在期間二日目:ママの名前は、言えないの】

【予定調和】

 ドイツの哲学者ライプニッツの哲学で、宇宙は互いに独立したモナドからなり、宇宙が統一的な秩序状態にあるのは、神によってモナド間に調和関係が生じるようにあらかじめ定められているからであるという学説。


 何気ない一言で変わる未来。

 けれども、そこから繋がる正しい未来。




 Day2

 ──滞在期間二日目。


 彼女がやって来たことも、すべては予定調和の中に。


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


 カチリ……カチリ……カチリ……。

 今日も秋葉は、オフィスの壁に設置された時計の針を目で追っていた。だが昨日と比べると、彼の心は多少なりとも満たされていた。隙間時間で考えることもあったので、時間の経過も早く感じられる。

 今日、やるべきこと。

 部屋の片付けは、今朝少しだけやってきた。帰宅したら掃除機でもかけようか。そもそも、前回掃除したのはいつの話なのか。まさに千花から指摘された通りで、思わず苦い顔になる。脱衣所の隅に山と積もった洗濯物も、いい加減どうにかしないと。自炊……は時間がないから諦めよう、明日からでも良いはずだ。

 それから……そうだ、と彼は思う。

 やることが片付いたら、千花に未来の嫁の話でも訊いてみよう。もしかしたら――もしかすると、職場の同僚かもしれないし。そんな妄想を膨らませると、隣に座っている田宮の横顔をちらりと見る。

 考えていることが、相変わらず仕事と無関係なことばかりなのはなんとも物悲しいが、それでも彼の心は潤っていた。

 やがて、終業を告げるチャイムが鳴り響く。デスク脇に置いてあった鞄を手に取りそそくさと立ち上がった彼に、田宮が不思議そうに声を掛けた。


「あれれ? 今日はまた、随分と急いでいるんですね。もしかして――デートか何かですか?」

「いやいや、そんなんじゃないよ。実を言うと、昨日からアパートに家族が来て泊まっているんだ。それで、少しばかり早く帰る必要がある」


 昨日とよく似たやり取りに、ほっこり笑顔になってしまう。


「家族……。お母さんですか?」


 大きめの丸い瞳が、詮索するみたいにこちらに向いた。


「いや――」と秋葉は暫時ざんじ思案してからこう告げた。「妹だよ」

「ああ、妹さんですか。今日は心なしか口元が綻んでいるようでしたので、てっきり恋人でもできたのかと勘繰ってしまいました」と田宮は頭を下げた。「すみません」

 

 気配りのできる彼女らしい鋭い考察だ、と秋葉は思う。デートじゃないのはうら寂しいが、真実を一部混ぜて咄嗟についたこの嘘は、上出来じゃないかと自画自賛した。

 顔見知りに目撃されたとき、妹だと言い張ることで逃れられそうだ。


「なあ田宮」


 同じように帰り支度を始めた田宮に、声を掛ける。


「はい」

「タイム・トラベルって、この先実現すると思うか?」

「はい?」と狐につままれたみたいな顔を田宮がする。「思いませんね」


 だよなあ、と答えた秋葉を他所に、田宮は再び椅子に座るとパソコンのキーボードを叩き始める。ややあって、画面に表示された検索結果を滔々と読み上げた。


「タイム・トラベルという概念は、科学的な立場からみると様々な問題点が指摘され、実際には今の科学力では実現できないとされている。空想物語フィクションとしては一般的なもので、タイム・トラベルを扱った作品も国内外多く発表されている……だそうです。やっぱりありえませんね」


 真面目な田宮らしいな、と秋葉は笑った。


「だが、たとえば、二〇五〇年代の科学力だとしたらどうだろう?」

「二〇五〇年?」


 しばらく天井を見上げていた田宮だが、やがて苦笑まじりにこう答えた。


「わかるわけないじゃないですか。私は、二〇二〇年代の住人なのですし」

「ははッ、確かにな」

「でも、そういった未来でなら、現在では及びもつかないような物が色々発明されてるかもしれませんね。それも一つの浪漫じゃないかと」


 結局、わかるはずがないし、暫定娘であることも変わらない。

 この時代に住んでいる人々の大半は、千花の話をしたところで、千花の話を聞かされたところで一笑に付すだろう。信じるとすれば、精々俺……いや、無益なことを考えるのはよそう。


「じゃ、お疲れ様」

「お疲れ様でーす」


 別れの挨拶を交わし合い、二人でオフィスをあとにする。それにしても、と廊下を歩きながら考えた。

 口元が綻んでいたのか、俺は?

『女子高生が部屋にいる』という事実に、心が弾んでいたのかもしれない。だが相手は娘だぞ。少し落ち着くべきだ。その娘という事実にしても、いまだに幾つか疑問符がついている状態だ。むしろ、娘だという情報が間違いであってくれたなら――千花は嘘偽りなく女子高生の来訪者だ。実に喜ばしい状況だと言える。

 ああ、だから俺の口元は綻んでいたのかと思い至ると、自嘲気味に彼は笑った。


 八王子駅から電車に乗って二駅進み、高尾駅の近くにあるコンビニに入って弁当を買った。自分用にカレー。悩んだ末に、彼女にはドリアを買ってみる。女性はクリームのかかった食べ物を大概好むだろう、という彼の偏見によるものだ。

 好みに合わず機嫌を損ねた場合を考慮して、暖かい紅茶もサービスで付けてみる。

 これなら、不満はあるまい。

 会計を済ませてコンビニを出ると、ポケットの中で携帯電話が震えた。着信の主は、山形に住んでいる母親だ。今年のお盆も「面倒だから」という理由で帰郷しなかったので、もう随分と顔を合わせていない。秋葉は一呼吸ついたのち、その電話に応対した。「もしもし」

 電話の内容は、元気にしているのか、仕事の調子はどうだ、お金は足りているのか、恋人はできたのかというものだった。

 ぼちぼち元気で、仕事はそこそこで、お金はとりあえず問題なくて、恋人はそのうちなんとかするさと答えておいた。

 恋人ができたら紹介しなさい。正月には帰ってくるように、と念を押す言葉で電話は締めくくられた。ふうと溜め息を一つ漏らして、携帯電話をポケットにまた仕舞う。

 実際のところ……。

 最後の質問が頭が痛かった。相手が必要な問題なだけに、独力ではいかんともし難い。千花の言葉を信じるならば、数年中にはのかもしれないが。


 アパートの階段を足早に上り部屋のドアを開ける。一応、「ただいま」と帰宅した旨を届けておいた。

 ……そう言えば、仕事から帰宅して、「ただいま」と告げたのも初めての経験だ。寂しい男だな、と苦笑いを浮かべた。


「おかえりなさいー」


 千花はリビングの床に胡坐をかいて座り、食い入るようにしてテレビを観ていた。「この時代のテレビも面白いねー。懐かしのナントカで、見たことのある番組ばかりだよ」とからりとした声で笑い、画面を注視している。


「そんなものか? 君が住んでいる時代の番組と比べたら、古臭くてつまらないんじゃないのか?」

「ん。そんなことないよ」


 言いながら秋葉は、昨日千花に『私のことは名前で呼んでね』と要求されたことを思い出した。しかし、喉元まで出掛かった彼女の名前は、そのまま羞恥の感情に押し流される。

 まだ早い。弁解がましく呟き、千花の下半身に目を向けて、反射的に彼は眉をひそめた。

 ゆったりとしたサイズのセーターだけを羽織った彼女の下半身は、今日も下着が露出していた。裾から覗いていた純白の布地から目を逸らし、目に毒だ、と思う。


「だ・か・ら、下になんか履けと言ったじゃないか。その格好は、二〇代の俺にはちーとばかり刺激が強すぎる」

「あれれ? もしかして、実の娘に欲情しちゃった?」

「んなわけあるか」


 口では否定した秋葉だが、体はしっかり反応していた。本当の娘かどうかはともかく、今は七つしか歳が離れていないのだ。


「んー。白は嫌いだった?」

「いや、白は好みだ。清潔感があるからな……ってそうじゃない。娘だかなんだか知らんが、君は年頃の女の子だろ。ズボンでもスカートでもなんでもいいから、とにかくなんか履いてくれ」


 悪びれた素振りもなく言って退ける千花を、秋葉は怪訝な目で睨む。すると彼女は、一転して肩を竦めた。


「……ごめんなさい。からかいが過ぎました。明日からちゃんとやりますから」


 明日からじゃなくて今すぐ履けよと、これには呆れてしまう。暫定娘に、彼の心の声は届かないようだ。

「さて、飯にするか」とテーブルの脇に座り、今さらのように秋葉は気がついた。

 屑篭くずかごの中は空になってるし、絨毯じゅうたんの上には埃ひとつ落ちてない。


「もしかして、部屋の掃除をしてくれたのか?」


 ドリアのパックを開きながら、彼女が答える。


「当たり前です。ゴキブリが湧く寸前の部屋ですよアレは。たとえるならば、腐海に沈む一歩手前といったところです。あんな場所に自分の娘を一人置いておくなんて、常識を疑いますね」と言って手を合わせた。「では、いただきます」

「いただきます……」秋葉も小声で、彼女に倣った。


 事実なだけに、言い返す言葉もない。

 それにしても、と秋葉は思う。これも今頃になって気付いたことだが、部屋の隅には、洗濯物が綺麗に畳んで置いてある。部屋の掃除のみならず、洗濯までしてくれるなんて案外気が利くじゃないか暫定娘よ。この調子なら、暫定の肩書きが取れる日も近そうだ。

 ドリアで喜んでくれるのかと少々不安だったが、杞憂に終わったらしい。彼女は無言のまま黙々と食べ続けていた。完食して紅茶を口に含むと、ふう、と人心地ついた。


「ところでさ」と気後れするように秋葉は口を開いた。「俺の妻になる人物って、どんな女性なんだい? 職場結婚とかなのかな?」


 軽い口調でさらっと答えてくれるのを期待していたのだが、千花は重大な秘め事でもあるかのように、思案顔でうーんと唸った。


「それはちょっと、教えられないかな」

「どうして? なんか不都合でもあるのか?」

「大有りだよ」と彼女は仰々しい仕草で首を振った。「時間旅行者には、幾つかタブーとされている事柄があるの。これを守れなかったら、重大な問題が起こるんだよ」

「重大な問題?」

「そう、歴史が変わってしまうことだよ。万が一にも未来が改変されてしまったら、内容によっては重大な犯罪行為になるんだよ。だからそれを防ぐために、タブーとされている事柄が三つあるの」と指を一本ずつ折って説明を始めた。「一つ目。過去の自分に面会し、助言をする行為。二つ目。別の時代に住んでいる人物に怪我を負わせたり、器物を損壊する行為。そして最後三つ目。過去の人物に、未来で起こる出来事や情報を伝える行為。ママの名前をパパに教えることは、この三つ目の違反行為にあたるんだよ」そう言って、秋葉に指をぴっと突きつける。「お・わ・か・り?」


 なるほど、それは理解できる話だ、と秋葉は思う。未来の伴侶がわかっているのなら、誰しも自分の行動に変化が生じてしまうもの。

 たとえば、こんな感じに。


『田宮。俺、君のことが好きなんだ』

『本当ですか? 嬉しい! 私もなの秋葉さん』

『俺と、結婚してくれ』

『キャー。秋葉さん素敵!』


 ……しまった。女性と交際した経験がないから、発想が貧相だ。だが、お前の名前は教えて良かったのか? わかったところで、何もできることなどないから良いのだろうか?

 思考を重ねる秋葉の顔を、訝しむように千花が覗き込んだ。


「他に……何か聞きたいことはある?」

「いや……とりあえずはないかな。今、頭に浮かんでいることは、全てタブーのどれかに抵触しそうだしね。何か思いついた疑問とかあれば、そのときまた訊くよ」

「わかった。ああ、でも」と千花は思い出したように言い添えた。「ママは結構スタイル良いし美人だよ。私に似てね」


 ふんぞり返ると、ふふん、と千花は鼻を鳴らした。


「いや。千花が、母親に似ているの間違いだろう」と一応突っ込んだ。


 となると、田宮嫁の線は完全に消えたな、と秋葉は落胆する。どうみても千花と田宮は似ていない。目鼻立ちから髪質に至るまで、真逆と言えるものだった。

 ならば、こんな冴えない男と結婚してくれる物好きな女性とはいったい誰なのか。そんな女神のような存在が、本当に現れるのだろうか。むしろこの暫定娘が……いや、ありえない妄想はよそう。

 秋葉はかぶりを振って思考を断ち切った。


 夕食を終えたあと、しばらく雑談に興じたのち順番に風呂に入る。時計の短針が深夜零時に達する頃合いに、昨日と同じように布団とベッドに別れて潜り込んだ。

 彼女には、使っていないパジャマとスウェットパンツを与えておいた。常日頃、下着が見えそうな格好でうろうろされるのは目に毒だ。……というか、俺が『変な気』を起こしそうで色々問題がある。

 瞼を閉じ、物思いにふけっていると、囁くような千花の声がした。


「もう寝ちゃった?」

「いいや、まだ起きてるけど……どうした」


 顔だけを、声がする方角に向けた。


「夢を追いかけるのってさ、悪いことだと思う?」

「そりゃまたずいぶん抽象的な質問だな。それだけじゃ、なんとも言えないよ」

「私ね、将来は美容師になりたいの」

「美容師と言う職業は、二〇五〇年代でもあるんだな」

「そりゃそうだよ」と彼女は静かに笑う。「何年になろうと、人の髪は伸びるんだもの」

「それもそうだ」と秋葉も釣られて笑った。「もしかして君が……いや、千花がここにやって来た理由と、関係してる?」


 下の名前で呼んだため、動揺した、というわけでもなさそうだが、ごくりと喉を鳴らしたのち、千花は口を噤んだ。

 会話が途切れると、暗闇が黙り込むように沈黙がおとずれた。

 そんな彼女の様子を見やり、そうか、関係しているのか、と秋葉は察した。

「まあ、言いたくないなら言わなくていいよ」と口ごもる彼女に助け舟を出すと、「ごめんなさい」という、らしくもない、蚊の鳴くような声が返ってくる。

 静寂が、再び室内を支配した。千花が布団の中に顔を埋めたのを確認してから、秋葉は部屋の灯りをすべて消した。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 そうして秋葉は目を閉じた。静かに夜が過ぎていく。奇妙な共同生活の二日目は、こうして終わりを告げた。

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