【滞在期間三日目:たまには、手料理なんてどうかな?】

【起きて働く果報者かほうもの

 豊かな生活であれば申し分ないが、たとえ苦しい生活であっても、健康で働ける当たり前の平凡な日常こそが、実は尊いのだという意味のことわざ


 誰にも必要とされてこなかった彼を、待っている人がいるということ。幸せは、穏やかな日常の中に。





 Day3

 ──滞在期間三日目。


 これは二度と手に入ることのない、暖かい団欒の記憶。


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


 翌日の朝。出社準備を終えた秋葉は、テレビから流れてくるニュースキャスターの声を聞きながら、アパートの合鍵を千花に渡した。

 一日中軟禁状態にしておくのも、流石に可哀そうだろうと考えていた。


「ただし──」と秋葉は指を立てる。「部屋の外に出るときは私服で出ること。制服だと、学校をサボっているように思われて悪目立ちする。近所の人らと、むやみやたらに話をしないこと。部屋に女の子を連れ込むイメージなんて、俺にはないからね。いらぬ誤解を招くと面倒だ。それから、下には何か履くこと」

「パパは私のことを、痴女かなんかだとでも思っているの?」最後の約束事には、突っ込みが入った。「いくら私でも、下着姿で外出なんてしません」

「外だけの話じゃない。家の中でもだ」と秋葉が渋い顔になると、「家の中は別にいいでしょ」と事もなげな顔で千花が言う。

 ちなみに今も、下半身は下着一枚。シャツの裾でギリギリ隠れている状態だ。

「つべこべ言ってないで履きなさい」と秋葉が語気を強めると、「しょうがないなあ、わかりました」と彼女は渋々スウェットを履いた。


(7時30分)


 出勤して行く秋葉の姿を見送ったのち、千花はすぐさま行動を起こした。

 まずはと、洗濯から取りかかる。

 裏返しのままで脱ぎ捨ててあった秋葉のトランクスを摘まみ上げ、顔を背けながら表向きに直す。洗濯機に、自分と彼の洗濯物を纏めて放り込み、洗剤と柔軟剤を、自動投入口から容量を守っていれる。『父親の洗濯物と一緒にされるのは嫌だ』という娘の不平不満をテレビや雑誌で千花はよく見聞きしていたが、その気持ちはいまいち理解できなかった。家族なんだし、別に構わないかなって思う。

 洗濯機が振動する音をバックグラウンドミュージックのように聴きながら、今度は部屋の掃除に入った。

 窓を全て開け放つと、ハタキを持って気合をいれる。

 昨日、そこそこ丁寧に掃除をしたつもりだったが、部屋の隅やクローゼットの中はまだまだ埃だらけだ。舞い上がった埃に朝陽が反射してキラキラと輝く様子に、思わずむせ返ってしまう。


 ──こんなの、ママが見たら卒倒するわ。


 自分だけしかいないアパートの一室は、なんとも無機質で物寂しい。気を紛らわすためだけにテレビを点けると、音量を少し高めに設定しておいた。

 今年の冬流行のファッションを紹介する通販番組に耳を傾け、生地が安物ね、と寸評を呟きながら掃除機をかけていく。


「なんだか私、主婦にでもなったみたい」


 そんな感想を胸に抱くが、存外に悪い気分でもない。彼女の顔は自然と綻んで、鼻歌を口ずさんでいた。

 掃除が終わった頃には、洗濯も終了している。洗濯物を干そうと窓を開けて、物干し竿の表面が大分汚れているのに気が付いた。

 何ヶ月拭いていないのかしら、と顔をしかめながらも、雑巾を絞って拭き上げていく。うんうん綺麗になりました。満足げに頷き、洗濯物を干していった。


(9時00分)


「さてと。ここからが本番なのです」


 気合を入れ直すと、千花は秋葉のパソコンに電源を入れた。


「ちょいと失礼しますね」と誰に言うでもなく呟きながら、マウスをクリックしてインターネットに接続した。

 何気なく覗いたブックマークに並んだおぞましい単語に、全身の毛が逆立った。今のは見なかったことにしよう、そうしよう。それがきっと娘なりの優しさというものだ。

 気を取り直して、検索ワードに「オムライスの作り方、レシピ」と入力する。ヒットしたページの中から適当なものを選んでクリックすると、画面に表示された材料と作り方をメモに取った。

 冷蔵庫を開け放つと、必要な材料が揃っているか、メモと突き合わせて確認を始める。


 ──殆ど食材が入ってないなあ。卵はあるけど……数が足りないか。玉葱たまねぎなんて、うん、あるはずもないよね。


 やはり外出するしかないなと彼女は覚悟を決めると、旅行鞄のなかを探って、どの服に着替えようかと値踏みを始める。

 所詮は男の一人暮らし。まともな鏡など置かれていない。ガラステーブルの隅を無造作に占拠していた小さな鏡だけを用いて、軽く化粧をした。とはいえ化粧はさして得意でもなく、ファンデーションを薄く塗って紅を差しただけだったが。

 赤いブラウスに袖を通し、ストッキングと黒のタイトスカートを履くと、財布の中にお金が入っているのを確認してから今日もらったばかりの合鍵を握って部屋を出る。

 時折吹き抜けていく風は肌寒い。視界の先に広がる空は、淡い水色に一面染まっており、幾筋かの雲がたなびいていた。


(10時00分)


 外界の空気を胸一杯に吸い込んでみる。

 肺の中が冷たい空気で満たされると、頭の隅々まで冴えわたっていくようだ。隣近所の表札を眺めつつ歩みを進め、アパートの階段を下りていく。

 コンビニのある場所は、地図アプリで調査済み。このまま道なりに、数百メートルも歩けば着くはずだ。

 住宅の形は、この時代でも殆ど変わらないんだな、なんてどうでもいい感想を抱きながら歩いていくと、品のある小型犬を散歩しているワンピース姿の婦人とすれ違う。こんにちは……と言いかけて、朝の約束事を思い出して口を噤んだ。

 それでも動物の勘とやらは妙な気配を感じ取ったようで、うーと犬に唸られた。縮こまった背中が悪かったのか。それとも私の人相か?


「セブンイレブン」


 コンビニの前に仁王立ちして、店舗の名前を読み上げる。

 看板のデザインは多少異なっているものの、彼女の時代にもあるコンビニだ。よし……と千花は決意の声を落とした。

 コンビニエンスストアの営業形態は、二〇五〇年代も今も大きく違いはない。だが一方で、店舗の内装。間取り。買い物の方法など、異なっている部分も案外多い。

 緊張からガチガチになって店内に入ったのに、迎えたのはピロリロリンというなんとも間の抜けた音だ。拍子抜けしながらも、店内を隈なく歩き回って目的の物を探していった。

 卵と、玉葱と、マヨネーズ。確か牛乳も切らしていたはず。それらを籠に放り込むと、レジの前に並んでみた。


 ──セルフじゃないレジって久しぶりだな。


 彼女が住んでいる時代では、支払いは電子マネーを用いてセルフで済ませるのが定石だった。


「一五二五円です」


 レジ担当の若い女性店員がそう言った。

 一五二五円か、と復唱して財布を開けたが、この時代用に換金してきたお金は見慣れない紙幣や硬貨ばかり。思わず眉間に皺が寄る。間違いがないよう繰り返し金額を確認して支払いを済ませると、とたんに安堵の溜め息が出た。

 レジ袋を提げて店を出る直前、肩ごしに女性店員の顔をじっと眺める。

 化粧が薄いせいか多少おかめ顔だけど、スタイルの良い黒髪美人だ。こんな雰囲気の女の子をパパは好みそう。

 そう感じる根拠はちゃんとある。掃除をしている時、ベッドの下から出てきたブルーレイ。その出演女優になんとなく似ているから。

 まあ……その女優さんは、店員と違ってセーラー服を着ていたし、それも途中で脱いでしまうんだろうけど。

 いかんいかん。脳裏に浮かんだパッケージ裏面の不埒な映像を、かぶりを振って打ち消した。


(12時00分)


 部屋に戻ると、パパが買い置きしてくれていたパンをかじりながら、テレビを視聴する。お昼時に流れるワイドショーは退屈だったが、違う時代の報道番組というのも、それはそれで興味深いものである。

 それにしても……と千花は思う。美味しいものを食べて、ただ味の感想を述べているだけでお金がもらえるなんて、随分と楽な仕事だな、と。私なんて、自腹で食材を買い込んで、美味しく作れるかどうかも、美味しいと言ってもらえるかどうかも不明瞭なのに、と。

 理不尽だ。すっくと千花は立ち上がる。


「よし、美味しいと言わせちゃる。間違っても惜しい、なんて言わせないぞ」


(16時00分)


 次第に日は、西の方角に傾いた。夕陽が部屋の窓から差し込むようになった頃、千花は腰にエプロン巻いてキッチンに立つ。普段から手入れをされていないその場所は、案の定油まみれになっていた。

 一通り掃除をしてからでないと、とても調理を始められそうにない。

 確認不足でした。失念していた自分に不満の声ひとつ。気を取り直して、キッチン周辺の掃除と整理整頓を始めた。


 午前中に調べておいたレシピを片手に、調理を始める。

 玉葱と鶏肉を、まずはみじん切りにする。フライパンにバターを溶かして、鶏肉を色が変わるまで炒める。それから玉葱を加えると、透き通るまで炒めていく。塩胡椒とケチャップを入れて最後にご飯を加えたら、混ぜ合わせながらよく炒めよう。水分が多いと、ベチャベチャになってしまうのでじっくりと……

 次は卵だ。

 ボウルに卵、牛乳、マヨネーズ、塩を入れ、卵を切るように混ぜる。フライパンにサラダ油を敷いて、中火で十分温めてから卵を入れた。

 周りの卵が固まってきたら端の卵を中央に向かって寄せ、綺麗な丸になるよう、フライパンを傾けながら温める。

 半熟くらいで火を止めたら、フライパンから滑らすようにしてチキンライスの上に盛り付ける。

 最後にケチャップを上からかけて……完成っと。


 ──どうだろうか?


 初めて作ったにしては悪くないような気がする。「流石はママの娘ね」と、千花は自画自賛しておいた。

 それから思い出したように、秋葉の携帯電話に留守電を入れておいた。


「今日は、晩御飯を作りましたから、買ってこなくてもいいですよ」


(18時30分。パパが戻ってくる頃合だ。そう言えば、帰宅時間には殆どブレがない。きっと根が真面目なんだろう。なんだかパパって可愛い)


 お風呂掃除をして、落としたお湯が一杯になったタイミングで秋葉が帰ってくる。「ただいま」という帰宅を告げる声が、玄関口から響いてきた。

 待ち人来たれり──パタパタとスリッパを鳴らして、千花が彼を出迎える。


「お帰りなさいパパ。ご飯にする? お風呂にする (沸いてないけど)? それとも、あ・た・し?」

「そういう冗談は休み休み言え」


 あんぐりと口を開けている彼の表情を見て、この冗談は、お気に召さなかったようね、と千花は思う。


「えへへ……。この台詞、一度言ってみたかったんだ。本当のことを言うと、お風呂はまだ沸いてないし、私も心の準備が整ってないの。なので、一先ずご飯にしましょうか」


 臆面もなく言って退ける千花に、秋葉は呆気にとられていた。スーツの上着を脱いでハンガーに掛けると、テーブルの脇に腰を下ろした。


「オムライスか……。本当に作ったんだな」

「偉いでしょ? 褒めて? ねえ、褒めて?」

「うん、なかなか凄いじゃないか。どういう人か知らないけれど、母親の教育が良いんだろうな。俺は、料理なんてサッパリできない人だから」


 千花は冷蔵庫から買い置きのビールを出して秋葉に渡すと、二人並んで手を合わせた。


『いただきます』


 一口食べると、「うん、これは美味しい」と彼が笑顔で褒めてくれる。心配していた料理だったけれど、うまく作れて良かったな、と彼女は思う。

 特になんにもない一日。

 どこにでもあるような日常。

 けれど、この幸せな時間を過ごすことが、千花がこの時代に来た目的の一つであると同時に、憧れていたものだった。美味しそうに食べる父親の横顔を見つめ、彼女の口元は自然と緩い弧を描いた。

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