第7話
その日の夜でした。
変に白くぼやける月と、周りに散る星を浴びながら森の中で寝そべっている時、足音も立てずにハンスが俺に影を作りました。
体を折り曲げて顔を近づけます。
「考えたのだけれど、君を招待する事にしたんだ。おいで」
こっちの都合はお構いなしのようです。
よいせ、と立ち上がりついていくと、そこは蔦の小屋でした。
中は前に入ったまま、瓶や物が沢山並べられていて変わったところはないように見えます。
「……何──」
「──そこの竈に魔女がいる」
ハンスはしっかりと錠がされている鉄の扉を指差しましたが、物に阻まれほぼ見えません。
前は沢山の瓶詰めばかりに目が行っていたのでしょう、よく見ればこの小屋は家だったのだと気づきました。
竈のそばには調理台と思わしき造りがそのままでした。
そして気づきました。
彼は魔女を──そうして、呪いをかけられたのだと。
「僕は助かった食物で、今はグレーテを戻すために生きている」
淡々と話しながらハンスは床の扉を開けます。
あの日見た橙色の灯りが現れました。
「覚えるも忘れるもルカに任せるし、誰かに伝えてもいい。ここから下は、僕のこれまでの旅の記録だ」
恐怖がなかったと言えば嘘になります。
それでも俺は、目の前の青年を知りたいと思いました。
だから、頷きも振りもせずまばたきを一つ落としました。
床の扉の下は螺旋状の階段になっていました。
木の幹をそのままくり抜いたような壁に手を付くと、それは一面に並べられた本でした。
一番下に着くと、そこにはテーブルと一人掛けのソファーが一つ、書きかけと書ききった紙の山と海が広がっていました。
わからない文字と、計算の数字達は古く黄ばんだものから真新しい白いものまで様々です。
魔女の森で、誰も寄らない森。
こんなところで──こんなところで、ハンスは。
「怖がらせてしまったね」
違う、俺が我慢して震えているのはそうじゃないと首を振ります。
彼は解き方を必死に探していたのです。
魔女の呪いの解き方は様々で、幾度と聞き齧った俺の中に、灰になった呪いの解き方はありませんでした。
「……どこか、外の国に方法が──」
「──僕は森に好かれてるって言っただろう?」
それがハンスにかけられた呪いだと気づいた時、俺は声が出ませんでした。
そんな言い方では気づきません──ハンスは、森から出られないなんて。
ここでどんな夜を過ごし、どんな朝を迎えたのか俺には想像つきません。
どれだけ膨大な本を読み漁り、どれだけ出口のない森を歩いたのだろう。
入ってくるだけの晴れた空を見上げては何を思い、望まない雨を浴びては何を想ったのだろう。
「僕が留守番をしてる間、妹は空を飛んでるんだ。国から国へね。今はどこかな……ルカが行った土地にも降りたかもしれないし、もしかしたらすれ違ったかもしれない」
俺と同じように怪我を負って帰ってきた事もあるとハンスは言います。
「……あんたの妹は──」
ハンスは唇に指を立てました。
言葉にするな、と微笑みで答える彼は、俺をこれ以上深入りさせたくないようです。
妹が魔女になっただなんて、聞きたくないのでしょう。
言わせたくないと止めたのでしょう。
俺が、俺の妹がそうなったらと思うと胸が締め付けられます。
きっと、彼は自分の事よりも妹を先に考えてるのだと思います。
俺の時も彼はそうでした。
何がどうという前に、やさしいのだと。
あたたかい人なのだと──。
「──なぁんだ、会わせてくれるのかと思ったのに」
「……うん?」
「本気で言ってる」
彼のように淡々と嘘なく言います。
「美人ですか?」
「え、うん」
「即答っ。あんたに似てます?」
「どうだろ……優しくて気が強いんだ。あとキルシュクーヘンが好きで僕の分も食べる」
甘い甘いさくらんぼのケーキです。
「ふっ、俺も食いてぇ……あー……だから、いつでもいいから会わせてください。っていうかまた来ますし、あんたも会いに来ればいい──もう友人だ」
ここに迷い込んだ俺はただの旅人かもしれません。
この数日限りの人間かもしれません。
けれどそうはさせない、と思いました。
人は呪いを受けたものを恐れます。
それに魔女もです。
俺は人間以上に怖いものを知りません。
今、目の前にいる人間ではないものは、友人です。
それだけで腹いっぱいです。
だから、次の約束を。
一区切りついた旅の後に続く約束を。
「……ふふっ、ははっ! 本当に君は変な奴だね」
「あんたに言われたくないんですけど?」
「それ、増々変なの気づいてる?」
「う……まぁいいです。それで?」
俺は手を差し伸べたまま止まっていました。
手を取るのは助けるためじゃありません。
助け合うための、握手です。
ハンスはこれまでよく微笑んでいました。
今、本当のそれを見た気がします。
くしゃっ、とした顔は、童心のままの彼でした。
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