第2回
三
翌日、朝早い時間帯から殺人事件の捜査が開始された。今回は犯人が強盗である可能性が高いことから、防犯カメラ映像の収集、周辺での聞き込みの捜査、いわゆる地取り捜査と、犯人が残した遺留品の鑑定などを担う鑑識捜査の二本柱で進められる。
早見は警察署内で一夜を過ごすと、京王線と東京メトロ丸の内線を乗り継いで、霞ヶ関の警視庁本部に戻った。用事は六階の自分のデスクではなく、鑑識課にある。
庁舎内の廊下を進み、鑑識課のオフィスの前まで来た。部屋のドアをノックし入室する。
「おはようございます。橋本、来たぞ」
彼と警察学校の同期で、刑事部鑑識課で足跡担当の係に勤務する橋本は、机に顔を伏せたまま、早見の呼びかけに右手を上げた。顔を机から離して、こちらを見る橋本の目の下には、クマが出来ている。
「お前、寝てないのか?」
「しょうがねーだろ。俺、当直当番だったんだよ。しかも他の係の奴に頼まれて、別の鑑定も手伝ったんだから。三時間しか寝てないんだよ」
ほら、早見はコンビニで購入した栄養ドリンク二本を橋本に渡した。礼を言って、蓋を開けて、同期は差し入れを一気に喉に流した。
「お目当てのゲソ痕はこれですよ」
橋本は早見が訪ねてきた理由をよく分かっていた。あくびしながら早見に足跡採取シートを渡した。「ベランダから採取したものだ。同じこのゲソ痕が、現場から十個以上見つかった」
「メーカーは?」
「それを確認しようとしたら、寝落ちしてたんだよ」
「おっ、うちの係じゃない野郎がいるじゃないか」
顔に笑みを浮かべながら足跡係主任の
「おはようございます」
「昨日発生したコロシの捜査か?」
岡留が早見に質問したので頷いた。「現場でホシが履いていた靴のゲソ痕が採取されていて、その原物を見ようと思って」
「主任、これ、どこのメーカーの物か分かりますか?」
橋本が待ってました、と言わんばかりに、足跡採取シートを岡留に寄越した。渡されたシートを岡留は手にするとすぐに、
「これはアトランティス社の『スピードランII』だな」
即答した。これは岡留の特技である。
岡留は「足のオカドメ」と呼ばれるほど、警視庁内で大のシューズ好きで知られている男だ。採取した足跡を見ただけで、今のようにシューズメーカーと商品を当てる特技を持っている。若い警察官からは「靴ヲタ」とも呼ばれているが、本人はそのあだ名の方が気に入っているらしい。また、岡留の自宅を訪ねたことのある職員の話によると、岡留宅はシューズだけが丁寧に陳列された部屋があって、その数は本人が分からなくなるぐらいだったと言う。
「岡留さん、これもその『スピードランII』ですか」
茶封筒から取り出したのは、南大沢署が連続下着窃盗事件で採取した、下着窃盗犯の足跡だ。これもすぐに手に取ると、「同じだな」岡留は言った。「間違いない。この二つは、『スピードランII』だ」
サイズと靴のメーカーが一致した瞬間だった。下着泥棒と今回の殺人犯は、同一人物だ。
「このシューズは一年前から販売されているモデルで、前作の『スピードラン』より更に軽量化されて、より走りやすく改良がなされている。業界でもトップクラスの売り上げを誇っているんだ」
「じゃあ、販売された靴を洗う線は難しいですよね」
早見が岡留に言うと、「止めといた方が良いな」足跡係主任は腕を組んだ。
「さっきも言ったが、このシューズの売り上げは業界トップクラスだ。しかも、アトランティスはアメリカの会社で、世界中にユーザーがいる。日本だけでも取り扱っていない店舗を見つけることの方が難しい」
つまり、どこにでもある靴なのだ。早見は街を歩いていてすれ違う人の靴を意識して見たことはないが、人気のある靴なら嫌でも眼中に入る。そんな靴から犯人を割り出すのは、川の水に生息するプランクトンを顕微鏡無しで見るような物だ。
「これですね、アトランティスの『スピードランⅡ』」
橋本は本棚から引っ張ってきたアトランティス社のカタログのページを開いた。カタログの二十ページに掲載された『スピードランⅡ』は、全部で四種類の色のモデルが用意されている。白、黒、青、オレンジ———値段は一万九千円。良い値段するものだ。しかし、これが平均的なシューズの相場らしい。
「カッコいいなあ」
ポツリと感想を述べた。そのデザインが何より良い。写真から伝わるシューズの軽さ、人気の理由が分かった気がする。
その言葉を聞いて、隣に立っている岡留は、
「そうだろう! カッコいいよなぁ!」
目をキラキラさせている。肩を叩かれた。橋本を見ると、顔はニヤニヤしていて、やれやれとでも言うような感じだ。戸惑った早見だが、すぐにこの状況を飲み込んだ。しまった、捕まった———。
「いい店、知ってるんだよ。今から連れて行ってあげる」
岡留は靴を見ながら「カッコいい」「これ良い」などの言葉を発した者にすぐに反応し、彼が普段から足繁く通う大田区のスポーツ用品店に出掛けさせられる。こうなると、岡留本人は止まらない。今までに多くの警視庁の職員が被害に遭ってきた。
「岡留さん、大丈夫ですから……」
と、言ったが、「遠慮するな」既に岡留は着替えてしまっている。橋本に助けを求めたが、どうしようもなかった。
橋本に見送られながら、早見は岡留に行きつけの店に連れて行かれたのだった。
四
「どうしたんですか? それ———」
お昼の一時を越えて、捜査本部に帰って来た早見が一つの箱を抱えていたので、羽根田は驚いた様子で訊いた。
「買ったんだよ、さっき」早見は苦笑いを浮かべながら、箱を机の上に置いた。「正確には買わされたって、言う方が正しいのだけどね」
箱を開けると、現れたのは、黒にピンクのラインが入ったランニングシューズだった。
「足跡班の岡留主任に連れられて、主任顔馴染みのスポーツ用品店に行ったんだ」
早見が受けたことをすぐに理解した相棒の羽根田は「それは災難でしたね」と彼に同情する。「あの人、靴に対する熱意がすごいですからね」
「この靴、どうしようかな……」
難しい顔で早見は購入したランニングシューズを睨む。早見は普段スーツを着て仕事をしているので、履いている靴は革靴だ。ガサ入れや対象の尾行といった際は、容疑者が逃走する可能性もあるため、ランニングシューズを履くが、それでも違和感のないタイプの物にする。
「履く時ないですからね」
「参ったなあ。これは」
腕を組んで真剣に悩む。返品しようにも、スポーツ用品店の店長に悪い。今話題のフリマアプリを使おうとも考えたが、やり方がさっぱり。
「
パイプ椅子の背凭れに深く凭れた早見に羽根田が提案した。「沙佳ちゃん、高校生ですし貰ってくれますよ」
早見沙佳は、早見の一人娘で、現在神奈川県立の高校に通う高校二年生だ。六年前から早見が一人で育てている。そういえば、部活で使う新しい靴が欲しいって言ってたなあ。
「サイズも大丈夫そうだし、そうするか」
ナイス羽根田、早見は羽根田に親指を立てた。
蓋を閉め、シューズの入った段ボール箱をロッカーにしまうと、そういえば、と切り出して、
「現時点で新たに分かったことはあるか」
羽根田に問いかけた。
「今、防カメのリレー捜査を行っています」
羽根田が言った。「こっちです」リレー捜査班を見せるそうだ。会議室の一角にパソコンが並べられたスペースが出来ていた。作業しているのは、サイバー課から招集された捜査員三名だ。収集した防犯カメラ映像を繋ぎ合わせて、犯人の逃走経路を割り出す、いわゆう『リレー捜査』が行われている。以前、渋谷のハロウィンの日に発生した軽トラ横転事件。その際に、事件を起こした、関わった容疑者を特定するのに使われた捜査方法だ。
「鈴木らが周辺の防犯カメラの映像を集めては持って来ているんですけど」
「現場周辺には、薬局やファーストフード店があったよね」
事件の現場となったマンションから一分も経たない所に薬局があって、徒歩五分程の所に大通りに面した飲食店が立っている。
「そっちの方面、映ってなかったんですよ」
羽根田はため息を吐き言った。早見は舌打ちをする。「マンションを出て、右へ逃走した所までは分かったんですけど、そこから先はプッツリです」
犯人が逃走した方面は住宅街だ。最近、空き巣や車上荒らし対策として、防犯カメラを自宅に設置する人は昔と比べて増えてはいるが、それでも設置にかかる費用が高いので、ある家の割合は少ない。「ある家を見つけては借りてくるを繰り返してはいるんですけど……」防カメ分析担当の捜査員は早見に言い、後頭部を掻いた。
「渋谷とか日比谷みたいに、顔を上げれば防犯カメラがある、そんな街じゃないですから」
「早見さん、かなり骨が折れるヤマになりそうですね」
だな、頷いて早見は嘆息した。いくら時代が進もうが、捜査をするのは人間だからこれは仕方のないことだが。
会議室のドアから、武田係長が入って来た。今年五十八歳。銀縁メガネがよく似合う、初老の大ベテラン刑事である。彼は早見に目を停めると二人の元に歩み寄った。
「早見、ちょっとだけ良いか」
なんでしょう、そう訊くと、
「さっき、被害者のご遺体が遺族の所に返されてな。明後日、葬儀を行うそうだ。私は小野田さんから顔を出すように言われているんだが、君も一緒に来て欲しい」
被害者の葬儀だ。お焼香を上げるため警察も出席する。「明後日の夜は空いているか?」
特に大事な用事はなかったので、大丈夫です、そう旨を伝えた。
「係長、自分も行きます」
羽根田が挙手して武田に言った。定年が近付く係長は頷いて了解した。「じゃあ、三人で顔を出すことを報告しておく」
今日は帰宅して、喪服を引っ張りださないとな——喪服はクローゼットに仕舞ったはず、早見は思い出した。
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