第七章:アメイジング・グレイス
第二十二話『驚くべき恵み』
1.
さぁ、俺達の灯火を消そう。
崖の上に二人で佇む。
しばらくの静寂があり、先に言葉を発したのはイノリの方だった。
「カガリさん。私はカガリさんと出会えて幸せでした。大好きです」
そう言いながら優しく微笑むイノリ。
「俺もイノリと出会えて幸せだった、愛してる」
一度だけ、短いキスをする。まるで別れを告げるように。
「それじゃカガリさん――私を殺してください」
「あぁ。ようやく願いが叶うな」
イノリを優しく抱きかかえ、深く息を吸う。
俺の事を抱き返すイノリを見つめながら、海の中に飛び込んで行く。
――海の中で、お互い抱きしめ合う。
どんだけ息が苦しくなろうと、どれだけ体温が下がっていこうと。
お互いの唇を重ね、お互いに抱き合い。
確実に命の灯火を消していく。
あぁ、もう少しだけ一緒に居れたらな。
そう思った俺が居た。
2.
アメイジング・グレイスは作者が奴隷商人をやっていた頃、船が難破しそうになった時に改心したのがきっかけで生まれた曲である。
驚くべき恵み、なんと甘美な響きなのか。私のように悲惨なものを救ってくれた。
かつては迷ったが、今は迷わない。かつては見えなかったが、今では見える。
神の恵みが私に恐れを教え、そして恵みが私を恐れから解放した。
どれだけ素晴らしい恵みが現れただろう、私が最初に信じた時。
多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え私はここにたどり着いた。
この恵みがここまで私を無事に導いた。だから、恵みが私を家に導くだろう。
そう、この身体と心が滅び私の命が終わる時、私は来世で得るものがあります。
――それは喜びと平和の命です。
『――アメイジング・グレイス』
「ハウ・スウィート・ザ・サウンド――」
俺とイノリの歌声が重なる。もう海の中だと言うのに、おかしな話だ。
あぁ、イノリ。お前に出会えてよかった。俺にとってはイノリは女神だ。
そう、祈る対象――俺の拠り所がお前だったんだ。
3.
「カガリさん」
「イノリ」
あぁ、本当に。
「生きてますか?」
「生きてるな、なぜか」
俺達は飛び降りたはずの場所で座り込んでいた。
しばらくの無言を波の音が支配し、最初に口を開いたのはやはりイノリだった。
「じゃあ、もう一回飛び込みますか?」
「それは神が許してくれないだろうな、それにお前も」
えぇ、許しませんよとイノリは笑う。
「カガリさん、本当に私の事大好きなんですね」
「イノリの方もそうだろう?じゃなきゃこんなことにはなってないさ」
二人で笑う、無邪気な子供のように。
これはお互いがお互いを蘇生してしまったと言う事なのだろう。
残り僅かな灯火を託すかのように、お互いの灯火を入れ替えた。
更に寿命が短くなっただろうが、それでも少しの間だけ生きていられると言うだけで良いんだ。
「帰りましょう。こうなっちゃったらしょうがないですから」
「あぁ、家でその時を待つのもいいな。大家からしたら堪ったもんじゃないだろうが」
キスをする、温もりを感じる。抱きしめ合う、また温もりを感じる。
俺達はまだ生きている。忌々しいあの曲のおかげで、二人の灯火は完全に重なっただろう。
あと何日一緒に居られるかわからないけど、それでもいいさ。
この一秒が、この瞬間が幸せな、甘美な時間なのだから。
「イノリ」
声をかける。
「はい?」
イノリは首を傾げる。
そっと抱き寄せ、頭を撫でる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
その時風が凪ぎ、二人だけの空間になった。
だけど、結局この日が俺達の最後の日になった。
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