ねこが鳴いている

ひゃくねこ

ねこが鳴いている

「今、何時なんだろう」


 休日の居間でまどろんでいた私は、夢うつつのまま思っていた。

 いつ寝入ったのかも覚えていないが、もう昼前くらいのはずだ。


「まだ眠い、疲れてるんだな」


 もう60前になって、それなりにポストも上がって、仕事も少しは楽になるかと思えば、毎年のように開発される新技術とやらを勉強しなきゃならないし、それに伴う人材育成なんて担当すれば、自分の息子より若い子たちを教えなきゃならない。

 それにしても、あの子たちは同じ世代のはずなのに、1年か2年違うとキャラが全然違う。そんな子たちそれぞれに合わせて育成するって、本当に疲れるよ。


「それにしたって、そろそろ起きなきゃ」


 もう夏に差し掛かる季節、気持ちよく寝るにはエアコンが欲しくなる頃だ。

でも、今日はそれほど暑くない。


「今日は風が入るな。窓を開けてるのか、風通しがいい家だからな。」


 2年前に手に入れた我が家は築40年、古いがきちんとリフォームされているし、夫婦二人が暮らすのには十分すぎる広さがあった。


 ずっとアパート暮らしだった私たちには、築40年なんて全然気にならなかったな。その中でも居間は広めの台所と繋がっていて、我が家の中心にある、一番居心地のいい場所だ。

 その居間で、今私が寝転がってるのは30年も使っている丸いちゃぶ台の横。

 もう30年、飯の後はこうやって寝転がるんだ。ゴロンってね。


「ちいさな贅沢、至福の時ってやつ、それにしてももう、30年か」


 就職して一人暮らしを始めた頃、どうしても丸いちゃぶ台が欲しくて、あちこち探して買ったんだったな、うん、ずいぶん探した。でも買って良かったな。


 ぼんやりした頭で、私はそんな事を思い出していた。


「丸いってのが大事だったんだ。」


 そう言えばあの頃、丸いちゃぶ台に向かってひとりで座ると、なんとなく家族が欲しくなったな。丸いちゃぶ台をみんなで囲む、そんな家族が欲しかった。


 丸いちゃぶ台は、幸せな家庭の象徴だったってわけだ。


 そうして暮らすうち、丸いちゃぶ台の、私の真ん前に座ってくれる女性が現れたんだ。

 

「出会いはちょっと面白かったな」

「そうそう、エレベーターの中だ」

「俺が乗ってるエレベーターのドアが閉まりかけるとこに、すいません!って乗ってきたんだった」

「もしあと1秒違ってたら、出会ってなかったな」


 それが私の妻との出会い、懐かしいな。

 そのうちに丸いちゃぶ台の周りにはちっちゃい子供が座るようになって、それがふたりになった。


 ちっちゃくて可愛い子供たち、にぎやかな我が家。

 でもいつの間にか大きくなって、生意気なこと言うようになって、そして感謝の言葉を残していなくなっちまった。


「ははは、俺たちが歳を取るわけだ、今じゃ俺もかあちゃんも、すっかりジジババだもんな」


 そんな事に思いを巡らせた私は、少し自虐的に独り言を言ってみた。


 しかし静かだ、いつもなら私の大きすぎる独り言に相槌を打ってくれるのに。

「そうねぇ、確かにお父さんはジジね」なんてね。


「そうか、かあちゃん仕事か」


 私は妻のことを「かあちゃん」と呼んでいる。名前を呼ぶこともあるけど、お互い「お父さん」と「かあちゃん」だ。

 改めて考えると変なもんだけど今更変えることもできないよ。

 そしてかあちゃんは、今いない。

 私が寝てる間に仕事に出たんだろう。


 そんなことを考えながら、私は薄目を開けた。


「なんだ?」


 薄暗いのに、天井の模様がやけによく見える。杉の板を焼いた天井には年輪や節の模様があって、その形は鳥のようでもあり、魚のようでもあり、一点をじっと見つめると、その周りにたくさんの顔が浮かぶようでもある。


「あの顔は、そうだ、有名な画家の絵だ、えっと、さ、け、、叫ぶ、だったかな?」

「ああ、あれは漫画の主人公に似てるな、誰だっけ、えっと、れ、れん、えっと」


 結局その主人公の名前は思い出せなかった。

 何かがおかしい、ただ眠いだけじゃない、頭の中にもやか掛かっているようだ。


「思い出せない、なんでだ?」


 そしてもうひとつの違和感に、私は気付いた。

「静かだ、静かすぎる」

「いつもは賑やかなんだ、子供らじゃない、でも僕らの子供」

「そうだ、てんが静かなんだ」


 もやの掛かった頭の中に、1匹の猫の顔が浮かんだ。


 子供らが独立して、すっかり静かになった我が家。

 最初のうちは「新婚に戻ったな」なんて言って新鮮だったもんだが、会話はすぐに少なくなってくる。それはきっと、どの夫婦も経験してる、嬉しさと寂しさが綯い交ぜになった感情なんだろう。

 そんな時のふたりの会話はいつも子供らのことだ。


「いつ帰ってくるのかな?」

「頑張って仕事してるのかな?」

「彼氏はできたかな?」

「彼女はできたかな?」

「花嫁の父とか、恥ずかしいよな」


 てんは、そんなときに拾った三毛猫だ。


 夫婦二人の生活に突然現れた猫は、すぐにかけがえのない存在になった。

 なにしろ勝手気ままに遊んで、食べて寝て、そして甘える。


 まるで「永遠の赤ん坊」だよ、可愛いに決まってるじゃないか。


 いつもなら寝ていてもニャーニャー纏わり付いてくるのに、今日はいったいどこにいる?


「てん、てん!!」


 名前を呼んでも返事がない、いつもなら飛んでくるのに。


「ははぁん、これはかあちゃんの部屋の鏡台の裏だな?」

「奥の部屋にあるから声が聞こえないのか」

「しかし、あそこに逃げ込むのはよっぽど怖いことがあったときなんだがな」

「かあちゃんが怒ったのかな?」

「いや、かあちゃんは仕事だ」


 そこまで考えて、私は自分の間違いに気が付いた。


 そうだ、そもそも今日は日曜日。かあちゃんの仕事は休みじゃないか!


「かあちゃん、かあちゃん」


 やっぱりいない、ひとりで買い物に行ったんだろうか?

 起こすのをためらうほど、私は寝てたんだろう。


 実際、私はまだちゃぶ台の横に寝転がったままだ。


「目が覚めてもう、30分くらい経つかな?」


 頭にはまだもやが掛かっているようだ。


 昔のことはたくさん思い出されるのに、今日のことはちっとも思い出せない。


「今日は、朝から何があったんだっけ?」


 思い出せない。


 私はぼやけたままの頭で、どこかにいるだろう猫の名前を呼んでみた。


「てん、てん、てーん」


「にゃん」

 居た!

 ずいぶん小さい声だ。やっぱり奥の部屋のようだ。


「てん」「にゃん」


 少し大きくなった、でもおかしい、いつもなら飛んでくるのに。


「てーん、おいで」

「にゃん」


 また少し大きくなった。


「ん?」

「カリカリと何かを引っかく音がする」

「何を引っかいてるんだろう?」

「どこだ?」

「台所か?」


 私の頭はぼやけたままだ。


「おかしいな、腕に力が入らない」


 ふいに、恐ろしい考えが浮かんだ。


「もしかして俺、脳梗塞かなにかで、倒れちゃったんじゃないか?」

「だから今日のことが思い出せないし、体も動かないんだ」

「大変だ」


「にゃん」

 てんの声が聞こえた。今度はずいぶん大きい、きっと足元だ。


「てん」「にゃん」

 近づいている。腰のあたりか?


「てん」「にゃん」

 やっと来た、ずいぶんと時間が掛かったもんだが、てんは私の顔に濡れた鼻を押し付けて、少し甘えている。


「元気がないな、やっぱりかあちゃんに怒られたんだろう」


 私はてんの頭をなでてやろうとしたが、やっぱり腕が動かせない。

 するとテンは、体をビクッと震わせた。


 これは何かを見つけたときの動きだ、いったい何を見つけたのか?


「にゃん、にゃん、にゃん」

 てんは私の顔に体を擦り付けながら、一緒に行こうと言う様に鳴いてたが、しばらくするとどこかに行ってしまった。


「てん、てん」

 てんはもう応えない。


「てん、てん」

 またひとりになった私は、急に不安に襲われた。


「てん、てん」

 なぜだろう? 声が出しづらい、急に胸が苦しくなってきた。


「てん、てん」



「にゃーーん」

 てんだ!、あの鳴き声は誰かを呼ぶときの声だ!

 それにしてもずいぶん小さい、どこで鳴いているのか?


「にゃーーん、にゃーーん、にゃーーん、にゃーーんにゃーーん」

 てんが鳴いている、間違いなく誰かを呼んでいる。


「にゃーーん、にゃーーん、にゃーーんにゃーーんにゃーーんにゃーーん」


「おーい」

「おーい、ちょっと待て、あれ!」


 誰か来た!


 誰だ?


 家の外で聞こえる、いったい何があった?


「おーい、猫がえらく鳴いてるぞ!、みんなちょっと来てくれ!」

「にゃーーん!にゃーーん!にゃーーん!にゃーーん!にゃーーん!にゃーーん!」


「分かった分かった!、おーい!!、誰かいるのか!、いたら返事しろー!」

「おい、ここだここだ!、誰かいるみたいだぞ!、猫が鳴いとる!!」

「どこだ!」

「にゃーーんにゃーーんにゃーーんにゃーーんにゃーーん!!」


 私はようやく目を見開いて、しっかりと周りを見た。


 天井は、私のすぐ目の前にある。


 居間から続いているはずの台所は、瓦礫に埋まってその存在すら分からない。


 丸いちゃぶ台は、私の胸に覆いかぶさっている。

 でも、そのちゃぶ台が作ったわずかな隙間に、私は挟まっているんだ。

「ちゃぶ台で、助かった?」


 木の匂い、食べ物の匂い、何かが焦げた匂い、いろいろな匂いがどっと私の鼻になだれ込んできた。


「そうか、そうか」


 私はすべてを思い出した。今日の朝のことだ。


「俺は朝飯を食って、いつものように、ちゃぶ台の横にごろりと横になった」

「かあちゃんは台所で洗いものをしていたはずだ」

「そのとき、家がものすごく揺れて、俺は立ち上がる間もなく意識を失った」

「そうだ、大地震だ」

「そうか、てんは俺を助けるために、外に出て人を呼んだのか」


 ガラガラと瓦礫をどける音がする。

 薄暗かった目の前に、少しずつ光が差している。


 てんはやっぱり鳴いている。


「にゃーん にゃーん にゃーん!」


「おい!おい!、大丈夫か?、動けるか?、あんたひとりか?、誰か他にいるか?」


「にゃーん にゃーん にゃーん にゃーん にゃーん にゃーん にゃーん!」


「いやまだ!、うちのが、家内が、かあちゃんが奥に!、も、もう一人いるはず!」

 そう言った瞬間、てんの声に聞きなれた声が混ざった。


「にゃーん にゃーん よかった にゃーん にゃーん よかった にゃーん おとうさん!」


「よかった にゃーん よかった にゃーん おとうさん!」


「おとうさん! おとうさん! おとうさん! おとうさん! おとうさん!」


「お父さんっ!!!」


 かあちゃんの声だ。


 てんの声はいつの間にか、かあちゃんの声になっていた。


 胸が詰まった。


 オレは泣いた。


 子供のように、泣いた。

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ねこが鳴いている ひゃくねこ @hyakunekonokakimono

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