94 開高健『日本人の遊び場』⑱
開高健『日本人の遊び場』、長くなりましたので最後に「浅草木馬館」を取り上げて、終わりといたします。
演芸場である1963年の浅草木馬館、どんな場所だったのか興味深いです。開高健がどう見ていたのか、読んでいきましょう。
〈もう何年も以前から、しばしば聞かされる意見なのだが、東京育ちの友人にいわせると、浅草はすっかりさびれたということである。さびれたというのは、不景気になったという意味ではない。浅草は年を追ってひろがり、のび、ネオンの花はいよいよ咲きみだれてにぎやかである。けれど、浅草独特の体臭はすっかり薄れ、失われてしまった。〉
その町へ「入った」という、固有のものにぶつかる快感、ざわめきが薄れたという意味で「さびれた」ということなのです。開高は大阪育ちなので黙って聞くのでした。
〈けれど、ここに一つ、珍しい例外があって、〝浅草気分〟をいまだ濃厚によどませている場所がある。〝木馬館〟がそれだというのである。ここは〝浅草〟と安来節のさいごのとりでなのだそうだ。〉
安来節に説明が必要ですね。
●安来節保存会
https://y-hozon.com/
島根県の代表的な民謡で、どじょうすくいの唄として知られる安来節ですが、大正、昭和にかけて全国的にブームとなります。
『日本人の遊び場』の昭和38年あたりに、安来節の世界では何があったのか。安来節保存会サイトの安来節略年表を参照しますと、昭和33年に、
〈宝塚歌劇団にて安来節踊り上演し上演1ヵ月予定を2ヵ月に延期。〉
と、あるのでなんだかすごい。
けれど、開高が木馬館へ出かけた頃は、「安来節さいごのとりで」ということで、ブームも終盤だったのでしょうか。略年表に戻りますと、昭和39年に、
〈安来節後援会誕生。保存会を後援し、併せて振興をはかる。〉
ということですから、保存、振興の必要性が浮かんできたというところでしょうか。
『日本人の遊び場』に戻ります。
〈それが、今年の正月に、ある人につれられて、はじめて木馬館へいった。正月だものだから超満員のスシづめで、人ごみのなかにたち、身うごきもできずに壁におしつけられた。あまり広くもない薄暗い観客席にはタバコのけむりがもうもうとたちこめていた。〉
わびしい幕の下がる舞台では奇術、漫才、浪曲、アクロバットなど、三味線と太鼓とレコードの鳴り物で次々に演じられます。
〈けれど、小屋のなかには、ある熱と活発さがあって、貧しさと安っぽさとわびしさを圧倒していた。安来節の女芸人が舞台にあがるとその熱と活発さがいきれの生暖かい泥の中から地下水が噴出するようにとびだした。人びとは拍手し、叫び、野次をとばし、あたりはばかることなく哄笑した。匕首のように鋭くて短い野次をとばすのもあり、薙刀をふりまわすようにとうとうタラリと六方踏んで長い、長い口上をのべたてるのもあった。女芸人は四方八方からとぶ野次をおめず臆せず、右に左にとりさばいてみごとに野次りかえして客をヘコました。〉
何という熱気! 続きます。
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