91 開高健『日本人の遊び場』⑮

 テクニランド。続きです。


 にわか知識をもう少し。1963年の大衆にとっての自動車はどんなかんじだったのか。前回ご紹介した奥川浩彦氏のブログを思い出しながら、資料も頼りにざっくりまとめてみます。


 毎度の『昭和・平成家庭史年表1926-1995』(河出書房新社 1997)によりますと、


・昭和24年(1949年)は東京都内がでの自動車が急増した年。警視庁に登録された昭和23年の自動車台数3万9,096台が、24年12月末には5万214台となったそうです。

・昭和38年(1963年)、自動車沿う保有台数が500万台を突破し、乗用車は100万台を突破したということです。


 テクニランド系列の鈴鹿サーキットも同年表からおさらいします。詳しくは前回にご紹介した奥川氏のブログをどうぞ。


・昭和37年(1962年)9月20日三重県に鈴鹿サーキット完成。第一回全日本オートバイ選手権ロードレースが開催されました。

・昭和28年(1963年)5月5日、鈴鹿サーキットで第一回日本グランプリ自動車レースが開かれます。


 ということで、『日本人の遊び場』「テクニランド」の回、やっぱりモータースポーツ創成期のざわめきがある時期のものなんだなあと納得したところで進めます。


 テクニランドという会社は『多摩テック』をはじめ、各地にレースを楽しむ場所を作ります。開高はその『多摩テック』へ到着します。


〈『多摩テック』の雰囲気はにぎやかなものである。藁屋根や田圃や竹藪などのあいだをまっ白な土埃をあげてよろよろとはしってゆくと、とつぜん丘と丘とのあいだに、アメリカ西部のロデオ大会の会場が出現するのである。〉


 屋根、壁、柵、すべてが原色に彩られた、生活感を排除した空間です。


〈つまり、早くいえば、ここはうれしい〝外国〟でもあるんだな。私たちの心のふるさと(!)、憧れのアメリカやヨーロッパの破片があるわけだ。〉


 遊園地的なものも配置されていたようで、こんな記述が続きます。


〈ほかの遊園地とちがうのは、ここの乗りものがみんな線路に固定されていないことである。テントウ虫みたいな〝円盤カー〟、超小型オートバイの〝モンキー・オート〟、ボディーをはずした〝ゴーカート〟、走る茶碗、走る帽子、走るイス、全能と速度と沈黙のハイウエーの王様をそっくりちぢめた〝白バイ〟、〝スポーツ・カー〟、〝レーサー〟、〝メリー・オート〟、〝アベック・モンキー〟、〝オート・スケーター〟〉


 それぞれ、どんな乗り物だったのか興味ありますが残念ながらこの本は写真がありません。モンキー、ホンダのあのモンキーでしょうか。友達が好きだったなあ。


〈……あの手、この手とつぎからつぎへとくりだしてくるお子様向き乗りものが、すべて本物であって、一台、一台に、世界に冠たる国産小型エンジンがとりつけてある。スイッチを入れると、あとは自分の手と足でハンドルを操り、アクセルを踏みかえ、ブレーキを踏みかえして、やっていかなければならない。超小型〝スポーツ・カー〟のボディーはブリキ板だが、ギアは、りっぱなものだ。ちゃんと三段ミッションになっている。

 大の男が子供のために頭をひねり、精力をかたむけてつくった〝本物〟ばかりなのである。これらの乗りものは、ほかの遊園地のとちがって、すべて、子供に帰順していないのである。たえず自分の意志で走ろうとし、叛逆の機械を狙い、すきさえあれば逸脱し、操るものを嘲笑しようとしている。これをとりおさえ、右に左にさばき、なだめたり、殺したり、解放したりすること。その快感は圧倒的なものである。〉


 私は運転免許証はマニュアルで取得しましたがAT車しか乗っていません。もはや坂道発進ができない自信がありますので、子供相手になんて容赦ない乗り物なのだと戦慄するのですが、モータースポーツの魅力はそこにあるのでしょう。開高の筆が冴えわたります。次回に続きます。

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