79 開高健『日本人の遊び場』③
「ナイター映画」の回。
橋幸夫の映画などが陳腐な娯楽作品扱いされて映画界へのちょっとした不満が伺え、独立プロ作品『裸の島』が称賛されています。
多分これが当時の気分のひとつだろうとは思うのです。
あわせて、『舞妓はん』『ギャング同盟』などが上映されているナイター映画館のこんな情景が描写されます。
〈映画は集団性において小説とはお話にならないくらい強力なのに、これほど幼稚でおぼつかないものもない。たどたどしい少年、少女スターが展開する舞妓と板前のカビがはえたみたいなおきまりのだらしなたあ悲恋物語を深夜の若い人びとがどのように眺め、味わい、判断を下したことか、私には手さぐりのしようがないのである。〉
〈けれど、その映画を、深夜に、じっと身じろぎもしないで、いっしんに見入っていた若者たちの生活にくたびれきった横顔は、侮蔑と忘我を同時にうかべたその横顔は、やはり私をうった。まじめにはたらいて苦しんでいるらしい少年、少女たちなので、そういう人たちがこういう低能映画にひきずられているのを盗み見るのは、あたりにみなぎる汗の匂いの重さとともに、私には、胸にタバコのヤニのつまったような気持ちのすることだった。〉
考えてみれば、この『日本人の遊び場』は1963年に書かれています。
日本映画。1963年も今の時代から振り返ると楽しい傑作がたくさんありますが、そもそも映画は不良が見るものでしたし同時代から見れば作品数もありすぎて食傷気味だったのでしょうか。
この「ナイター映画」の回で取り上げられている映画は残念ながらほとんど見ていないのですが橋幸夫や舟木一夫や坂本九の映画が好きなのでこの書かれように言葉を失いました(笑)
私は、2000年前後あたりにここで〈低能映画〉と呼ばれている作品に携わってきた監督のお話を伺う機会が何度かあり、そのたびに、まさにここで言われている「まじめにはたらいて苦しんでいる」若者のために心を込めて撮っていたのだという職業人としての矜持と誇りに感じいっていたのです。低能はないよなあ。
という、世代のギャップを感じつつ、当時の「都会で働く若者」が抱えていた苦しさについては、作り手側も、開高健のようなルポルタージュの書き手にも共通した認識だったんだなあと確認したところで続きます。
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