第10話 放課後の密談

「単語テストの時はごめん」

バッグを肩に掛けた信二が、光一の机の横にやってきた。表情は柔らかくなっていたが、顔色は相変わらず青白かった。

「いいってことさ。それより、もうすんだの?」

「うん、7個まちがえたから、7かける5で35個書けばよかったからね」

「で、光一は?」

聞きながら光一のテストをのぞきこんだ信二の顔が強ばった。

ペケマークは優に半数を超えていたのだ。いくつ英単語を書けばよいのか、計算するだけでも恐ろしい。

「いいよな、もう自由だものな」

溜息をついた光一に、信二は悲しそうに首を振った。

「家に帰ったら、すぐに勉強しないといけないんだ。塾でテストがあるからね」

「塾でもテスト、それは大変だ」

「じゃあ」

「ああ」

光一は肩を落として教室を出ていく友人の後ろ姿を見送った。


六時限目が終わった教室・・放課後ながら多くの生徒が残っていた。勉は、おそらく全問正解だったのだろう、教室にその姿はなかった。気になるのは、ひかりこと雷丸だが、彼女もいなかった。

光一は朝からずっと緊張し続けていた。原因はもちろん ひかりだ。事あるごとに目が合い、彼女の表情が変わる度に、左手にビリッと電気が走った。どうやら左手の窪みの痛みは、彼女の感情と連動しているらしかった。

しかし、問題が起きなかったことには拍子抜けした。ひかりは思いのほか、クラスに溶け込んでいたのだ。

『今日は一人で帰ったのか。そもそも彼女の家はどこだ?やはり先生の家か?あ、いけない。五時が来たら時間切れだ。書ききれなかった単語は宿題になってしまう』

光一は気持ちを引き締め、鉛筆を握った。


チッ・・・    チッ・・・

時計の長針の進む音が、静まり返った教室に響いた。その度に他の机から聞こえる鉛筆の音は減っていった。

光一の書いている単語から角がなくなり、文字のめりはりがなくなった頃、五時を知らせるチャイムが鳴った。顔を上げれば、教室にいるのは先生と光一だけだった。

「できた?」

教卓で本を読んでいた清水先生が寄ってきた。父さんではないが、とてもよい香りがした。昨日のラベンダーではなく、バラのような香りだ。

「まだあと10個以上。かける5で50個以上」

「どうする、宿題にする?それともやってしまう?」

「やる!」

先生はにこりと微笑んだ。僅かな会話だったが、頭が冴えた。硬くなってしまった指をほぐしながら、光一はなんとか全部書き上げた。


「あのう、雷丸っていうか、ひかりちゃんは?」

苦労の成果を先生に見てもらいながら光一は聞いた。

「気になる?」

先生が悪戯ぽい目で見上げた時、廊下から笑い声が聞こえてきた。

「ほら、来たわよ」

教室に顔を覗かせたのは、宇宙人こと勉と、ひかりこと雷丸だった。


「光一君、ひかりちゃんて、すごいんだ」

勉が鼻息荒く入ってきた。

「何のことだい」

「今、僕ら図書室に行ってて、いろいろ話していたんだけど、ひかりちゃん、何でも知ってるんだ。英単語や難しい漢字を書けるのはもちろん、それこそ、千年以上も前からのことをずっとだよ」

「さようなことは当たり前のこと。私を捕まえていた地底霊は、飲み込んだ人間のエネルギーとともに記憶も取り込んでいた。それが私にも伝わっていただけのこと」

ひかりは平然といった。

「ふむ」

光一は納得した。それで彼女は、いきなりクラスに入ってきても、普通に他の子と話ができたのだ。

『けど・・他人の記憶だけで、こんなにも人間らしく振る舞えるのだろうか』


「君って、本当に精霊なの?額の目がなかったら、ごく普通の人間の女の子だよ」

光一は胸に引っかかったことを口にした。


「私が普通のおなご・・・」

ひかりの顔が急に強ばった。額の絆創膏が剥がれ、瞼のような皮ふが開いた。雷光の瞳がストロボライトのように光を放射し始めた。

「私は雷の精霊、数多あまたの雲を呼び、大地に黄金の矢を降らせる者」


「急にどうしたの?」

白い羽毛が生え始めた顔をのぞき込んだ勉は、正体を知っているはずだが、短く息を吸い、その場に立ち竦んだ。


『このままではいけない』

光一は眩しさにふらつきながら左手を広げた。上手くいくか分からないが、昨晩のように、雷光の瞳を取り去るのだ。

「待って、光一君!」

先生の声が響いた。

「雷丸、誇り高き精霊よ。交わした約束を守られよ」

言いながら、ひかりの額を手で覆った。火花が漏れ、先生は体をビクビクと痙攣させたが、手を離すことはなかった。

僅かな時間だったのかも知れないが、長い時間が経過したようだった。天井の電灯が点滅する下、光一は何もすることができずに、ただ突っ立っていた。


やがて先生は、ひかりの額から手を離し、ガクリと膝をついた。

「先生、大丈夫」

「ええ、大丈夫よ。二人は?」

先生の白い顔は、赤みを差して汗の玉を浮かべていた。

「僕は平気。勉もたぶん」

光一の隣で凍りついていた勉は、十秒もしてから「平気です」と頷いた。


ひかりの額の瞳は、いつの間にか閉じていた。生え始めた羽毛も溶けるように消えていった。

「私はどうしてしまったのか?光一殿の言葉に、これほどまでに胸を騒がせるとは」

黒い瞳からは涙が溢れていた。


・・・・・数日後に光一は聞いたのだが、この時、先生も光一と同じような疑問をひかりに抱いていた。もしや、彼女は元々は人間で、何かのきっかけで精霊になったのではないかと。

「人間に似ているといわれて、怒り狂う精霊は多いわ。でも、そのことで涙を流す精霊はいない」

先生はいった。ひかりに感じた疑問は消えないままだったが、とにかく、決して口にしてはならないことがあることを光一は知った・・・・・


しばらくして、勉が口を開いた。

「先生、用って何だったんですか」

「そうだったわね」

先生は三人に椅子に腰掛けるように促し、自分も座った。額の絆創膏を張り直したひかりも、うなだれながら座った。

「用?それで二人は残っていたの」

「そうよ。実は、信二君のことなの。彼に何か変わったことはないかしら」

先生が聞いた。

「変わったことって・・考えてみれば、あいつ、最近ずっとおかしいよ。そりゃ二年のこの時期だから、勉強に力を入れ始めるのもわかるけど・・、冗談を言わなくなったし、顔色も悪いし、全く余裕がなくなったっていうか・・休み時間まで資料室で勉強するなんて・・」

「先生は、信二君が英才ゼミナールに通っていることを知らないのですか?」

勉が首を傾げた。

「ええ。生徒たちは先生に塾のことは話さないことが多いの。それに半月ぐらい前に、彼が授業中に他の勉強をしていて注意したことがあったわ。だから話さないのは尚更ね。休み時間のことも知らなかったわ」

「でも、なぜ、信二のことを?もしや、清水探偵が調べている精霊と関係があるということ?」

「はっきりとは言えないけれど、彼のテストの点への怖がりは普通ではなかったわ。たとえ、保護者が教育熱心でも、あれほどにはならないものよ」

「信二だけじゃない、他の四人もだ」

「じゃあ、精霊の問題は、英才ゼミナールにあるということですか?でも・・」

メガネを小突きながら勉がいった。

「あの塾がある所は国道沿い。先生の家からは西の方角。精霊の問題は、北で起こっているのでは?」

「そうなの。じゃあ、私の勘違いなのかしら」


「まちがってはいない。先生の勘は当たっている」

ひかりが顔を上げた。黒い瞳が鋭く光っている。

「あの五人は人間以外の何物かにおびえている。それははるか昔、私を怖れた人々から感じた怯えに似たもの。それに、怯えているのは彼らだけではありませぬ。廊下で擦れ違った幾人もの生徒からも同じ怯えを感じました。もしその生徒たちが、皆、同じ塾に通っているとしたら」

「英才ゼミナールに何かがある!」

四人は大きく頷いた。


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