第9話 先生のいとこ

「光一、遅刻するわよ」

母さんのけたたましい呼び声。光一がはっと枕元の時計を見ると、7時55分。

「しまった」

目覚ましをかけることを忘れていた。ベッドから飛び起きて階段を駆け下り、テーブルの上のトーストを口に詰め、牛乳で流し込んだ。母さんが呆れた顔を向けるなか、バッグを引っかけて家を飛び出した。


外は風は冷ややかだったが、太陽が優しく照りつけて、とても心地よかった。すたすたと速足で歩いていると、後ろから「おはよう」と低い声がした。

「さては」

立ち止まって振り返ったが誰もいない。

『今日こそは本当の空耳か』

首を傾げながら前を見ると、

「バアー」

灰色の塊が飛びかかってきた。

「もう、朝から」

溜息をついた光一の目の前で、灰色の犬が楽しそうに回っていた。清水探偵だ。

「どうだ、驚いただろう」

「別に」

「いや、驚いたに決まってる。驚いたっていってくれ」

清水探偵は目を潤ませながら、光一を見上げた。

『まるで父さんみたいだ』

光一は思った。期待もしていないのにしょうもない冗談をいう。無視されると、一人悲しそうな顔をする。大人の相手をしてあげるのも、なかなか疲れるものだ。

「はいはい、びっくりしました」

「ほら、やはりな、ウワオーーン」

清水探偵は満足そうに背を伸ばした。光一は今度こそは本当に驚いた。清水探偵の吠え方の下手さといったら・・幼稚園児でも、もっとましにやるだろう。


「それで用件は?僕、遅刻しそうなんだ」

「なに、昨日いろんなことがあっただろう。体調など壊していないかなと思ってな。その様子なら大丈夫そうだ。驚かしてすまんかった」

灰色の犬は、そういって脇道に入っていった。光一の胸が温かくなった。子犬の魂を救おうとして、犬になってしまった心優しい探偵。早く仕事の手伝いがしたい、心からそう思った。


学校の下駄箱に着いた所で、チャイムが鳴り始めた。上履きに足を突っ込んで、大慌てで階段を駆け上がった。ちょうど二階にある教室に入ろうとした時、前の入口から教頭が入ろうとしていた。

光一は喘ぐ息を抑え、何事もなかったかのように、窓際の一番後ろの席についた。列の先頭に座る勉が、振り返ってにんまりした。


「あれ、光一君って、宇宙人と仲よかったっけ」

隣の席のはるかが不思議そうに聞いた。

「ああ、意外といい奴だしね」

軽く答えた。勉のことをもっと話してあげたかったが、いきなりは変なので、それ以上は黙っていた。

「さて、今日の日直は誰かな」

坊さんのように髪を剃り上げた教頭が教壇に立っていた。教頭といえば、学校を巡回していて、時折、教室に入ってきては何事もなく出ていく人なのだが・・。


「清水先生に何かあったんですか?」

いきなり勉が大声で聞いた。皆がガヤついた。勉が、他人の事を気にする発言をするなど、これまでなかったことだからだ。

『雷丸に何かされたのか』

一瞬、不安が光一の頭を掠めた。


が、教頭の顔は笑っていた。

「特に何がというわけではない。用があって少し遅れてくるんだ。君達もすぐに分かると思うよ。それにしても、清水先生は羨ましいな。生徒にこんなにも心配してもらえるなんて」

そのまま朝会が始まり、ついで一時限目の道徳の授業に入った。元々は体育を受け持っていたらしいが、教頭の声は張りがなく、耳の周りでモゴモゴと漂っているようだった。

睡眠不足がたたり、光一の瞼が落ちてきた。視界に垂れ込めた眠気の霧の向こうで、黒板に文字が書かれていった。誰かが当てられる度に姿勢を正したが、すぐに崩れていってしまう。もうすぐ休み時間。廊下にある冷水器の水で、顔を洗えばすっきりするだろうに。

『時間よ、早く進んでくれ!』


「おう、わしの仕事は済んだようだ」

低い声が響き、教頭の顔が消えていった。代わりに現れたのは清水先生の顔。その隣には、見覚えのある女子が立っている。その黒い瞳が向けられた時、光一の左手にビリッと電気が走った。

『まさか、これは夢だ。あの娘が教室にいるなんて!』

跳ね上がるように立ち上がった。勢い余って机に膝をぶつけた。


「ああ、危ない!」

可愛い声が教室にもれたと思ったら、ふらついた体を細い腕が支えていた。

「お気をつけくだされ」

「いや、あの、えー」

不覚にもまごついてしまった。女子に身体を支えてもらうなど初めてだった。隣のはるかが、ぐいと首を伸ばした。目をしぱしぱさせて雷丸を見ている。


「なに、なにが起こったの」

教室がにわかにざわついた。はるか以外の生徒は、頭を動かして教壇の周囲を探していた。

雷丸のあまりにも早い移動に、かき消えてしまったかのように見えたのだ。ちらりと光一を見た清水先生はもちろん気がついているが、教壇の後ろを探すふりをしている。


「さあ戻って。皆に君の正体がばれたらまずい」

光一は黒髪の少女にささやいた。

「しかし・・」

雷丸は唇を尖らせた。生徒の一人がこちらを見た。勉だ。メガネの縁を押さえて見つめている。それに釣られて他の生徒もこちらを向きかけた。

『もう、なんで女子って面倒臭いんだ』光一は無理矢理、笑顔を作った。

「ありがとう、雷丸。気を遣ってくれて」

微笑みが陽炎かげろうのように空中に揺れたかと思うと、清水先生の声がした。

「恥ずかしがってないで出てきなさい。皆が変に思うわよ」

先生の机の後ろから、雷丸が顔をのぞかせた。


「ねえ、あの娘、今ここにいたよね」

はるかが瞬きしながら聞いた。

「さあ、見まちがいじゃないか」

光一は素知らぬ顔をして椅子に座った。雷丸は先生に手を引かれ、教壇に戻った。

「皆、遅れてきてごめんなさい。新しいクラスメートの転入の準備があったの。自己紹介できるかしら」

皆は不思議な転校生をよく見ようと、斜めに横に頭を突き出している。先生の機転で、姿がかき消えたのはごまかせたらしい。


「私、清水ひかりと申します。知らないことばかりですが、皆様、どうぞよろしく願いまする」

黒い瞳がきらりと輝き、長めの前髪が揺れた。額には、目立たないように絆創膏が張ってある。雷丸の奇妙な言葉遣いに笑いが起こってもよかったのに、皆の間からは、フウーと溜息が漏れた。

上下の紺のブレザー制服に紅色のリボンタイ・・ごく普通の格好をしているのに、そこだけに光が当たっているように、雷丸は輝いて見えた。


『皆、だまされてはだめだ。とびきり可愛く見えても、彼女は人間じゃない。雷を落とす精霊なんだ』

心の中で叫んだ。だが油断すると、当の光一も見取れてしまう。


「先生、質問してもいいですか」

クラス委員の茂が手を挙げた。

「はい、どうぞ」

「清水さんの名字は、先生と同じですが、何か関係があるのですか」

「ええ、実は、ひかりは私の従姉妹いとこなの。ずっと山奥のお祖父さんと一緒に暮らしていたのだけど、急にお祖父さんが亡くなって、私の家に来たの」


全くの嘘話に、光一は頬杖をついていた肘がずれ、がくりと頭が落ちてしまった。おまけに舌を噛んでしまい、目にじんわり涙が浮かんだ。

「もう、落ち着いてよ」

はるかが肘鉄砲ひじでっぽうを喰らわした。数人の生徒が振り返ってにやついている。


「山奥でのお祖父さんとの暮らし。それで言葉づかいが、昔の人みたいだったり、いろいろ混じっているのね」

廊下側の席の小百合がいった。皆はなるほどと頷いた。察しのよすぎる?小百合は、先生のでっち上げ話に上手く乗せられたのだ。先生の表情は優しく綻んだが、目の前で手をあげた生徒に、わずかに曇った。

「何か?」

「転校に際しては、いろいろ書類が必要なんですよね。前の学校の成績とか、健康診断の結果とか、全部揃ったのですか」

勉が聞いた。別に悪気があって聞いたのではなかった。確かに、昨日現れたばかりの少女が、あっさり学校に入れることは奇妙なことである。


「さすがに勉君、鋭い質問ね。まだ書類がそろっていないから、転校は正式ではないの。でも、本人は学校に行くことを希望しているし。分かってくれる?」

先生は軽くウィンクした。

「は、はい、教育を受ける権利ですね。そういうことなら理解できます」

勉は、光一に振り返りながら返事した。瞼がとろりと垂れている。


転校生、清水ひかりの座席は、教壇のすぐ横、列からはみ出した所になった。

道徳の授業の続きで、先生が人権問題について話している一方、ひかりは、興味深そうに教室のあちこちに目を向けている。光一は目が合わないように下ばかり向いていたが、時々、左手にビリッときた。顔を上げれば、愛らしい瞳が向けられていた。

『いったい、僕はどんな顔したらいいんだ』光一は慌てて、また下を見た。


やがてチャイムが鳴り、生徒達はそれぞれに散らばって休み時間を過ごした。

ひかりは光一の方に駆け寄ろうとしたが、先生がその腕を掴んだ。すぐにも女子が周囲を取り囲み、あれこれ質問しては、キャーキャーと盛り上がり始めた。


光一は教室を出た。他の生徒とつるむ気にもなれず、廊下で突っ立っていると、勉がふらふらと寄ってきた。

「光一君、さっき先生が片目をつぶったのって、なに?」

「そんなことわからないのかよ」

異常なほどの物知りな勉だが、ウィンクを知らないのだ。それに質問なら他にあるはずである。雷丸がクラスに来て、どうなってしまうのとか。


「あれはウィンクだよ。ウィンクされて、勉はどんな気持ちになった?」

「なんかごまかされたような。けど、お願いされて嬉しくなって、分かりましたって感じになって」

「それだよ。綺麗な女性ひとにやられると、男は嬉しくなって、へいへいしてしまうやつだよ」

光一の説明に、勉はまだ首を傾げていた。

「たぶん先生は片目をつぶるサインで『秘密を守って、雷丸のこともよろしく』と伝えたんだと思うよ」

「うん、それなら分かるような気がするけど、よろしくっていわれたって、どうすればいいの」

「さあ、そこの所が問題なんだよ」

二人は腕を組んで唸り合った。


二時間目のチャイムが鳴った。教室を出ていた生徒たちが、ぱらぱらと教室に戻っていく。

「僕らも戻るか」

勉に声をかけたところで、光一は妙なことに気がついた。

男三人、女二人のクラスメートが、隣の資料室から出てきたのだ。皆、手には英単語集を持っている。どうやら休み時間に勉強していたらしい。次の授業は英語で、単語テストがあるはずだった。

「すごい、皆、英単語の勉強していたのかい」

光一はその内の一人、信二に声を掛けた。

「当たり前だ。お前みたいに呑気でいられるか」

「・・」

陽気でのんびり屋の信二から、そんな言葉が返ってくるなど思ってもいなかった。その声は切羽詰まったようで、顔は青ざめていた。他の連中も同じだった。そういえば最近、光一は信二たちとつるんだことがなかった、休み時間も放課後も。


「英才ゼミナールだよ。ロゴマークのついたテキストを見たことがある。あそこに通いだしてから彼らは勉強し始めたんだ」

五人の後ろ姿を見ながら勉がいった。

「・・最初の頃はそれほどでもなかったけど、一ヶ月ぐらい前からは本当に熱心にやってる。資料室で雑読している僕のことも邪魔にならないくらいに」

「休み時間も勉強か。そんなに必死にならなくてもいいのにな」

「そうだよね。勉強は本来、美味しいお菓子みたいに味わう物だものね」

勉の言葉に、光一のあごはがくりと落ちた。


一旦、職員室に行った清水先生が帰ってきて授業は始まった。

「それでは先日伝えた通り、今日は英単語テストをするわね。ひかりちゃんは分からないかもしれないけど、頑張ってみてね」

先生の言葉に、誰かがクスッと笑った。従姉妹の名前を、ちゃん付けするのがおかしかったのだろう。

と、

「静かにしろ、忘れちまうじゃないか」信二がきりきりと怒鳴った。

転校生の登場に陽気になっていた教室に、冷たい風が吹き抜けた。

「信二、単語テストぐらいで怒鳴るなよ」

光一は思わずいってしまった。同時に左手にビリッときた。慌てて前を見ると、ひかりが信二を睨みつけていた。横には、いつでも捕まえられるように先生が立っている。雰囲気が変わってしまった教室だったが、ほとんどの生徒は、光一に賛成してくれたようだ。冷ややかな視線を信二に送っていた。

「どうせ、お前にはわからないよ」

信二は力なくうつむいた。その目には涙が浮かんでいるように見えた。


「今回のテストは、個人それぞれの英単語修得度を知ってもらうためのものよ。他の人と比べるものではないわ。結果を気にしすぎる必要はないのよ」

ひかりの表情が穏やかになったところを見計らい、先生がいった。

「でも先生、結果には平均点がつくんでしょう」

信二がうつむいたまま聞いた。

「いいえ、平均点は出さないわ。ただし、今日の放課後までに丸をつけて返すから、間違った単語があったら、居残りして五回ずつノートに書いてもらうつもりよ」

「なんだ、そうなの」

信二の顔が急に綻んだ。同じ塾に通う他の四人もそびやかしていた肩をゆるめた。


『そりゃないよ・・』

光一にとっては平均点がつこうが、つくまいが関係なかった。テストの点が悪ければ、母さんの小言を五分聞けばすむことなのだから。

『けど、居残りは勘弁してほしい』


「では配るわね」

先生はテスト用紙を列の先頭の生徒に渡していった。

手元まできたテストをめくった時、光一は頭がくらついた。白い用紙には三百の問題がびっしりと詰まっていた。


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