第5話 先生と清水探偵
地面が震えていた。
徐々に弱まりながら、数秒と開けず、またどろどろと震え始めている。
光一は薄く目を開いた。
カーテンに窓枠の影がストロボ光を浴びているように映し出されていた。雷だ。地響きからすると、かなり近くで鳴っているらしい。しかし不思議なことに、あの肝を冷やすような轟きは聞こえてこなかった。
光一は荒れ狂う天候を遮断する温かい部屋で横になっていた。井戸から飛び出した時に打ちつけたのか、両足の膝が痛んだ。しかし、その上を優しい手がそっと撫でてくれている。とても心地よく、体の内側から、痛みを遠ざける力がわき起こってくるようだ。
『誰だろう。先生かな』
そっと頭を持ち上げた光一の目に映ったのは、夕日のように赤い髪をした女の人だった。横を見れば、テーブル越しのソファーで、だぶだぶのパジャマ姿の勉が、もう一人の女の人に手を当てられていた。
「どうしてその手は熱くないの」
勉が酔ったような目付きで女の人に聞いた。
「また訳のわからない質問をして」
光一はぼやいた。
それにしても二人は助かったのだ。怪物の体液でベトベトになった服や下着を脱がしてもらい、優しく介抱されている。
『ここは先生の家なのだろうけど』
光一は室内を見回した。床には厚手の絨毯が敷かれ、奥手には煉瓦調の暖炉がある。洗われた制服と下着がハンガーに掛けられている。
「あっ」
いきなり光一はソファーから飛び起きた。
暖炉の中で揺らめく炎は、二股に分かれて横に伸びていた。そしてその先に、光一らを撫でている女の人達がいたのだ。よく見れば、その体は透けていた。
声に驚いたのか、二人の女の人は引き潮のように暖炉に戻り、揺れる炎の中に消えた。
「光一君、炎の精霊を驚かしちゃだめだよ」
眠そうに瞼をこすりながら勉が起き上がった。
『炎の精霊?するとさっきの勉の質問は、そのことだったのか・・』
光一は気付いた。
「勉、いつから起きていたんだよ」
普通ではないことはまだ続いていたのだ。頭の中の混乱から大きな声になったが、
「この部屋、時計がないからわからないけど、三十分ぐらい前からかな」
マイペースな勉の答えが返った。
「うーむ」
光一は暖炉の中に踊る炎をにらみつけながら、勉の方に移動した。
「お殿様みたいだね」
パジャマのズボンの裾を引きずっている光一を見て、勉がけらけらと笑った。
「勉・・」
もう一度、大きな声になりかけた光一だったが、暖炉の中からも笑い声が聞こえ、ギクリとしてやめた。
「炎の精霊ってぴったりの名前でしょう。悪いものでないことは確かだよ」
勉の言葉を聞きつけたのか、炎の中に女性の顔が浮かび上がった。今度は一人だけだ。光一が愛想程度にお辞儀をすると、にこりと微笑んだ。
「ほらね」
「ほらねで済むことじゃないだろう」
光一が溜息をついていると、向かいのドアが開き、白いカーディガンを羽織った清水先生が入ってきた。後ろには例の犬が続いている。
「これで、犬の謎が解けるってわけだね」
目を輝かせる勉の横で、光一は軽く頷いた。
「二人ともお目覚めね。もう八時を過ぎているわ」
言葉は優しいが、先生の目は怒っているように見開いていた。
「まったく無茶をして・・家の人には電話しておいたわよ。二人とも先生の家に勉強でわからない所を質問しにきたって。後で間違いなくお送りしますってね」
光一はまた溜息をついた。
『勉強だなんて母さんが信じてくれるわけがない。せめて、遊びにきたぐらいにしてくれたらよかったのに』
隣では勉がほくほく顔で喜んでいる。
「もう先生のせいだよ。言葉を話す犬から始まって、変な井戸やその暖炉。頭の中がごっちゃごちゃだよ」
そっぽを向いて光一はぼやいた。
「それは言いがかりというもんじゃろう」
不意に、光一の前に犬が回り込んできて牙を剥いた。
息がもれる低い声は、間抜けというより
「へえ、うまくしゃべるもんだ」
身を引く光一とは反対に、勉は顔を寄せて犬の口の中をのぞいた。
「君って、光一君が話した通り、飛行機雲が見えるの?」
「見えるとも。ハハー、勉君は面白い坊やだ。皆と少し違うと絵里子から聞いていたが、わしを怖がろうとはしない。光一君の無鉄砲さと合わせたら、怖い物なしだね」
犬はクシャミをするように笑った。
『いったいこの犬は何者。僕らのことを知っていて、それに先生を呼び捨てにするなんて」
光一は首を捻った。
「呑気に笑っている場合ではないわ。
先生が犬に厳しくいった。先生の視線は稲光がもれるカーテンに注がれている。
「雷丸って、雷のこと?」
まだ犬の口をのぞき込んでいる勉を横に、光一は先生に聞いた。すると灰色の犬がいきなり、光一の左手をペロリと嘗めた。
「ひっ」
生温かさに思わず手を開くと、
「なんだ!」
光一は自分のことながら驚いた。これまでこのようなものはなかった。先程、怪物の腹の中で、激痛に堪えながら玉を握り続けていてできたのか。
「では、光一君が、
光一の手を見つめた先生が、少し高い声で犬に聞いた。
「そうだ。この坊やは、
曖昧ながら二人?の会話の内容が光一に伝わった。
『大嵐を鎮めるために作られたという仏像。その手からこぼれ出た虎目模様の玉は、雷丸という怪物の瞳だったのだ。それを僕は、あのぬるぬるの化け物のなかで渡してしまった。それで今、季節外れの雷が激しく鳴っているのだ』
「もしや僕、大変なことをしてしまったの?」
光一は思い切って犬に聞いてみた。先程まで感じていた不気味さは消えていた。変わり者の勉は別として、清水先生だって話をしている。映画の世界では犬はよく話をしているし、面白いといえば面白いことなのだ。
「その通り、坊やは大変なことをしてしまった。でもな、意外と簡単なことのような気もするが」
犬は牙を剥き出して笑った。
「どういうこと?」
「じきにわかることだわ」
清水先生も何がしか得心したように頷いた。
『いったいなに』
光一が、先生の茶色がかった目をのぞいていると、勉が首を突っ込んできた。
「光一君、謎が解けたよ。この犬に飛行機雲が見えた理由がね」
「どうしてだい?」
形ばかりに聞いてあげると、勉は鼻息荒く答えた。
「コンタクトだよ。犬の目を横から見た時に気付いたんだ。透明で出っ張ったものがはりついてる。どう、図星でしょう、先生?」
「その通りよ」
先生は呆れ顔をしながら頷いた。
「じゃあさ、犬が僕らと同じように考えたり、話をするのはどうなんだい。それにここで経験したことは、なんて説明したらいいんだい」
「それは・・・」
勉の鼻息はおさまった。光一はちょっと意地悪な質問だったと反省した。
「父さん、この子たちに話してもいいかしら」
先生が聞いた。父さんと呼んだのは、他でもない灰色の犬をだ。
「もちろん。おそらく、光一君は瞳の納め場所を持ってしまったのだろうからな。それに、もう一人にも教えないわけにはいくまいて」
灰色の犬は、偉そうに鼻先を上げながら答えた。
「そうね。でも、ここで聞いたことは絶対に秘密よ。いい?」
向けられた鋭い視線に、光一と勉は唾を飲み込んで頷いた。
「この犬は、私の父さん、名前は清水健一」
先生は話し始めた。いきなり飛び出した話に、光一は目の前に薄い膜が張ってしまったように感じた。先生の顔は冗談をいっているようには見えない。
「・・八年前まで、父さんは隣町で探偵事務所を開いていたの。もちろん今みたいに犬ではなく、人間の姿でね。ある日、たまたま私もそこにいたんだけど、変な依頼が舞い込んできたの」
「その時、絵里子はまだ高校三年生だったな。依頼主は白髪頭のお婆ちゃんで、目が開いたばかりの子犬を箱に入れて持ってきていた」
犬は昔を懐かしむように、あんぐりと口を開けて宙を見つめた。
「それでどんな依頼だったの」
「そのお婆ちゃんは泣きながらいったの」先生は続けた。
「この子犬の魂を救って下さいって。私、犬が好きだったから、子犬を抱きあげたの。すると、その子は生えたての牙を剥き出してしゃべったのよ。
・・人間よ、おぬしはこんなわしでも飼おうとするか、それとも野に捨てるか・・ってね。地の底から湧き出るような低い声だったわ」
光一の背筋に寒いものが走った。勉はメガネを小突きながら頷いている。
「依頼主のお婆ちゃんは、大金を払って犬を置いていき、後は連絡もなかったわ。無理もないわ。かわいい子犬が不気味な声でしゃべったのだから」
「そこで責任感の強いわしの登場というわけだ」
清水探偵は胸をはるポーズをとったのかもしれないが、後ろにゴロリと倒れた。
「そう、父さんは依頼を受けた。そしてその犬について情報を集めたの。そうしたら、その犬は、山に建設された動物管理センターで生まれ、ペット業者に引き取られて売られたことがわかったの」
「動物管理センターって、飼えなくなった犬や猫を連れていく所だよね?」
光一は聞いた。いつかテレビで見たことがある。映し出された犬たちの悲しそうな目は、今でもよく覚えていた。
「そうよ。そこに手掛かりがあると考えた父さんは、子犬をバッグに入れて連れていったわ」
「わしは係員に見つからないように建物の中を探索した」
清水探偵が後に続いた。
「すると子犬が急に暴れだした。ある場所に近づくほどに激しく暴れて、抱きしめたわしの喉に噛みつこうとまでした。そして行きついたのは、鍵の掛かったコンクリートの部屋だった」
「引き取り手がいないと、入れられるガス室」
勉がぼそりとつぶやいた。それ以上はいわなくても分かっている。その部屋で、犬たちは殺されてしまうのだ。
「そう、わしは探偵の七つ道具を取り出すと、鍵を開けて部屋に入った。途端、犬からぐったりと力が抜けてしまった。なにかある!わしは目を凝らした。すると部屋の隅にぼんやりとした影があった。それは母犬と子犬の形をしていた。子犬の形をした影は、母犬の腹の上に頭を乗せて、幸せそうに寝ていた」
「清水探偵。ということは、子犬は確かにペット業者に引き取られたけど、その魂は抜けて、ガス室に送られた母親の所に残っていたということ?」
清水探偵は、光一の呼び方をひどく気に入ったらしい。フリフリと大きく尾を振った。
「その通り。わしは小さな体を、ぼんやりと見える影と重ねた。これで問題は解決すると思ってな。でも甘かった。子犬の魂は体に戻ることはなかった。わしがやるせなく思っていると、抱いていた犬が話した。
・・おぬしら人間が奪ったものの重さを知れ・・とね。
その言葉に、わしは頭をガツンと殴られた気がした。それから急に意識が遠退いていったんだ。わしはせめて子犬の体を守らなければと思い。残っている意識で子犬を部屋の外に押し出した。そして目が覚めたら、あら不思議。わしの体は、その子犬ちゃんになっていたというわけなんだ」
「つまり、清水探偵はガス室で死んでしまった。でも、魂が子犬の体に宿ったというわけ?じゃあ、子犬の口を通して話をしたものは、どこにいったの」
光一は聞いた。
「鋭い質問だ。だが、残念ながらわからない。あれ以来、声を聞いたことはないんだ」
「僕、思い出しました。【動物管理センター、建物を点検中の重大事故】
五年前の新聞に乗っていた事件って、そのことだったんですね」
鼻息を荒立てて勉が話した。
光一は驚いた。五年前といったら、まだ小学三年生だ。そんな時から勉は新聞を読んでいたのだ。
「そうよ。あの事件をきっかけに、管理センターの隣にお寺ができたわ。犬達の供養をしないと祟りがあるといわれてね。でも、今でもあそこに集められる犬や猫の数は変わらない。とても悲しいことだわ」
先生はうつむきながら、清水探偵の背中を優しく撫でた。再び顔を上げた時、その顔は晴れやかに輝いていた。
「あの事件で、父さんは犬になってしまった。でも、悪いことではなかったわ。私達は新しい目を開くことができたのですもの」
「新しい目?」
光一と勉が同時に聞いた。
「それは、精霊達の住む世界を見ようとする目よ。私と父さんは精霊のことが知りたくなった。そんな時に、この家の売り出し広告が目についたの。幽霊が出たり、人が消えてしまうという噂があって、ただみたいに安かったわ」
「わしにはピーンときた。この家こそ、わしらに
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