第3話 犬を追いかけろ

「光一君、日直の仕事が終わったこと、先生に報告してくるね」

黒板を消し終えて一息ついたところで、はるかがいった。

「僕は行かなくていいの?」

「うん、お菓子作りのレシピがのってるホームページを、見せてもらう約束をしてるから」

「じゃあ、お言葉に甘えてと…」

はるかに手を振って教室を出た光一は帰路についた。


今日は五時間授業。帰宅して二時間ぐらいは外でぶらつけるはずだったが、あいにく雨が降りだしていた。

「家でゲームでもするかな」

肩掛けバッグを脇に引き上げながら、走り始めた。

雨が本降りになってきたので途中にある郵便局に駆け込んだ。急な雨降り用の傘がお目当てだったが、一本も残っていなかった。

「あら残念。でも、少ししたら止みそうよ」

郵便局員が声をかけてきた。

『せっかくだから』

光一は温かい建物の中で雨宿りすることにした。窓際の壁に大型のテレビがあり、その横のソファーに腰掛けた。制服が濡れていて注意されるかと思ったが、愛想のいい郵便局員は「いいのよ」とばかりに頷いた。


テレビでは国際テニストーナメントの中継をしていた。

日本とカナダの選手が戦っている。少し見ていたが、特にテニスに興味があるわけではなく、すぐに飽きてきた。視線をずらし、窓ガラスを流れ落ちる雨粒を見つめた。

「うっ!」

思わず声がもれた。

ちょうど日本選手が点を入れ、解説者の声が大きくなった所だったので、目立つことはなかったが、人目を気にしている場合ではなかった。

すぐ外の軒先に、犬が走り寄ってきて、こちらをのぞき込んだのだ。耳の先が黒い灰色の犬。今朝の犬だった。


光一はテレビに顔を向けつつ、横目でうかがった。その犬はこちらを見ていなかった。視線はテレビに向けられていたのだ。じっと観察していて、驚くべきことを発見した。

犬は日本選手が点を入れると、ピーンと持ち上げた尾っぽを嬉しそうに振った。偶然かとも思ったが、コートチェンジしてもずっとそうだった。

『あいつは日本のプレーヤーを応援してる!』

ガラス越しだったし、建物の中には大人の人もいたので、安心して観察できた。そんな光一にはお構いなしに犬はテレビを見続けた。


雨がほとんど止んだ頃、朱色のカッパを着た人が自転車を停めた。光一はまた顔をそらし、横目でうかがった。

フードの中に見えたのは色白の整った女性の顔・・・清水先生だった。

先生は建物の中には入ってこなかった。困ったような表情を浮かべると、犬に近づいてその尻をぽんと叩いた。そして足をばたつかせる犬を抱き上げ、丸まった腰をかごにすっぽり入れ、自転車にまたがった。


光一は自転車が走りだすのを見届けると、すぐにもソファーから立ち上がった。郵便局員に頭を下げ、外に飛び出した。

やることは決まっていた。

『あの不思議な犬と清水先生。後を追いかけてやる!』


フードを外した先生の長い髪が、三十メートルほど先で揺れている。

よく注意されているが、教科書を学校に置いたままにしていたことが幸いした。ほとんど空のバッグは、走っていても邪魔にはならない。時々、軽い音がしている。昨日、寺で拾った玉が中で転がっていた。


自転車のスピードは遅かった。調子よく後を追いかけていたが、やがて息が切れ、胸が張り裂けそうになってきた。徐々に距離があき、先生の姿が見えなくなりかけた時、青い自転車に乗ったつとむが、横道から顔を出した。


「グッドタイミング!」

光一は勉の後ろの荷台に飛び乗った。

「あわわわ」

突然の乗客に、勉は訳も分からずハンドルから手を離した。倒れる直前で、光一が後ろから手を伸ばし、ハンドルを握りしめた。

「僕だよ、光一」

「へっ、どうして?だめだよ、二人乗りは。降りてよ」

「そうはいかないんだ。緊急事態なんだ」

光一の切羽詰せっぱつまった声に勉は黙った。そうするより仕方なかったのかも知れない。後ろに座っているとはいえ、ハンドルを握り、ペダルを漕いでいたのは、光一だったのだから。


「ほら前を見ろよ。朝会で話したでしょう、言葉を話した犬。そいつを清水先生が自転車に乗せているんだ」

勉は外れかけたメガネを掛け直して、前をのぞいた。

「確かにあれは清水先生だけど・・」

疑いの声を出した勉に、光一は郵便局での出来事を話した。何か反論するかと思っていたが、楽しそうな声が返ってきた。

「日本の選手を応援するなんて、外国生まれの犬じゃないんだね。何犬なんだろう」

「そんなこと、考えてもみなかったよ」

光一は苦笑いしながら、ペダルに置いた足に力を込めた。


途中、二人乗りを見咎みとがめた警官が、交番から飛び出してきたが、うまい具合に通りがかりのお婆さんとぶつかった。その隙に光一はスピードを出したので、あやうく先生を追い抜きそうになった。

「ふう、あぶなかった」

光一は慌ててブレーキを握り、間を置いた。


先生は後ろからつけてくる二人には気付かなかった。

やがて周囲の家はまばらになった。先を行く自転車は、こんもりとした林に伸びる一本道に入っていった。

『これ以上進んだら、絶対に気付かれてしまう』

光一はブレーキを握った。


「どうしたの?」

「ここまで来てなんだけど、勉は行きたいかい」

「うん、どんな犬か、見てみたいよ」

あっけらかんと答えが返った。

「勉、何か引っかかるっていうか、怖くないのかい」

「だって先にいるのは清水先生でしょ。怖くなんてないよ」

「まあ、そうだけど」


先生の姿はもはや見えなかった。光一は勉と座席を入れかわり、自転車を漕ぎ始めた。

すぐにもガタつく砂利道になり、周囲は高い杉の木に覆われた。重苦しい灰色の空はより黒っぽくなっている。

「もうすぐ日が沈む。学校から直行で来てしまったから、帰りが遅くなったら、母さんがあれこれ質問してくる。そっちは平気か」

光一は後ろからフンフンと鼻息をかけてくる勉に聞いた。

「僕は平気だよ。もともと開館時間の伸びた図書館にいって勉強するつもりだったし」

「図書館?クラブに入っていないと思ったら、図書館通いしてたの」

「まあね。日頃の行いが、こういう時に役に立つんだよ」

チェッと舌打ちした光一の後ろで、笑い声が漏れた。

ほどなく二本の太い石柱が、道の両脇に現れた。


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