第4話 ダドリーとスバル

 東門から西へと向かって伸びているアルデア大通りを進むと、川のせせらぎが聞こえてきた。白い石作りの門のたもとには聖人二人の像が、それぞれ教典と六尺棒クォータースタッフを持った姿で立っている。教典を持っているのがベルナルド・ヒューズであり、六尺棒クォータースタッフを持ち、腰に小剣ダガーたずさえているのが、ルー・ぺエだ。この門は知っている限り常に開いており、衛兵が常駐しているわけでもない。まだこのアルシラの規模が小さかった頃の、城壁の名残なのだそうだ。


 エリュースはその主教門をくぐり、橋を渡りながら西の空を見上げた。まだ明るい陽の光を浴びて、北西の葡萄ヶ丘がよく見える。そこで醸造されているワインは、安酒場では滅多に拝めない代物だ。


 中央広場まで来ると、いつものように露店商が店を出していた。秋になれば収穫祭があり、その時には他所からの商人たちも集まる大市が開かれるため、例年通り賑やかになることだろう。ここの大市に来るために、もう異国の地を出発した者もいるかもしれない。彼らとて危険が増す夜に町や村の外を移動することは避けているだろうが、野盗や魔物に会ってしまうという、『運の悪いこと』は世の中少なくないものだ。


 エリュースは中央広場に背を向け、丘上へと斜めに造られた石段を登り始めた。温かな風が心地良く、神聖語の歌を口ずさむ。彼らが無事にこの地に辿り着けるよう、運が良ければ気紛れな風の神アエーラが、旅人達に幸運を運んでくれるだろう。



 石段を登り切ると、丘の西側に辿り着く。空が近く感じるこの場所は、正しくアルシラの中心的な空間だ。顔見知りの衛兵が立つ門で挨拶し、丘を取り囲む壁の向こうへ通り抜けると、巨大な白い大聖堂が扉を閉じたまま、噴水のある手入れの行き届いた庭の向こうに鎮座していた。その造形は、上から見れば白鷺しらさぎが翼を広げたようであるのだと、司祭から聞いたことがある。両端にそびえる尖塔は常時と変わらず空を突いており、遠く離れた場所からでも、この尖塔だけは見ることができるほど高いのだ。更に大聖堂の斜め後方には鐘楼しょうろうが建っている。これも尖塔ほどではないが高く、時報の役割もある荘厳な鐘の音をアルシラ中に響かせるのだ。


 大聖堂の勾配のある屋根の端には、蝙蝠こうもりの翼を持つ獅子のような魔物をかたどった雨樋像ガーゴイルが数体作られており、そのお陰で大聖堂の壁は、雨の日でも輝かしい白を汚すことなく保っている。そういえば最近、あれの口から水が吐き出されているのを見ていない。


 エリュースは空を仰いだ。青空に浮かんだ白い雲がゆっくりと流されていく。雨が降らないのは旅をするには良いが、作物には良くないだろうなと、少し心配になった。


 この丘の建物は二階部分から上が前へ張り出しており、太い柱で支えられている構造だ。自らが在籍している大聖堂付属学校は庭の左側にあり、三階立てで壁のように横に長い教団本部別館と隣り合っている。その奥は大聖堂の左翼廊よくろうに接しており、翼廊の手前に見えるのは、アスプロ以外――闇夜や月や星や風の――神をまつっている小さな聖堂だ。


 エリュースは大聖堂や学校の方へは行かず、噴水の手前で右方向に進み、庭の右側にある騎士団本部の建物に沿うようにして左へ曲がった。その先は大聖堂の右翼廊に突き当っており、それと接するようにしてあるのが、教団本部の建物だ。更に奥には大主教の住まいである塔付きの館があるらしいが、もちろん自分など近付くことすら許されておらず、そもそも大主教を近くで見たことがない。御手みてに触れられて癒しの光を与えられる選ばれた民ならば、その顔を間近で拝むこともできるのだろうが、まだ学生の身の上で司祭の地位すら持っていないのでは、ここでは高位の聖職者に対してこうべを垂れておくしかないのだ。相手が高位かどうかは、ローブ自体の色質の良さ、それを彩る帯の色や装飾品ですぐに分かる。今、見渡す限りは、その相手はいないようだ。これ幸いと、エリュースは教団本部へと軽い足取りで向かった。



 教団本部の二階に上がってすぐの扉をノックし、エリュースは耳に馴染みのある声に従って室内へ入った。正面奥の窓の前には大きな机があり、羽ペンを走らせている司祭が座っている。彼の顔が上がり、目が合った瞬間、その眉間に寄っていたしわが伸びた。


「エリュース・オーティス、ただいま戻りました」


 わざと仰々しく礼をして笑んでみせると、司祭アンセル・マーシュの丸い目が更に丸くなったのち、笑みと共に細められた。それから、左側の書棚の傍にいる男に声をかけ、休憩に行って来いと促している。この執務室でよく見る人物なので、役職は知らないが、アンセルの部下的な聖職者なのだろう。


 彼が出て行ってから改めて、エリュースはアンセルに近付いた。磨かれた木製の机の上に、依頼達成の書状と、依頼主から預かってきた金が入った皮袋を置く。それを真剣な表情であらためたアンセルが立ち上がった。エリュースよりも低い身長の彼に、頭の天辺から爪先までを確認するように眺められる。そうしてから、安心したように彼の頬が緩んだ。


「首尾は上々だな。見た様子では怪我はないようだが、大丈夫だな?」

「俺は無傷です。ま、ほとんど、相棒がやったようなものですから」


 ほら、いつもの、と言うと、アンセルが納得したように笑みを頬に広げて頷いた。渡した金の内から、こちらの取り分を残し、袋を返してくれる。


「アイヴァーだな。腕の良い騎士をうまく使うのも、才能だな、エリュース」

「それもこれも、アンセルさんが俺に依頼を振ってくれたお陰、というわけで」


 エリュースは報酬を受け取った後、もう一つ、先ほどよりも大きな皮袋をアンセルの前に置いた。口に栓をした、張りのある袋を見た彼の瞳が、輝く。微かな水音で、これが何かを察したのだろう。


「お土産です。家に帰ってから、ちびちびやって下さい」

「いつも悪いな。で、どこのだ?」

「手に入れたのは伯爵領ですけど、ものは渡来ものだって聞きました。最南端のカークモンド公爵領に行った時に仕入れたって言っていたので、半分ほどは信用していいかと」

「そうか、そうか。それは楽しみだ」


 アンセルが片手で皮袋の底を撫でている様は、大事なものを扱うようで、エリュースはこのワインが彼の口に合うことを願った。この司祭とこうして話をするようになったのはずいぶんと前からで、一人でできる使い走りや調べものなどの仕事を時々くれていたのだ。一年ほど前からは、もっと高額の報酬金が必要になった事情を汲んでくれ、相応の依頼を他へ回さずに取っておいてくれている。


「そうだ、エリュース。今晩の予定がなければ、うちへ来るか? ランダも会いたがっていたし、子供たちが騒がしいかもしれないが、どうだ?」

「あー、すみません。お邪魔したいんですが、先約があって」


 嬉しい誘いながら、エリュースはやんわりと断った。サイルーシュとの約束を反故ほごになどしたら、後が怖い。それにタオを借りた手前、サイラスにも礼を言っておかねばならない。


「じゃあ、明日はどうだ? 今回の話もゆっくり聞かせてくれないか。お前の話をさかなに、私はこれを、お前はランダの料理を楽しむ、というのは」

勿論もちろん、喜んで伺います」


 代替案をすぐに出してきたアンセルに、エリュースは快諾した。アンセルの妻ランダは彼よりも年上で、背筋のぴんと伸びた上品な女性だ。時には冗談まじりに夫を叱り飛ばすこともある気の強い女性だが、この、もうすぐ頭頂部が禿げそうな夫が酔って眠ってしまった時、可愛いでしょう、と掛け布をしてやりながら微笑んでいたことを思い出す。


「あ、そうだ」


 エリュースは退室しようとした足を戻し、アンセルに一つ、質問をする。


「今日は何の日か、覚えています? 仕事とかではなくて」

「ん?」


 アンセルの眉が、ひそめられた。後頭部に片手を当てて考え始めた様子だが、この時点で、覚えていないと判断していいだろう。


 エリュースは腰に下げていた袋から小さなブローチを取り出し、彼に差し出した。アイビーの葉をした銀製のもので、ワインを手に入れるついでに行商人から買ったものだ。銀山を擁し銀細工師が多くいるノイエン公爵領で買い付けたものらしく、素人目にも美しいと感じる。


「おお、綺麗な細工物だな。ランダが見たら喜びそうな――」


 アンセルもそれを気に入ったのか、手にして見ている。そして、ふと、動きを止めた。勢いよく顔を上げた彼の目が、丸く見開かれている。


「誕生日だ。そうだ、忘れておった!」


 みるみるアンセルの元気が無くなってしまう。


「今日は会議もあるし、店の開いている時間には帰れないし、何かしてやりたいと思っていたのにな……」


 半月ほど前、彼から確かにその話を聞いた。しかし多忙な彼がそれを忘れてしまうことを、エリュースは心配していたのだ。間に合って良かった、と思う。


「それも、お土産みやげです」


 そう告げると、アンセルが驚いたように身を乗り出してきた。目を僅かながらうるませて、ブローチを机に置き、両手を差し出される。うながされるまま両手を出すと、しっかりと握り込まれた。


「エリュース、私は良い友人を持った。ありがとう」

「光栄です」


 この司祭の、こういう素直で実直なところを、エリュースは好ましく思い、尊敬もしている。こうして随分と年下の無役の学生相手に、礼を尽くせる司祭などほぼいない。


「それでは、これで失礼します」

「ちょっと待て」


 辞去しようとすると、大事そうにブローチを懐に仕舞ったアンセルに止められた。机の端にあった包みを掴んで寄越したので、両手で受け取る。掌大の何かが、数個入っているようだ。


「ランダの作った菓子だ。ちょっとした腹の足しにはなるだろう」


 それごと持っていけ、というアンセルに感謝し、エリュースは素直にそれをもらうことにした。彼の妻の作る菓子の美味うまさは知っているし、何より腹が減っている。それに、そうする方が彼の気が済むだろう。


「有難くいただきます。では、また明日」

「待っておるぞ! エリュース」


 笑顔で見送ってくれるアンセルを見ていると、ランダの言った言葉にも納得できる。

 エリュースは明日の楽しみが出来たことを喜びながら、アンセルの執務室を後にした。




 教団本部を出て、来た道を戻り、エリュースは今度は大聖堂騎士団本部の建物に入った。広い一階の広間を、顔見知り程度の従士と挨拶を交わしながら通り抜け、二階への階段を上がる。


 今でこそ、こうして止められずにすんなりと通してもらえているが、初めて来た時などは従士たちに止められて追い出されそうになった。アンセルの紹介状が無ければ、間違いなくそうなっていただろう。それは、ここが『大聖堂騎士団』であり、大きく見れば『アスプロス教団』の一部でありながらも、その教団本部とは別の組織系統を持つからだ。ゆえに、ここに主教や司祭が特別な用もなく入ってくることはなく、ましてや司祭見習いの学生などが、本来ならば気軽に見学できる場所ではない。


 二階の一部は騎士団の図書室になっており、エリュースにとってはすでに馴染み深い場所になっている。少し扉が開いていたため、そこに手をかけて声をかけると、目当ての人物からの入室を許可する低い声が聞こえた。


 室内に踏み入ると薄暗く、まずは書架に視界を遮られる。そこを内側へ回り込むと、いくつかの机や椅子が置かれた空間があるのだ。四方の壁の書架が生み出す秘密めいた雰囲気に、いつものことながらエリュースは気分が高揚するのを感じた。羊皮紙やインクの独特の匂いが気になったのも最初だけだ。


 それぞれの机に置かれたランプのあかりを辿り、この図書室の主であるダドリー・フラッグの定位置である窓の傍の机の方へ向かったエリュースは、そこにもう一人、別の人間がいることにようやく気付いた。その人物はいくつかの分厚い本が縦積みにされた机の前におり、二人は話の最中だったようだ。


「すみません、出直します。また後で、」

「いいよ、少年。僕の話はもう終わったから」


 若く張りのある声がし、エリュースはその人物を見た。人懐こそうな笑みを顔全体で表現している男は、二十代前半ほどか。上体と上腕だけを守る軽めの皮上着レザージャーキンを着ており、腰の剣帯には二本の剣柄ヒルトが見える。驚いたのは、三倍ほど年上の、しかも大聖堂騎士でもあるダドリーが使っている机に腰を預けているさまだが、その不遜ふそんなもののように思われる態度がダドリーにとがめられていないのであれば、それが許されるほどの間柄ということなのだろう。


 ダドリーの片手にうながされ、エリュースは男を気にしながらも、本に囲まれている彼に近付いた。


「オーガのことだな、どうだった、エリュース」


 早く聞きたいとばかりの様子を見せるダドリーは、オーガのみならず、知識欲が強い人物だ。特に魔術系には興味があるらしく、そのお陰で過去五回、異端審問にかけられたことがあるらしい。本の虫で、何かを知ることが寝食よりも喜びという変わり者であり、知識の神がいるならば、迷わずそれに仕えているに違いないとエリュースは思う。故に彼の知識は幅広く、個人的に師匠と仰いでいる人物だ。


 オーガとの戦いを一通り説明したエリュースは、隣から感嘆の声を聞いた。


「へぇ! 君たち、オーガを倒したのかい。すごいね」


 結局出て行かず、最後まで話を聞いていた男は、思い付いたように姿勢を正した。開けられている窓からの風で、彼の柔らかそうな、灰色がかった茶色の短い髪が揺れる。薄い茶色の瞳を持つ目が、面白そうに笑っている。


「敬意を表して、名乗っておくよ。僕はスバル・ウェスリー。スバルでいいよ、よろしくね」

「エリュース・オーティスです。よろしくお願いします」

「僕にはかしこまらなくていいよ、騎士でも従士でも何でもないし。魔物退治とかして、時々君みたいに、このお爺さんに色々と教えてあげてるんだ」


 そう言ってスバルが笑う。どうにも胡散臭うさんくさい人物だ、とエリュースは思った。


「エリュース、そのオーガは何を食べていたんだ?」

「え、食べていたもの、ですか?」


 ダドリーに質問され、エリュースは困った。オーガのねぐらを調査などしなかったし、倒したオーガの腹の中を暴くほど物好きではない。


「多分、村の羊とか牛とかだと思います。オーガがさらっていくって村人が言っていたので」

「ふーむ」


 豊かな口髭くちひげを撫でながら、ダドリーが唸っている。


「どのくらいの大きさまでが、襲う限界なのかのぅ」


 独り言のように呟くダドリーに、エリュースは答えるすべを持たずに小さくなるしかなかった。調べてこいと言われていたわけでもなく、調べるにはそれ相応の準備と日数が更にかかったはずで、被害を最小限に抑えるために自分が取った手段は結果的に良かったのだと思っている。しかし答えられないのは、少し悔しい。


「元の人間を知っている者はいなかったのだな。いたなら、オーガとなった時にどれほど巨大化したのか分かったものを」


 彼の知識欲は、被害に遭った村人のことなどは考慮しない。それがダドリーだと知っており、今後のオーガ対策に必要な情報でもあることを分かっているため、エリュースは彼に対し、同意の笑みを浮かべるに留めた。


 その時、ふいに猫の鳴き声がした。鼠退治用に猫は建物内外を自由に出入りできるのだが、この図書室への立ち入りは禁止されている。扉を閉め忘れたかとエリュースは焦ったが、その傍でスバルが屈み込み、しなやかな動きで足元に来た猫を抱き上げた。持ち上げて鼻先を突き合わせ、笑んでいる。その際、彼の左小指に、赤い宝石が埋め込まれた指輪が見えた。


「お腹いたんだねぇ、僕もお腹空いちゃった」


 じっと視線を向けられ、エリュースはその視線を辿り彼の意図に気付いた。自分の腰に下げている袋の1つを手にすると、スバルと猫の両方から、期待の眼差しを痛いほど感じる。


「さっきいただいたお菓子があるんで、食べましょっか」

「うんうん、君はとってもイイ子だ」


 満足そうに頷いたスバルは、近くの机から椅子を二つ引きずってきた。その間に、ダドリーが後ろの棚から飲み物を用意し始める。三つのコップに液体が注がれ、スバルにうながされるままエリュースも椅子に腰かけた。


 ランダが夫の小腹が空いた時用に焼いたと思われる菓子は、やや柔らかくて丸い形の焼き菓子だった。蜂蜜色で少し焦げ目が付いており、仄かに甘い匂いがする。小麦粉と何かをいろいろと混ぜて焼くのだろうなということしか、料理に関しては分からない。


「いただきまーす」


 誰よりも早くスバルが手を伸ばし、それを口に運んだ。小さく頷きながら、美味おいしそうに頬張っている。どうやらかなり口に合ったらしい。小さく千切った菓子を、猫にも分けてやっている。


美味おいしい! 君に会えて、今日の僕は幸運だよ!」


 満面の笑みで感謝を口にするスバルに、エリュースは彼を胡散臭いとは思いつつも、悪い奴ではないのかもしれないと思った。ダドリーにこんな親しい友人がいることには驚いたが、今まで出会わなかったのは、スバルがずっとアルシラに留まっている人間ではないからかもしれない。


 エリュースも礼を言ってエールを飲み、菓子を口にした。それは確かに美味うまく、ダドリーを見ると、彼の白髪混じりの口髭もよく動いている。袋ごとくれたアンセルに改めて感謝だ。


「エリュース、今回のにかわは、思ったほどの効果は得られなかったようだな」


 ダドリーから確認され、エリュースは口の中に残っていた菓子を呑み込んでから、うなずいた。


「なかなか固まってくれませんでした。量を増やすと余計に固まらないのかもしれないので、今後どう使うかですね」


 にかわの入った小瓶を机に置く。研究用に、ダドリーが欲しいと言っていたので少し残しておいたものだ。全く役に立たなかったわけではないので、改良するか、何かと組み合わせるか、考える余地はあるだろう。


「じゃあさ、乾かしちゃえば良いんじゃない」


 菓子の欠片がついた指を舐めながら、スバルがさも当然のように言った。もう一ついい? と聞くので頷くと、早速次の菓子を指先で掴んでいる。


「乾かすって? どうやって?」


 疑問をそのまま問うと、スバルが菓子を咀嚼そしゃくしながら答えてくれる。


「ほら、魔法で、ささっと乾かしちゃえば良いじゃない。そしたらあっという間に固まるよ」

「そんな魔法――」


 魔法、という言葉に、エリュースは驚き口をつぐんだ。教団の聖職者たちの多くが使ういやしの光――彼らは『奇跡』と呼んで区別している――以外の魔法のほとんどは、今は使われることがない。それは二十七年前に魔導士達が教団によって『浄化』という名目で処刑されたからだ。そのため、彼らが持っていた魔法技術の殆どが失われてしまった。今、魔導士達が使っていたような魔法のことを口にするなど、異端審問官に見つかればただでは済まない。


 どう答えたものかと思っていると、ダドリーがスバルに同意した。


「確かに、そんな魔法が使えたら解決だな。つくづく、魔導士が生きていてくれたらと思うぞ。『しょく』など起こさなければ良かったものを」

「ハハ、そうだねぇ。今更だけど、あれが無ければ、魔導士たちは生き延びられたかも」


 膝に乗せている猫の頭を撫でながら、スバルがなかば呟くように言う。その声は、どこか悲し気に感じられた。


 二十七年前、アルシラを中心にして土地が急激に痩せ、大規模な飢饉が起こったのだ。不自然に起こったその現象を、『しょく』と教団は呼んだ。魔導士が故意的に起こしたことなのだとされている。何故そんな禁呪を使ったのか、教団への反逆行為だという理由だけでは、エリュースは納得出来ていない。彼らは二十七年前までは、教団に保護される形で確かに存在し、様々な形で貢献してきたはずで、王都エランとの戦争にも参加していたはずなのだ。


「ねぇ、少年。どう思う? 大主教もやることが派手すぎるよね?」


 話を振られ、エリュースは苦笑いで返した。出会ったばかりの相手がいる場で、どこまで腹を割って話せるものか、まだ測れないでいる。大丈夫だという確信がない内は、逃げられるならそうさせてもらおう。


「それはそうと、乾かすだけの魔法って、地味すぎないですかね?」


 無理矢理に話を戻すと、スバルが目をまたたかせ、すぐにそれを細めて可笑おかしそうに笑いを零した。


「そりゃそうだね。でも大魔導士様も、きっと使ったよ」

「元々、魔法というものは日常生活に密接に関わっているものだからな」


 補足のように、ダドリーが続けた。なるほど確かに、とエリュースは納得する。日常生活を助けるために魔法が使われるようになったとしたら、乾かすだけの魔法もきっと存在しただろう。


「君は賢いね。気に入った」


 そう言うスバルの口には、また菓子が入っていく。机の上の広げられた袋を見てみれば、そこにはすでに菓子はなかった。確か、六つほど入っていたはずだ。ダドリーが、そんな彼を見て呆れたように笑っている。こいつは風体に似合わず大食漢なんだ、と教えてくれた。


 最後の菓子を丁寧に食べ切り、スバルが満足した様子でまた指を舐めている。


「そうだ、オーガってさ、目玉を揚げると美味おいしいよね」


 良いことを教えてあげる、というような勢いでスバルの口から飛び出した言葉に、エリュースは呆気あっけに取られた。これは冗談だろうなと思う半面、冗談じゃないかもしれないという感覚に陥る。彼の言い方が、本当にそう思っているように聞こえたのだ。ダドリーはと視線を向けると、彼は動じていない様子でいる。


「それなら、スバルよ。人間の目玉も美味うまいってことになるのか?」

「そっか! じゃあ、今度試してみよう」


 目を輝かせて宣言したスバルに、エリュースは口を挟めなかった。悪い奴ではないだろうと思ったことを撤回したくなる。端的に言って、やばい。やばい奴だ。


「じゃあね、賢者さま。はい、少年。ごちそうさま!」


 抱いていた猫を寄越され、エリュースは猫をかかえた。笑顔を残して風のようにスバルは去っていき、図書室に普段の静寂が戻ってくる。それでもまだスバルが居た余韻が、残っている気がする。


「あの、師匠。あの人、かなり――」

「面白い奴だろう?」


 笑いながら言うダドリーには、全く危機感が感じられない。

 かなりやばい奴じゃないんですか! と心の中で叫びながら、それでもダドリーに危害は加えない様子だし彼も信用しているようだしと、口にするのはしておく。エリュースはみずからを落ち着かせるため、コップに残ったエールをゆっくりと飲み干すほかなかった。




 サイラスの家に着いたのは、日が暮れかけた夕方になってからだった。大聖堂のある丘よりも少し下がった場所にあり、騎士団の関係者の家が集まっているところだ。近くには稽古けいこ用の演習場もある。


「待ってたよ、エル」


 出迎えてくれたタオについて入った室内は、人の多さも相まって暑く感じられるほどだ。あかりとなるランプの数が多いのは、今夜の来客が多いためだろう。広い食卓には、ナイフやスプーン、コップ、分厚く切られたパンがすでに用意されている。火のついていない暖炉の前の椅子にサイラスが座っており、隣にいるのは同じく大聖堂騎士のオルダス・バトラーだ。オルダスは初めての討伐任務の際に世話になった男で、普段は騎士団長の下で動いているらしい。騎士になったのはサイラスよりも後で、懐が深いサイラスを慕い、彼と頻繁ひんぱんに酒や稽古を共にしている仲なのだ。


 目が合ったサイラスとオルダスが、破顔してコップを掲げた。


「我らが従弟甥いとこおいと従士に! 無事で何よりだ」

「おかげさまで。ありがとうございます、おじさん」

「何の、お前のお陰で俺の従士は経験豊富な騎士になりそうだ」


 その青い目の片方を閉じて笑うサイラスに、エリュースは軽く頭を下げた。このアルシラにおいて彼の身内だということは、とても幸運なことだと思う。彼は見た目も精悍せいかんで立派だが、何より正義感が強く面倒見が良い。彼のことを知らない司祭はアルシラにはおらず、彼の後ろ盾があることで学校での立ち回りを助けられることもある。彼の担当区域は北側の商人街なのだが、そこで面倒事が起これば、教団よりも先にサイラスに知らせにくるのは当然だろう。曲がったことが嫌いな彼にかかれば、地代を不当に上げようとした教団の司祭相手でさえ正すべき相手となるからだ。故に、彼を嫌う聖職者がいることも知っている。もう少し要領良く立ち回れば良いのにと思わないでもないが、それがサイラスという男なのだ。


「エリュース! タオ共々、酒の肴になってくれ」

「面白い話かどうかはわかりませんが、喜んで」


 オルダスの陽気な笑顔に、エリュースも笑みを返した。


「料理ができるまでもう少しかかりそうだぞ。女達が張り切ってくれていてな」

「それは、期待して待ちましょう」


 確かに、奥の方から肉を焼いている香ばしい匂いがしている。ダドリーのところで菓子を食べたが、もう腹の虫が鳴っている。


「今、ルゥとジョイスさん達が料理してくれてるんだ」

「達? ああ、オルダスさんの奥さんも来ているのか」

「そう、だから、あっちはあっちで賑やかなんだ。俺は追い出されちゃってね」


 女が三人も集まれば、かしましくもなるか。エリュースはそう思い、タオを二階への階段へ誘う。丁度サイラス達から死角になる位置だ。


「今回の報酬。お前の取り分だ」


 腰に下げた袋の手前の方を、エリュースはタオに差し出した。いつも、僅かだが多めに入れてあることは内緒だ。言えばきっと、それはおかしいと怒り出すのが目に見えている。正に、あの師匠にこの弟子あり、だ。


「ありがとう」

「おう」


 素直に受け取ったタオに、エリュースは一息ついた。これで、今回の仕事は完全に終了だ。明日からはまた学校に行くことになる。


「あら、エル! 来たわね」


 奥から湯気の上がる鍋を持ってサイルーシュがやってきた。野菜と鶏肉を煮込んでいるらしいスープからは、仄かに香辛料の匂いがする。それに続いて、サイラスの妻であるジョイスが鶏肉のローストを乗せた皿を軽々と持ってくる。更に奥から、オルダスの新妻にいづまであるリリアンが、そのおっとりとした笑みを見せながら、また別の料理の皿を持っている。


「ずいぶんと豪勢だな。一足早く収穫祭が来たみたいだ」


 美味しそうな匂いに、食欲をそそられる。

 サイルーシュが嬉しそうに笑う傍で、食卓に料理を置いたジョイスに背中を強く叩かれた。


「あんた達がこうして無事に帰ってきたんだからね、これ以上ないお祝いの日だよ!」

「そうよ、ほんとに毎日、お祈りしてたんだから!」


 アスプロ様や、アエーラ様や、他にも、と力説するサイルーシュを、タオが幸せそうな笑みを浮かべて聞いている。エリュースも、自らの頬が緩んでいるのを自覚していた。普段は学校の寮にいるが、やはりここがアルシラでの『家』なのだと思う。


 サイラスに座るよううながされ、彼と共に皆で祈りを捧げた。


「さあ、聞かせてもらおうか、お前たちの冒険を。夜は長いぞ」


 楽しそうな笑みをたたえたサイラスが、話を待っている。他の者も興味津々といった様子だ。

 コップにエールを注がれ、エリュースはそれを持って、隣のタオのものに軽く当てた。


「じゃあ、まずは向こうの司祭様にお会いしたところから」


 皆が楽しめるよう、アルシラとは違う村の礼拝堂や司祭や人々の様子から、エリュースは語ることにした。サイルーシュやジョイスなどは、このアルシラから出たことのない人間だ。この手の話をすると、いつも食事の手が止まるほど熱中して聞いてくれる。バリケードを作った話まではいいとして、オーガとの詳細は男だけになってからの方がいいだろう。特にサイルーシュに聞かせると、後が厄介だ。それはおそらく、タオもサイラスも分かっている。


 エリュースはエールで喉を潤してから、物語を紐解ひもとくように話し始めた。その時、大聖堂の鐘がアルシラの空に響く音が聞こえ、その荘厳なそれは、五回、余韻をまじえながら続いた。


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