ゴールド・ブラウン

 その年の暮れに母が死んだ。海外の親戚からこっちに住めばと言われたけれど断った。エーテボリなんてどこの国にあるかもわからないところに行きたくはなかった。

 それならせめてと紹介されたのは、伯父の古くからの友人だという男の人だった。その人は私の家の近所に住んでいるらしかった。彼の養子になって一緒に暮らせばいい、そこからなら行きたい学校に通えるんだろう。伯父はそう言ってくれた。

 予定では、高校に入学する前にすでに私とその男の人は親子になっているはずだった。けれど実際は、想像以上に荷物整理やら諸々の処理に手間取り、手伝いに来てくれた伯母としばらく元の家に住むことになって、初めて彼と顔を合わせることになったのは夏休みももう中盤に入ったころだった。

 その日は本当に暑かった。午前中いっぱい部活動で学校にいた私は、その人と会う約束の午後三時半に間に合うよう早歩きで帰路を辿っていた。首筋に当たる熱線が日焼け跡になるのを気にしながら、ふと見上げた空には雲のひとつもなかった。部活でひねった右の足首が痛みを主張していた。太陽は私の頭上に居座っていた。

 進む先には、なだらかながらそこそこ長い上り坂がある。それを上りきれば続くのは下り坂だ。わざわざ上ったものをすぐ下らなければならないのだ。普段は気にしないのだけれど、こうまで暑いとそんなことにすら苛立つ。私はため息をついて俯いた。

 そのとき声が聞こえた。私の名前を呼んでいた。あの人の声だった。驚いて顔を上げると、目の前に彼がいた。びっくりしたけれど、それはすぐ嬉しさに変わった。

 今日は早めに切り上げなくちゃ、と思いながら少しだけ立ち話をした。どんな話をしたのだっけ、彼に歳を訊かれたのは覚えている。話している途中、すぐ横の車道を大型トラックが走り抜けていった。そうだ、私は彼の職業を尋ねようとしたのだ。次に会ったら教えてくれると言ったのを忘れたとは言わせない、そう思ったのだ。

 けれどそれは叶わなかった。そのことを口に出そうとした瞬間、彼は私の言葉を遮るように「じゃあ、さようなら。」と言って踵を返し、早足で坂道の向こうへ歩いていった。長いはずの坂なのに、遠ざかる彼の背中はすぐに小さくなり、そして消えた。それは本当に消えたとしか言いようがないほど一瞬のことだった。

 少しの間呆然と立ち尽くして、それからすぐ追いかけようと思った。これまでそんなことは考えたこともなかったのに、そのときはなぜだか明確にそう思った。

 私は走った。きっとこの坂を上れば彼の後ろ姿がまた見えるはずだ。そんな理由のない確信が脳を支配して、私はそれに突き動かされて走った。痛む足首も、だらだら落ちる大量の汗も、抱えた重い鞄も、ちっとも気にならなかった。彼のこと以外、なにも気にならなかった。

 辿りついた坂の頂点で、私ははたと立ち止まった。見渡す先のどこにも彼はいなかった。十数メートル先で、さっき通り過ぎていったトラックが停まっていた。なんとなく不穏に思った。小走りに近づいていくと、運転手らしき人がひどく焦った様子で道路脇にいるのが見えた。どうしたのかを訊いてもよくわからないことをあたふたと言うだけで、なんなんだ、と私はその運転手の指さす先を見やった。するとそこに倒れている人がいた。その人の服が彼と違ったことに、私は瞬発的に安堵をおぼえた。そんな場合ではないことくらいわかっていたけれど。

 なんだか太陽がまぶしくて、私は二、三度まばたいた。それからもう一度その人に目をやった。脚が変な方向に曲がっていた。よく見ると、アスファルトの色と同化して赤黒い液のようなものが辺りに落ちていた。交通事故だと理解するまで少しかかった。救急車、と叫んでいた。


 それからもう五年だ。洗濯物を取り込みながらふと始まった回想は、白い靴下を洗濯バサミから外したとき、ちょうど現在に繋がった。これで全部だ。リビングへ続くフランス窓に足を向ける。

 その倒れていた人が養父だったのだ。彼の怪我は脚だけで無事だったけれど、いまだに少し歩くには不自由している。あの事故の原因は風なんですよ、と彼は言っていた。風が吹いて、スリッパが車道まで飛んでいったから、あんなことになったんです、と。だから今日だって、午後から強風という予報を見て私は洗濯物を取り込んでいるのだ。

 あの人にはこの五年間、一度も会っていない。だからまだ職業は知らない。次に会ったときは、少しだけ怒ったふうに訊いてみようと思っている。

 室内に上がる前に、忘れずにスリッパも手に持って入る。窓を閉め、ソファまで洗濯物のかたまりを持っていこうとしたとき、が見えた。

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