オレンジ・ブルー

 そして、それが外れることはなかった。二年後、まったく同じ場所で私は彼と再会した。

 確か、友達に遊びの約束をすっぽかされて、少し落ち込みながら家に帰る途中だったはずだ。ゆるやかな下り坂——田舎だからなのかなんなのか、私の住む町には坂がやたらと多い——を、ペダルに足を置かない自転車でのろのろと滑っていて、通りかかったバス停のベンチに二年前と同じように座っている彼を見つけたのだ。驚いた。彼はもっと驚いていたように思う。けれどそれも、私が自転車にストッパーをかけて隣に腰かけ、話をはじめるまでだった。

 彼はなんだか呆けたような声音で「またですか。」とつぶやいた。「はい、また会いましたね」と応えると、そうですか、と返ってきた。

 そのときも私は自分のことばかりをまくしたてるように話したと思う。相変わらず彼は真摯な態度で聴きいってくれていた。そして、家族の話に及びかけたとき、彼はなぜか顔を曇らせた。自分のことしか考えていない小学生であった私は、それを不思議に思った。その表情が、私の家庭環境を知った人のものとよく似通っていたからだ。けれど私は彼に向かって「自分には父がいない」などとは一度も言ったことがなかったはずだ、当時の私は自分勝手にもそう考えた。今思えば、彼の家族になにかあったのだと考えるほうが自然で、このことを思い出すたびにあのころの生意気な自分が恥ずかしくなるけれど、そんなことはどうでもいいのだ。

 とにかくそのとき、私はひとまず家族の話をするのはやめて、また本の話をした。してしまったというべきだろうか。

 前に見せた反応からして、きっと彼は本を嫌いなのだろう、とも考えた。けれど他に話すことはもうなかった。そして、私がその場を離れてしまったら、きっと彼は今までのようにどこかへいなくなってしまうだろう。それがそのときはなんだか嫌だった。もっと彼と話していたかった。

 しかし、意外にも彼はその話題を嫌そうにはしなかった。それどころか、少し楽しそうに私の話を聴いてくれた。前のあの言葉は気のせいだったのだろうか、とすら思えた。

 確かこのときだっただろうか、私はちょうど読んでいた本の冒頭の一文をそのまま話題にした。タイムトラベルをする人がタイムトラベラーなら、タイムスリップをする人はタイムスリッパーだろうか——そんな文だったように覚えている。それ以外はタイトルも内容も忘れてしまった。私たちはそれからかなりの時間その話をしていた。

 昼間と夕方の境目のわからない日だった。子供たちに帰宅をうながす音楽が街上のスピーカーから音を割り合って流れはじめたとき、ようやく私は帰らなくちゃいけないと思い出した。さよならを言って、自転車にまたがって少し漕ぎ出して、ふと振り向くと彼はまだそこにいた。あれ、と思った。視界を戻す寸前、彼が軽く手を振ったような気がして、もう一度あわてて振り向いた。誰もいなかった。私は今度こそ家に向けてペダルを踏み込んだ。


 次に会ったのは中学三年のときだったから、それから三年後だ。実はこのころ、彼に会ったら絶対に訊こう、と考えていたことがあった。職業だ。中学校に入学してすぐ入り浸るようになった図書室で、あるとき彼にそっくりな著者近影を見つけたのだ。モノクロでピンボケの横顔だったけれど、それはどうしても彼のように思えた。そのことを直接確認したくて、私は彼に会える日を待ち望んでいた。

 そして訪れたそのときは、洗濯物も分を待たずに乾きそうなほど強い陽の射す午後だった。レポート課題の資料として借りた本を隣町の図書館に返すため、私は駅の改札をくぐっていた。すぐそばの壁に貼られた時刻表は、次の鈍行が二十六分後に発車することを褪せた文字で示していた。

 私はなるべく日陰のベンチを探し、数冊の本を抱えたままのろのろとプラットホームの端まで歩いていった。するとそこに彼がいた。庇が与えるわずかな影のもとに据えられた三人掛けのベンチ、その一番右に斜め下を向いて座っていた。彼は私に気づいて顔を上げ、不思議そうな表情をした。その顔がなんとなく面白くて笑うと、彼もゆっくり微笑んだ。

 私は抱えていた本をそばに置いて彼の隣に座り、意気込んで例のことを尋ねた——なんのお仕事されてるんですか。結論からすると、答えは教えてもらえなかった。けれど、私があまりにしつこかったせいか、「もしまた会うことがあれば、そのときに。」という言葉は引き出せた。絶対ですよと念を押し、話題はいつものなんでもないようなことに移った。

 がらがらの電車が数歩先の線路上で停まっては動きだしてを繰り返すうち、だんだんと私たちに傘差す陰も伸びていった。そばに座らせたままの本の表紙が斜光を反射して、かすかな風が吹くたび庇の裏に揺らぎをつくっていた。

 そういえば、なにかの拍子に「来年はもう高校生だから」というようなことを言ったとき、相槌を打つ彼の声が少しだけ振れたのだった。どうしてだかは気にならなかったし、今だって気にしているわけではないけれど、なんだかそのことだけはよく覚えている。

 結局、午後五時を回ったころ私は電車に乗った。ゆっくりと滑り出す風景の中に佇む彼へ、私は無邪気に手を振った。彼は笑ってくれたようだった。

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