グリーン・ホワイト
小さいころから、たまに会うおじさんがいた。その人はいつも八月の、道ばたの草が歪んで見えるような暑い日に、いつの間にか私の前に現れるのだ。
最初に会ったのは、確か私が小学校に入学した年の夏休みだったはずだ。私は家の近所の公園で友達を待っていた。動かなくても汗が滲み出してくるような昼下がりだった。公園の入り口には、少し離れたところの遊具で遊ぶ上級生のものだろう自転車が並んでいた。それをぼんやり眺めていたとき、突然背後から「あの」と声をかけられた。知らない人には気をつけましょう、と再三教えられていた私にぬかりはなく、その声に聞き覚えがないことをわかってすぐに座っていたベンチから飛び降り、声の主から距離をとった。
当時の私はその人の背をひどく高いように思ったが、実際はそうでもない、と三度目に会ったころくらいに気づいた。薄いグレーのポロシャツと、ほんのわずかに白髪の混じる頭髪。五十なかばくらいだったのだろうか、不思議なことに顔はまったく思い出せない。会話を交わす中での表情の雰囲気や変化は覚えているのに、顔のパーツをひとつでも思い出そうとすれば、静かに、しかし確実に記憶の蓋が閉じる。
きっ、と強気に顔を睨みつけてくる低年齢の少女を、彼はどう思ったのだろうか。とにかく彼は首をちょっとかしげて名前を尋ねてきた。私はまだつたない言葉を必死に使って、知らない人と話しちゃいけない、名前も教えちゃいけない、お母さんが言ってた、などと訴えたけれど、彼はそんなこと耳に入ってもないようで、「まさかとは思うけど」なんて言葉を前置いて私の名前を言い当てた。
その声を脳が認識した瞬間、どうして知っているのかを訊く気すら不思議と失せていった。なぜだかはわからないけれどなんとなく、この人なら知っていて当然だ、という感覚がした。だから、恐怖もおぼえなかった。そうです、とうなずくと、彼はかすかに哀しそうな顔をしたような気がした。
それからベンチに座って会話をした。内容はまったく覚えていないのだから、他愛ない話だったのだろう。十分くらいそうしていたはずだ。いきなり、おーい、と元気のいい声に名前を呼ばれて、私は彼を置き去りにして公園の入り口まで駆けていった。そのまま友達と二、三言を交わして、ふっと気がついてベンチを振り向いたときには、彼はどこにもいなくなっていた。
二度目に会ったのはそれから三年後、学校からの帰り道、自宅と学校のちょうど中間ほどの地点にある横断歩道に差し掛かったときだった。そのときの私は、夏休み中であるのにもかかわらず真っ昼間に呼び出しをかけてきた学校に対してひどく苛立っていて、わけなく大きめの石を蹴りながら歩いていた。蹴る角度を失敗した石が車道に転がっていって、「あーっ」と声をあげたあと、波が引くように虚しくなって深くため息をついた。
俯けば横断歩道の白線が目に入って、信号機の表示する色を確認しようと顔を上げたら、その視線の先に彼がいた。思わず、あれっ、と声が出た。絶対にあの人だ、と確信するまでにたいした時間はかからなかった。彼は三年前と寸分違わぬ格好をして、ぼうっとした様子で連なる白線の先に立っていた。走り寄りたくなる衝動を抑え、車など一台も通らないのにきちんと信号が変わるのを待った。
老朽化で灯りの遅い緑色を視界の端にとらえるなり、私はそれまでの苛立ちなどすっかり忘れて彼のもとに走った。そういえば、彼は信号を待っていたはずなのに、一歩もその場から進むふうには見えなかった。
お久しぶりですよね、と意気込んで話しかけると、彼はなにごとかをもごもご口の中でつぶやいたあと、「はい」だか「はあ」だかの曖昧な答えを返してきた。それから、今何歳なんですか、というようなことを訊いてきたから、「こないだ十歳になりました、小四です」などと答えて、なおもぼんやりした様子の彼をなかば引っ張るようにして近くのバス停のベンチに連れていった。
三年前に彼と出会って以来、同年代の子と話すことより親くらいの年齢の大人との会話を好む生意気な子供に成長していた私は、思い返せば恥ずかしいほど自分のことを彼に語った。それでも彼は面倒そうな気配など一瞬も見せず、真剣に私の話を聴いてくれた。最近学校がどうだとか、友達がどうだとか、クラスの誰それがどうだとか、そんな部外者が聞いてもまったく面白くないことばかり詰まった話に、飽きるそぶりもなく相槌を打って向き合ってくれた。
詳しい会話の内容に関しての記憶はもうない。けれどひとつだけ、「本を読むのが好きだ」という話をしたとき、そのときだけはそれまでと明らかに違った反応が返ってきたことを覚えている。
——本はいいものじゃないですよ。
彼は確かにそう言った。小さな声だった。きっと、私に聞かせるつもりのない言葉だっただろう。だから、聞こえていないふりで話を続けた。
しばらくそうやって話していたと記憶している。どんなきっかけだったかは忘れたけれど、時間を確認しようと近くの駄菓子屋まで走っていって、戻ってきたら彼はいなくなっていた。なんとなく予想はついていたので、驚きはしなかった。それどころか、どうせまた会えるのだろう、という当たり前のような確信さえあった。
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