スリッパ

クニシマ

灰色・桃色

 午後二時の太陽が熱線を射す坂道を、わたしは俯いて歩いていた。ただ意味もなく俯いていたわけではない。探しものだ。昨日の夜の強風で、バルコニーに置いてあったスリッパが片方なくなっていたのだ。

 太陽はただひたすらにわたしを睨めつけていた。額のほうから伝ってきた汗が何度も目尻のすぐ横を通り過ぎて、もう諦めようか、とわずかに眩む頭を抑えて顔を上げたとき、そうだ、そのときだった。唐突にそれは見つかった。あと少し坂を下ったところから左右に伸びる車道の真ん中に、ぽつんと落ちていた。なんだ、あんなところまで飛んでいっていたのか。わたしは安堵の心持ちでずんずんとスリッパまでの距離を詰めていった。

 ……。

 ?

 その次の瞬間には、わたしの視界はアスファルトの薄汚い灰色に占められていた。おかしいな、と思った。アスファルトに触れた皮膚がじんじん鳴っている。わたしはそこから動くことが、あれ? けれど、その色の上に桃色の跡が点々とついていたのを覚えている、ということは、わたしは視線を移すことまではできていたということで、あれ? では、わたしはなぜそのあとの景色をなにも思い出せないのだろうか? わたしは、あれ? その日、わたしには予定が、会う予定だったはずの人が、あれ? わたしじゃない誰かの大声のような音、それは確かに聞こえていたように思い出せるが、だからつまり、つまりそれは、あれ?

 右手の指先にパイル生地の感触を覚えている。


 また、そんな夢を見ていた。この時期になるといつもそうだ。五年も前の出来事を、脳が勝手にほじくり返しては眼前に突きつけてくるのだ。

 あのとき、ふらふらと道路に歩み出たわたしを突き飛ばし、すぐそばまで迫っていたトラックに殺されたのは、車道を挟んで向かい側を歩いていた女子高校生だった。そして、車道いっぱいに飛び散った桃色がまだ目に焼きついたままのその日の夜、彼女こそがわたしの娘となるはずだった少女だ、と教えられた。

 彼女はわたしの古い友人の姪で、生まれる前に父を、そして中学三年生のときに母を亡くしていた。スウェーデンに住む友人は、初め自分のところで彼女を引き取ろうと考えていたらしいが、行きたい高校があるからと断られ、そこで彼女の家の近くに住んでいたわたしに白羽の矢が立った。彼はわたしと彼女で養子縁組を結ぶという計画を持ちかけてきた。それは身寄りのないわたしが過去に作家業で幾ばくか得ていた富を円滑に彼女へ相続するためだった。昔から彼には世話になってきたこともあり、断る理由のないわたしはすぐに了承した。様々な手続きを経て、あの日、わたしと彼女は初めて対面する、そのはずだった。

 彼とはあの日から何日か経ったあとに一度だけ会って以来一切顔を合わせていない。

 今日がちょうど五年後のあの日だ。見やった壁の時計は正午まで数分を数えるばかりで、せめて花でも供えに行こうか、とわたしはソファから立ち上がった。

 花屋へ行く前になにか飲もう。フランス窓の外で景色を揺らめかす陽射しを見てそう思った。キッチンのほうへ身体を向けて、そこで世界が、わたしの見ている世界が、ゆっくりと反時計回りにずれていって、ああ、だから、絨毯の一枚も敷かれていないフローリングの心地よい冷たさが頰に伝わってきたのだろうか。

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