第15話 清明
しとしとと弱い雨が降っていた。
春特有の傘をさすほどでもないけれどささないと濡れてしまう、微妙な天候。音の無い静かな雨は自分が無声映画の世界に迷い込んでしまったかのような気持ちになる。
「雨かあ……。花見ついでにミーコにも会いに行こうと思ったのに」
ミーコというのは売店の看板猫のことである。
10年以上は生きている貫禄たっぷりの猫で、白地にあちこち黒いブチがあるのが特徴的な猫だった。顔の中心に大きく黒いブチが広がっている、面白い柄の猫だ。
私は売店の近くにある小さな公園に植わっている桜の様子を見に行こうと思っていたのだがあいにくの天気だ。外に出るのが億劫になってしまった。
「せっかく休みを取ったわけだし……。とりあえず外に出ますか」
私は傘を片手にえいや!と外に飛び出した。
時にはこういう普段とは違う行動も必要だろう。それに雨の日には雨の日にしか起こらない何かがきっとあるはず。
そして何よりもミーコに会う。それだけでもう楽しい一日になるのだ。
傘をさしても雨の音はしない。
雨の存在を疑って傘をずらせばしっかりと私の頭は濡れる。通り過ぎる人も私と同じようなことをして雨に濡れている。そんな些細な光景を見て思わず頬が緩んだ。
人々を通り抜けて現れたのは『たばこ屋』という色褪せた看板が掛かった売店だ。お店は少し前に閉店してしまったが店の構造だけは残されていた。だから看板もそのまま。
受付にはミーコが目を細めて座っていた。ガラス戸が開け放たれた状態で、目を細めて外の様子を眺めていたのだ。
「ミーコ!」
1ミリも動かないから初めてここを通り過ぎる人はミーコの存在に気が付かない。猫の気配を感じ取ることのできる私はすぐに気が付くことができたが一般人には至難の業だろう。
ミーコは私の騒がしい声に顔だけ此方を向けて反応する。
「よしよし」
私はミーコの顎を撫でてやる。猫は顎の下を撫でられるのを好むからだ。ごろごろと喉を鳴らす振動を感じながら猫を撫でるのは最上の幸せなんだ。
ミーコは顔を上下左右に動かしながら撫でてもらいたいところを誘導する。暫くミーコを撫でるのに夢中になっていると撫でてもらうのに飽きたのか。
ミーコが受付のガラス戸から飛び出した。
「あ!ミーコ!」
ミーコが飛び出して気が付いた。
「雨、止んでる」
私は傘を閉じるとミーコの後を追う。
その光景をみて思わず息が止まりそうになった。
息が止まるほど感動するなんてこと今まであっただろうか。あったとしても忘れてしまっていたのかもしれない。
ミーコがやって来たのはすぐ近くの公園だ。
公園の奥に咲く、大きな満開の桜の木。
春の雨に濡れて色っぽく咲いていたのだ。弱く優しい雨だったから桜は散らない。ほんのりと雫を乗せていつもと違う姿を見せる。
私は近くにできた水たまりを見てため息とともに呟いた。
「
水面に流れていく桜の花びらを『花筏』と表現する。川辺の桜にしか見ることができないと思っていたけどそんなことはなかった。
水たまりを優雅に漂う桜の花びら達。風で片側に固まって薄桃色の布を編んでいるかのようだ。
水たまりは子供達が水場の水を出したのと昨夜からの雨が重なってできたのだろう。ああ。こんな身近にこんなに綺麗……いや、美しい景色があったのか。
ミーコは水面に浮かぶ桜の花びらを前足を出してちょっかいを出す。水にぬれた前足を大袈裟に振って非難の目を私に向けた。猫は綺麗好きで水に濡れるのを嫌う。
「わたしのせいじゃないよ。ミーコが手出したからでしょ」
しっかりミーコに言い返すと、爽やかな風が私の近くを駆け抜けていくのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます