第9話 小寒
「はあ……。明日でお正月休みも終わりか……」
つい最近まで新しい年の始まりだ!なんて胸を躍らせていたけれどいざ始まってしまえばなんてことはない。
身に染みるような寒さが変わらぬ日常の始まりを憂鬱にさせる。休み明けの仕事始めこそ気の重たいことはない。もう何もしたくないというくらいに心と体が動きを止める。全てこの寒さのせいだと思いたい。
年末、手帳に書き込んだ数々の目標も遠い夢に感じてしまう。転職に引っ越しに恋愛に資格取得……。盛りだくさんすぎて気が萎えた。どうせ今年も現状維持のぬるま湯に浸ってしまうのだろうと思うと悲しくなる。
だって、毎年同じようなこと手帳に書いてるんだ、私。
そんな重苦しい空気を振り切るために私は近所の小さな神社に足を運んでいた。普段神社に行くことはないのだが明日が来るのが嫌すぎるのと、神頼みでもしようと思って。要は現実逃避である。
迂闊に外に出て、私は後悔した。
「寒っ!」
呼吸をするだけで体内の熱が奪われるのが分かるぐらいに寒い日だった。初めのうちは苦しいのだが、慣れてくると瑞々しい気持ちになる。これが澄んだ空気、冬の空気というやつだろうか。
冬が来るまで忘れていた感覚を街を歩きながら取り戻していく。
歩いて約十五分、小さな石造りの鳥居が見えてくる。三が日を過ぎた神社は人がまばらだった。
近いからと言って手袋をしてこなかった私は手をこすり合わせながら境内へ足を踏み入れる。家を出る前の自分の判断を悔いていた。
鳥居の前で軽く礼をすると、社務所に向かって小走りする。電気ストーブが見えたのでそこで温まってからお参りしようと思ったのだ。
「うわー。あったかーい」
思わず声を上げると同時に社務所の椅子に座ったその存在に気が付いた。
虎だ。虎が座っている。
……なんていうのは冗談で社務所の椅子に座っていたのは茶虎柄の猫だった。一番ストーブが当たるであろう特等席に座っている。
私は猫の貫禄に負けて思わず会釈をする。そしてその隣で手をかざしてストーブに当たった。
茶虎の猫は自分の手をペロペロと舐めると器用に自分の耳から額にかけて撫で始めた。恐らくこれが「猫が顔を洗う」という動作なのだろう。猫を飼ったこともないし遠目にしか見たことがなかったのでその表現の意味がよく分からなかったがなるほど。本物を目の当たりにしてその言葉の意味を思い知る。
「今日寒いですよね」
突然声を掛けられ私は飛び上がらんばかりに驚いた。どうやら私の独り言は猫だけではなく受付の巫女さんにまで聞こえていたらしい。
「あ……。はいっ」
「良かったら何ですけど……。七草粥、食べていかれます?今丁度1月7日の準備をしていて……。味見して欲しんです」
私は突然の申し出に目を白黒させながらも頷いた。七草粥とは無病息災を祈る風習だとおぼろげながらに思い出す。一般常識として知っていたが食べたことは無い。
そんな私の様子を見て巫女さんは優しく笑った。
「この神社では毎年1月7日に参拝客の方々に七草粥を振舞ってるんです。良かったら7日もいらしてくださいね」
「そうなんですね……。近くに住んでたのに知らなかった。ありがとうございます」
私は巫女さんが部屋の奥から出してきた御粥を受け取った。紙コップの中に少量入っており、貸してもらった使い捨てのスプーンでかき混ぜる。
恐る恐る口に入れた。
(苦い!)
思っていた通り、七草粥は苦かった。青っぽさを感じる味だったがご飯の甘さに助けられる。
「一足先に今年一年、無病息災をお祈りいたします。
商売とはいえ面と向かって健康祈願されると何だか照れくさい。素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。虎徹……ってこの猫の名前ですか?」
「はい。今年は寅年ですし。縁起がいいでしょう?」
私はそれを聞いて吹きだした。確かに。虎だ。
何だか家を出る前の憂鬱な気持ちがどこかへ吹き飛んでしまったようだ。今年は虎にも会えたし、七草粥も食べたし。私は無敵な気がする。
虎徹が顎が外れてしまうのではないかというぐらいに大きなあくびをして見せた。
今年もマイペースに行こう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます