第6話 小雪

「さぶっ」


 外へ出た瞬間、仕事へ向かう気力が一気に削がれてしまった。後から仕事に対して熱量がある方ではないことを思い出す。

 コートを羽織るほどではないが手がかじかむほどの寒さである。一度革靴を履いて玄関に立ってしまった以上、部屋の中に戻って手袋とコートを探すのは面倒だ。

 俺はえいっと思いきり外へ飛び出した。同時にポケットに手を突っ込みスマートフォンの微かな温もりから暖を取る。

 冬が来た、と俺は思った。空気がひんやりとして呼吸をするたびに冷気が体の中に入ってきて身が凍える。だけど空気が澄んでいる気がして嫌な感じはせず清々しい気持ちにしてくれるから不思議だ。冬の空気が良くても仕事へのやる気は一切湧いてこないのも不思議だ。

 どうせ電車に乗れば体は温まる。満員電車と暖房でむしろ暑いぐらいになるだろう。


「お世話になっております。ええ……。はい!……恐れ入りますが……。またよろしくお願いします」


 同じようなフレーズを繰り返して電話を切る。最近気が付いたのだが会社にいるときの俺は同じような言葉しか発していない。「お世話になっております」と「大変申し訳ございません」、「今後ともよろしくお願いします」で大体話は終わる。

 客先とのメールも定型文なので油断すると俺は同じ動作を繰り返すロボット、あるいはRPGに登場する同じ言葉しか発さないキャラクターになってしまう。


「先にお昼行ってきなよ。対応で遅くなりそうだから……」


 上司が携帯電話と固定電話、どちらも対応するというよく分からない状態のまま俺に声を掛ける。そこで俺はやっと人間に戻ることができた。


「……はいっ。すみません。先出ます」


 先輩に軽く頭を下げると慌てて席を立つ。


「暑っ」


 朝の凍えるような寒さはどこへやら。ジャケットがいらないぐらいに温かい。「小春日和」という言葉の通り、春ではないかと錯覚する気候だった。

 「小春日和」という言葉を知った風に口にしているが今朝、お天気お姉さんから学んだばかりである。


(早めに昼に出たものの……。どこも混んでんな)


 うろうろとオフィス街をあてもなく歩いているとどこからか視線を感じた。


「……猫?」


 すぐそばにある小さなビルの駐車場から俺に視線を寄越していたのはでっぷりとした貫禄のある老猫だ。全体が薄茶色の毛並みなのだが濃い茶色のトラ柄をしている。鋭い目つきと欠けた左耳は歴戦の猛者のようだ。

 横に転がりながらも上体を起こし俺のことをじいっと見ている。

 ゆっくりと体を起こすと駐車場の裏へゆっくりと歩みを進めた。と思ったら立ち止まって振り返って俺を見るのだ。まるで「ついて来い」と言わんばかりに。


(何だよ……)


 俺は別に猫が好きなわけではない。だけど妙にその猫が気になって後を追う。駐車場の裏を回って少し真っすぐ行った建物に猫は入って行った。

 

「『山猫喫茶』……?」


 開け放たれたドアから猫と入れ違いになるように店主であろうおじさんが出てきて、俺と目が合うなり人の良さそうな笑みを浮かべる。


「ランチやってますよ。よかったらどうぞ」


 こんなところに店があるなんて思いもしなかった。落ち着かない気持ちでレトロな造りのテーブルに着く。見るとあの猫は客席であろう、日当たりのいい窓際のソファ席に寝転がっていた。俺よりも良い席にちゃっかり座っている。


「お客さん、トラさんに誘われたんですね」

「え?」


 店主がナポリタンを手にそんなことを言うもんだから俺は飲んでいた水を吹きだしそうになってしまった。


「トラさんよくお客線連れてきてくれるんですよ」

「まさか客引きでもしてるんですか?猫が?」


 俺の突っ込みにも店主はまともに「そうなんですよ」と返すものだから面白い。ナポリタンも美味しかったから猫についていってラッキーだった。

 店を出ようとした時、トラは俺を横目に見ていた。まるで「なあ?俺についてきて良かったろ」とでも言っているようだった。


 またここに昼を食べに来よう。そう思ったら久しぶりに仕事も頑張れそうな気がした。


 







 


 



 




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