第5話 立冬
急にぬくもりが消え去ったかと思うと冷たい空気が流れてきて僕は身を縮こませた。
目をうっすらと開けると妻が仁王立ちしているのが分かった。手に持った布団叩きが一瞬だけ日本刀に見えるぐらいのオーラを放っている。
「いつまで寝てんのよ!今日晴れてるから布団干したいの。それとパジャマも。とっとと起きて」
僕は目を擦りながら「はい」と弱々しく答えた。朝から一刀両断されるのはごめんだ。まだ月曜日から金曜日の仕事疲れは取れていないが布団からそそくさと退散する。
疲れが慢性的にあるせいか疲れがない状態の自分の感覚を思い出すことができない。悲しいかな。これが年を取ったということなのだろう。
「お父さん怒られてる」
小学生の娘が僕を見てくすくす笑った。災難な出来事も娘が笑い事にしてくれるのならまあいいかと思う。
「あれ?しまちゃんは?」
「しまちゃんならあそこだよ」
娘が指さした先には茶色地に黒の縞模様の入った毛皮をした猫がいる。自分の名前を呼ばれてちらりと此方に向けた顔はぶちゃっとつぶれているみたいだ。どこかに顔面をぶつかったわけじゃない。エキゾチックショートヘアという種類の猫はもとからこういう顔なのである。
しまちゃんはポットの上で暖をとっていた。冬になるとよくそこに座る。しまちゃんを飼うまでまさかそんなところに猫が座るなんて思ってもいなかった。
「お前も寒いのか?」
自分の前足に長いしっぽを乗せているのが可愛らしい。しっぽを人差し指で触ると少しだけ上下に動かしてみせた。
「そろそろ炬燵出そうよ!しまちゃんも寒がってるし」
娘が声を弾ませた。僕は『炬燵』という単語を聞いて「もうそんな時期か……」と呟いた。いつの間にか一年が終わりに近づいていることに気が付く。
僕はコーヒーを入れる準備をしながら押し入れの奥深くに仕舞われた炬燵に思いを馳せた。押し入れには沢山の物が詰め込まれていたはずだ。
「……面倒くさいな……」
休日は専らタブレットで映画を観ている僕にとって何か別の行動を起こすことはとても億劫だった。だから妻に「少しは何かしたら?」なんて白い目で見られるんだろうけど。
「ずっとテレビ観てんだから炬燵ぐらい出しなさいよ。炬燵布団はあたしが干しとくから」
娘の布団を抱えながら妻が鋭い一撃を僕に食らわせる。
「しまちゃんも出して欲しいよね?ねー」
先ほどの切れ味の鋭い声色とは打って変わり、小さな子供に接するような優しい声色でしまちゃんに問いかける。いつもは鳴かないしまちゃんがいいタイミングで「みゃあ」と鳴いた。
昼間、押し入れの奥にある炬燵を取り出すのに随分難儀したせいでもう夕方になってしまった。押し入れに入っていた荷物が入らないなんて事件も発生したせいだ……。
「早く炬燵のスイッチを入れてよ!」
既に炬燵テーブルの周りには娘と妻が座っていた。地上からは見えないがこたつ布団の中には既にしまちゃんが丸く収まっている。
「それじゃあ行くよ。いざ炬燵開き!」
僕が声高々に炬燵開きの宣言をすると妻と娘は少し笑った。もっと笑ってくれると思ったのに。
カチッという音とともにじんわりと足元が熱に包まれる。
「あったかーい」
「やっぱり炬燵はいいわね」
妻と娘が満足そうに言う。炬燵を出した僕は少し誇らしげな気持ちになった。
「しまちゃんも喜んでるよ」
娘が炬燵の中を覗き込みながらそんなことを言うので僕も炬燵布団をめくった。
見るとしまちゃんは炬燵の中で横になって伸びていた。いつもより数十センチは体が長くなっているように見えるから不思議だ。
そして僕は猫を飼ったことで猫は炬燵で丸くならない、伸びるのだということを知った。しまちゃんは僕が苦労して炬燵を出してやったことなんて知らないという風にくつろいでいる。
皆僕がどれだけ苦労したかなんて知らないで笑ってる。だけどそれでもまあいいかと思えた。
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