第25話すれ違いの二人(1)

 恋をした事がない。榊原さんが俺に話してくれたようなそんな恋をした事がなかった。


 きっと、その元恋人とは胸がはち切れるような恋をしたのだろうか。それとも幸せな恋を?笑顔が止まらない、そんな恋愛を二人でしていたのか?



 浮気なんかをする男と、彼女は恋をしたというのか。



 蜜柑、と書かれたアカウントを眺めていた。スマホの画面に映るのは彼女が時間の合間を見つけて書いたのだろう小説。


 綺麗な言葉の数々に情景描写が頭に思い浮かべられる文章を書くあの人が、そんな奴に悩まされているとは。




 腹が立った。ムカついていた。




「那須川さん……すみません、お取り込み中でしたか」


 仕事場の部屋へ藍千賀が入ってきた。スマホにロックをしてスーツのポケットへと押し込む。


 普段ならこんな事はしないと心の中で言い訳をして、誤魔化すために椅子キャスター付きの椅子をくる人一回転まわした。


 仕事場とはいえ殺風景なこの部屋は、藍千賀の持ってきたカラーボックスが積み重ねられているのみで、デスクの引き出し内にはリーンのぬいぐるみがあることをこの男は知らないだろう。


「なんだ」

「いえ、もうそろそろお店へ向かう時間かと思いまして」

「そんな時間か…」


 月に一度、経営してるクラブへ稼ぎの分と運営方針のための話し合いを行うようにしていた。


 前任者があまりにも適当に仕事をしていたせいだ、本当はこんな事やりたくもないが極道の道に一歩足を踏み入れた時点でやらなければいけなかった。


 やらなければと言うよりは、やった方が明らかに俺の煩わしさが消えるから、理由はそれだけ。


 壁にかかってある時計は午後四時を指している。気づけばそんな時間か、俺は今日一日何をしていたのだろう。


 蜜柑さん…いや、もうこの際榊原さんとお呼びしよう。彼女の昨日の態度を思い出しては苦しい胸に疑問を抱いて、回ってくる書類を片付けて、そして彼女の小説を読んでいただけの一日だった気がする。


 サボっていたな、素直に言うなら。


 ふぅと息を吐いて首を横に振る。仕方ないから向かおうと椅子から立ち上がり、藍千賀の真ぇで歩いた。


 相変わらず仏頂面のこの男は感情の乗せていない目で俺を見上げる。自分の言えたことではないが、もう少し愛想良くしたらどうだ。


 きっとそう伝えれば、こいつは俺の大嫌いなあのニヤリとした笑いを浮かべで見上げるだろう。一言で言うならサイコパスじみたあの笑顔は、泣く子も黙るヤクザの笑顔なのだ。


「車を出してます、他に誰か連れますか」

「いらない」

「承知いたしました」


 扉を開けて、事務所内を歩く。若い奴等が一斉に立ち上がって俺に向かって頭を下げた。わざわざ仕事を中断してまでそんな事をしなくても良いと言うのに、ヤクザという仕事は伝統やらなんやらを重んじるのが好きなようだ。


「那須川さん、お気をつけて」

「お気をつけて」


 血気盛んなやつは回さないようにはしつつも、挨拶は大きくお辞儀はしっかりと、やけに礼儀のなった組員の多いこの事務所は、藍千賀の教育の賜物だった。たった一言のその挨拶だけで煩いのだ、もうどうしようもない。


 藍千賀を後ろに置きながら頭を掻いた。この重々しいルーティンのような行事はどうにかならないものか、生真面目なこいつにそう言ったっておかしいか。


 趣味も何もなさそうなこの男の趣味は、若い奴らの教育なのかもしれない。


「藍千賀、寄るところがある」

「………」


 事務所の前に止まっている車に乗り込んで、開口一番そう言った。運転席に座った藍千賀の無言の視線がバックミラー越しに映り込む。


 何かを言いたそうにしてるその顔は唇が歪んでいた。眉を顰めて睨んでいるのかいないのか、俺に対してそういう顔をする時は大概が何か嗜めようとしているのだと五年もそばにおけば分かっていた。


「……言いたい事があるならいえ」

「…お言葉ですが、そうまでしてあの人に入れ込む理由が分かりません」


 藍千賀の言葉に眉をピクリと動かした。


「どこで知り合ったのかは存じませんが、会社員の彼女と那須川さんでは、身分が随分と違います。一般人には近づかない、それが那須川さんのポリシーのはず」


 随分と口が回るんだなと言ってやりたかった。


 嫌味の一つや二ついつもの俺なら言えただろう。動き出した車の中、ため息を吐きながら窓の外を見る。


 向かう場所は分かっているらしい。文句やら何やらをこぼす割には、俺の言葉に忠実に動くのが藍千賀の良いところだ、そこはもちろん評価している。



 ただ、土足で俺の心に踏み入るなと、一度伝えたはずだ。



「もしも彼女の身に何かがあったとして、那須川さんの手を煩わせる意味はありませんよね?何故ならあなたは…っ」


 藍千賀が、気に食わないことを言う前に席を足で蹴り上げた。


 ガンっと大きい音が鳴る。赤信号でよかったな。衝撃でアクセルを大きく踏み込もうものならその顔をハンドルに打ち付けてやったのに。


 藍千賀は何度か深呼吸をした後、ゆっくりと息を吐いた。藍千賀が何を言おうとしたのかは分かってる。分かった上でこの世界に足を踏み入れてヤクザとして生きてやろうと思ったのだ。


 いや、そもそも。この道以外に生きていけない人間の俺が、彼女を引っ張るつもりなんてさらさら無いし迷惑をかける予定も無い。


 何も興味を持たずに生きてきた。ただ、生きてるだけの生き物だった俺の、種類は違えど愛を教えてくれたあの人を、ただ見守りたいと思うぐらい良いだろう。


「……よく回る口だな藍千賀、今後、交渉も営業もお前一人に任せるか?」

「出来すぎた真似をしました、申し訳ありません」


 尊敬とか敬慕とか恋慕とか憧憬とか。そんなもの引っくるめた全部であの人を応援したいこの心が、きっとこの男には分からないのだろう。

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