第24話あなたに近づく第一歩
元彼と会った事は嘘ではない。少し困っていたことも嘘ではない。そんな時に、藍千賀さんが助けてくれたことも、嘘ではない。
ぽつりぽつりと、単語で話してしまう自分の悪い癖がどうしようもない。物書きなんて、こんな話し方でよく言えるものだ。話したい事があっても、昔を思い出して言葉に詰まる。止まっては言葉を出して、そしてまた止まる私の遅くてつたないこんな言葉を。
ナスさんは、黙って聞いてくれた。
夜の遅い時間なのに、彼は文句ひとつ寄越さず話を聞いてくれたのだ。できた人だと思った。優しい人だなと思った。あの見た目の怖さに反して、慈しみを持ってる人だと。
あの絵柄だもの、そりゃそうだ。誰に言うでもなく自分に言い聞かせて頷く。ナスさんは…いや、那須川さんは、たまに一言言葉を投げるだけで、あとはただ、私の元彼の愚痴を聞きながらずっとずっと相槌を打ってくれていた。
「二股されてたんです」
「…えぇ」
「大学生活の全部をあの人と過ごしたのに、ずっと浮気されてたみたいで」
「酷いですね」
誰かに話したことはなかった。だってこんな重い話、誰が聞いてくれるんだ。最近はSNSとか動画サイトで、そんな自分の心境を語る人も多いらしいけれど、私には無理だ。そんな風に面白おかしく伝えられる自信はない。
話すのが下手だ。自分の気持ちに声を乗せるのが、苦手だ。だから言葉を書くことでしか、自分の気持ちを表現する術を知らない。
私は、自分が好きではないのだ。そんな自分を誇張するための文字書きなんて、きっと彼に好きだと言われる権利さえない。それでも、那須川さんは優しく私の話を聞いてくれた。たまに電話の向こうから聞こえる車の音に、壁の軋むぎしりと鳴る音以外では、那須川さんの声だけが聞こえる機械に、これほどまで安心してしまうとは。
「…今更、会いたいと言われても、どうしたらいいのかわからない…」
ずっと、好きだった。恋愛小説を書いていても、それは想像のお話だ。実際のところ、彼以外に好きになった人なんて、いない。大学生の時に出会って、嫌なことも楽しいことも悲しいことも苦しいことも全部共有して生きてきたと思った。
社会人になっても付き合ったままだったから、きっとこのまま結婚するだろうと思った矢先の別れだ。好きな人ができた。だけどそれは、ずっとずっと前から好きだったのだ、なんて。
騙された。裏切られた。恋によって傷つけられても結局の所、何か思いを吐き捨てようとしたって口下手な私は、「最低」の一言さえ彼に投げることはせずに、別れる事を選んだ。
「……どうして、会いにきたんですか、その人は」
「……さぁ、別れた、とかですかね」
「だとしたら、最低だ」
電話の向こうから聞こえる、那須川さんの声に顔をあげた。
「貴女が、悩むことは一切無い」
那須川さんは尚も続ける。低い声に力を込めて、私を慰めるようにそれでも、その声音の奥に感じとる怒りは抑えられてなくて。
私のために怒ってくれているのかと思った。それだけで、この人の優しさなんて全部全部わかってしまう。
「その男の事を思い出す事さえ、しなくていい。忘れてください、そんな男のために、泣きそうな声を出さないでくれ」
ソファーに深く座っていた体が一瞬揺れた。奥深く、柔らかいそこに収めた腰をゆっくりと動かして、私はスマホを握りしめた。
怒ってくれている。何も言えない私のために、那須川さんはかわりに言葉を代弁してくれていた。優しい人だと思った。知り合って日は浅くないとはいえ、ここまで深い付き合いになるとは思っていなかった。
親切な人だとは思っていた。礼儀正しい人だとも。私の胸を暖かくする程、素敵な性格を持っているなんて、そこまでは理解できていなかった。
オタク仲間だとしても、共通の理解者だとしても。解釈が一致してるからといって、心の奥底までわかるわけではないはずだ。それでも、きっと那須川さんは分かってしまうのだろうか。帰り道に偶然会うほどだ。私と彼は、きっと何かが繋がってるのかもしれない。
スマホを握っていた右手に力を込めた。あぁ、足の先から体に向けて体温が戻ってくる。寒かった指先もやっと消え去った。
「那須川さん」
「……はい」
もう、ここからは、ナスと蜜柑ではなくて、那須川と榊原としての付き合いを、したいと思った。
そんな邪な想いを抱くのはいけないだろうか。好きな絵師がたまたま男の人だっただけだ。たとえその人が、ヤクザだろうとなかろうと。現実で今、私の心を慰めてくれる人は、そのヤクザに見える彼なのだ。
ハンドルネームでの付き合いは、なんとなくもう終わりにしたかった。
「ありがとうございます」
私のために怒ってくれて。私の事を慰めてくれて。
誰に見せるわけでもないのに、頭をゆっくりと下げた。目の前に彼がいたらきっと、焦りながらやめてくれというだろう。そんな様子を思い浮かべながら、小さく笑う。
那須川さんは今、どんな表情を浮かべているのだろうか。もしも、私の考えが正解なら。
彼はきっと慈しむような、端正な顔つきに似合う小さな笑みを浮かべているのだと思う。
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