第21話モモニャンに藍を捧げる男(3)


 興味があるわけではない。決して、どんな人間だろうと例外なく三次元の女は好きではない。それ以前に、自分の上司でもある那須川さんがどんな形ではあれ慕って、囲んでいる女性なのだ。


 興味を持つことイコール死。誰かの女に手を出しただけで殺されるかもしれないこの世界で、そんな事はしないとわかっていても暗黙のルールを破る事はしない。


 ただ、あまりにもあそこで見ぬふりをするほど酷い男ではない。俺は那須川さんに、嫌われたくないのだ。例え誰も見ていなくてもお天道様が見ているぞと、幼い頃に祖母に言われたのを思い出しては、結局突き動かされるこの身体にため息だって吐きそうだ。


「すみません…藍千賀さん…でしたっけ?」

「えぇ、今日は那須川さんはいらっしゃいませんが、どうやら困ってるようでしたので」

「あぁ……ありがとうございます、お見苦しいところをお見せしてしまって」


 彼女は震えていた。背の高い男に肩まで掴まれたら震えもするか。どんな関係なのか勘繰りたくもないし、知る必要もないので無視をする。このまま本当は帰ろうと思っていたところだったが、彼女の最寄りまで送る仕事が増えてしまった。おかげさまで反対方向なもので、途中でUターンだ。


 もう誰も乗せる予定のなかった車から急にプライベートな空気が消え失せて、沈黙と戸惑いの匂いが充満した。那須川さんが黙りこくって何かを考えてる時のそれに近い、あの空気は些か不快なのだ。探ればいいのか探ってはいけないのか、黙ったほうがいいのか何か話しかけたほうがいいのか。


 クソほど面倒だった。聞いてほしいなら聞いてくれと言うだろう。人間なのだから発してくれればいいのに、物を言える人間ほど察してくれと宣う。はぁ、心の中でため息を吐き捨てて、運転しながらもう片方の手で音量のつまみをあげた。ラジオでも聞くかと、流れるだろうニュースに耳を澄まそうとした時。


 明日の天気は、週末の天気は、西区で交通事故が、そんな普段と変わらないものが流れるだろうと思っていたのに、この耳に届いたのはそんな無機質なアナウンスではない。


 明るく、そして力強く、それなのに憂いを帯びて胸に秘めた感情を全て奪い取ってしまうほどの、この世界に蔓延る女性の中できっと一番素敵な女性、モモニャンのキャラクターソングの爆音が車内を包み込んだ。




『モモニャンの〜!だいちゅきビーム!今日もちゃんと受け取ってよね!』





 一瞬で静まる空気。なんとも言えないこの空間。咄嗟に音量を下げても時既に遅し、バックミラーに見える榊原さんは、口元を手で抑えながら肩を震わせていた。よく笑う人だ。那須川さんと話す時もそうだ、運転席から見るたびに、彼女は何かしら笑っている。さっきまでそこで震えていたというのに、今はもう逆の意味で震えていて、コロコロと感情が変わる所は、ある意味で那須川さんに似ていると思った。


「………っふ……っ……」

「………………何か言いたい事があるならどうぞ」


 嘘なんかつけるわけもない。いくら好きとは言えラジオで流れるほどモモニャンは大衆受けしてないのだ。そんなのわかってる、もっと人気が出てほしいと思ったってこの時代、この世界は、二次元のアイドルを推してはくれない。


 自分でCDをいれるかしないと流れない曲なのは明白だった。つまり、俺が好き好んで聞いていたとわかるだろう、賢い人ならそんなの一瞬でわかる。いや、猿でもわかる。ハンドルを握る手は震えていた。今まで誰にもバレたことなどないのに、クソ、あの時にこの道を通らなければ。それか、那須川さんがまだ車の中にいたなら。


 考える事は多い。そもそも論、那須川さんとこの人の関係性だって分からないのに。一般人であろうことだけはわかっていても、どんな関係でどんな繋がりがあってこの二人は仲良く過ごしているのか、まずは是非とも教えてほしい物だ。


 俺の心のうちの吐露など気にもせず、榊原さんは笑い続けた。あぁ、いいリフレッシュになっただろう、さぞ楽しかろう。俺は長年燻らせていた二次元オタクとしての自分を曝け出してしまったことに、自分自身に失念している所だというのに。


 後部座席に座りながら、榊原さんは流した涙を指で掬った。バックミラーで見える半分の体は、もうあの恐怖の震えは見当たらない。それならいいだろう、なぜか那須川さんが大切にしている女性を守れたのなら、まぁよしとしよう。そう思うことしかできないだろう。


 あぁ終わった。心の中では今までの人生に合掌だってしていたのに。まさか彼女の声で、完全復活するとは、この時は思っても見なかった。




「それ、モモニャンですか?乙女シリーズ、好きなんですね」





 赤信号。多くの人が渡っていくのを眺めながら、その言葉を聞いた瞬間思わず息を呑んだ。

 後ろを振り向く。彼女は笑って、モモニャンの名前と、彼女が所属しているアイドルグループ、さらにはカテゴリ名まで口にした。

 まさか、モモニャンを知っている人がいるなんて。しかもそれが、女性とは。


「前!前!青です青!」


 後ろから聞こえるクラクションの音には無視をした。通り過ぎていく隣の車も無視をした。


 今、目の前に見えているのは。この榊原さんという、同志だけだったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る