第20話モモニャンに藍を捧げる男(2)



 那須川さんを家まで送り届けた帰り道、車を走らせた運転席から見たことのある姿を目に収めた。今日はお早い出勤にお早い退勤だった那須川さんの、タイミングの悪さを嘆く。貴方が何故か慕っている榊原さんが、その道路にいますよと伝えてやりたかった。


 退勤ラッシュの車が行き交う道路は渋滞だ。一向に進む気配のない前の車に苛つきで舌打ちをこぼして、窓越しにその存在を見つめた。


 仕事帰りか。ビルの前に立ち塞がりながら、何やら男と話をしている。繋がっている手は振り解くことができないのか、それともあえて握られているのか、彼女の顔は暗くてよく見えはしないが良い雰囲気には見えないな。普段からキャバ嬢の愛嬌なんかを見てるからか、恋人同士とは到底思えないその絶対零度にも近いオーラは、見ていて不快だった。


 彼女はなんとかその手を振り解いた。強く握られたその左手を優しくさすって、隣に立つ男を睨むその姿に、なんとも違和感を抱いてしまって。あぁ、あんな顔もするのかと思ったのだ。那須川さんの前にいる時は基本的ににこやかに笑って、たまにお腹を抱えるぐらい笑ってることもあったが、まぁ通常状態が穏やかな人だったのだ。また数回しかあった事のない女性に思うことではないが、印象は悪くない、ただ、強い印象を与えるわけでもないそんな人だと。


 そんな人でも、怒る時は怒るらしい。隣に立っていた男は焦ったように彼女の肩を掴んだ。あぁ、退勤ラッシュのこんな時間に目立ったことをするのはよろしくない。彼女の印象だって最悪になるだろう。成る程、あの男は印象付けさせる事が天才なタイプの男か。


 それはもう、最悪な印象をつけることの。


「榊原さん、お迎えに来ました」


 助け舟を出したいわけではなかった。ただ、このまま何かあったとして、それがなんだかんだで那須川さんに伝わったら、彼の行動がおかしくなるのは百も承知なのだ。この人は那須川さんに色んな顔を見せる天才だから。彼女の前では穏やかになるものの、彼女のことに関してはやけに盲目になる那須川さんに困っていると言ってしまえば困っているけれど、穏やかでいてくれるなら穏やかでいてほしいから。


 あぁそうだ、思い出した。以前彼に首にされそうになったことを。素直に言葉にしただけなのに、五年も側近を続けた自分を切ろうとするぐらい彼女への崇拝の心が、俺にとったら恐ろしいことこの上ない。頭が痛いな、あの時のことを思い出して胸がムカムカとしてきた。榊原さんに声をかけたのは失敗だったか。それでも仕方ない、見て見ぬ振りなどできないだろう。極道でも、善意の心ぐらいはある。窓を開けて、彼女の耳に届くように声を掛けた。


 俺の顔を見つけた瞬間、彼女は少しだけ目を見開いて、そしてその手を振り払うようにこの車目掛けて走ってきた。


 困ってる顔、少しだけ泣きそうな顔。いつも笑っていた時のあの顔とはかけ離れたそれは、どうしようもなく人間らしくて、思わず気持ち悪さが込み上げてしまった。


 三次元の人間はこれだから嫌なのだ。コロコロと表情を変えやがって、入ってくる情報量の多さに胃もたれだって起こしそうになるんだこっちは。それを、一般人の彼女たちはわかっていない。


 ガードレールをとびこえた彼女のために後部座席の鍵を開けた。滑り込むように入ってきた彼女に目配せもせず、アクセルを踏む。ちょうど動き始めた前の車に合わせて動いたこの車を、その男はじっと、見つめていた。

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