第14話ナスは想う(2)
「すみません、送っていただいて…」
「気にしないでください、本当に」
ナスさんに連れて行ってもらったステーキ屋さんは、美味しすぎて死ぬかと思った。ほっぺが落ちそうになる、とはまさしくこのことか。本当に落ちてくるんじゃないかと両方の頬を触った自分の手を見て、彼に笑われた事を思い出す。
高そうなお店だったのに、彼は一銭も払わせてはくれなくて。なんならお店を出るときに、もう支払いは済ませていると言われてしまった。
いくらだったのかも教えない所、やはりスマートだ。
帰りは地下鉄で帰ろうとしていたのに、ビルの前に止まっていた以前と同じ格式高そうに見える黒の車がそこにあって。
どうぞと言われたら、断るわけにもいかなかった。背の高い人に、上から手を出されたら、か弱き人間は受け取るしかないだろう。
「以前の最寄り駅で?」
「はい、お願いします」
「藍千賀、安全運転だ、いいな」
「はい、那須川さん」
勝手にヤクザだと思っているけど、この運転手の方とナスさんはどんな関係なのだろうか。ありがとうございますと頭を下げていいのか、なんなのか。彼はいつも真顔だから、感情を伺う事はできやしない。とりあえず小さく頭を下げておいた。彼はそれを受け取ってくれたらしい。
私なら絶対に嫌だけどな。仕事の上司のためではなくて、上司の知り合いのために時間外労働で車の運転。気が狂いそうだ。
ナスさんは、私に向ける顔とは違う険しい顔を藍千賀さんに向けた。バックミラー越しに見えたのは、彼の目線で。ナスさんを見たのか、隣にいる私を見たのか、それはわからない。
「那須川さん、今日はご馳走になってごめんなさい」
「いえ、いいんです。俺がやりたかっただけなので」
やっと、彼の緊張が抜けてきたらしい。いつもは背筋を伸ばしていて、遠かったはずの顔が近い気がしたから。顔の表情も柔らかい。いつもの目尻の下がった困った顔とも違う。
なんとなく、少しずつ彼と仲良くなれている感じがして、嬉しかった。膝の上に置いたままのカバンを抱え直して、スマホを見る。時間は23時半で、以前のオフ会よりは解散の時間が遅くなったのは、思いの外同人誌についての打ち合わせが長引いたから。
「…夜も遅いですね。大丈夫でしたか」
「大丈夫ですよ、一人暮らしですし」
ついでに言えば明日も休みだから、関係ない。ナスさんは安心したように笑顔をうかべて、よかったと一言言った。
そこまで優しくされる筋合いは全くないのだけど。彼の笑みが柔らかいので、ありがたくその優しさを受け取る事にした。
先程のコックさんの言葉が思い出される。
この人はモテるんですよ。そりゃそうだ、イケメンで、お金もあってスマートで。
こんな人、女性が黙っていないだろう。ヤクザっぽい所は否めないけれど、確かにアピールをしたくもなるかもしれない。この人がこんな普通の女に靡くとは到底思えないので、私はオタク仲間として接するしかないのだけど。
「心配する人もいないから」
恋人もいないし、自由の身だ。何時に何をしようと咎められることもない。私のその言葉に、ナスさんは一瞬動きを止めて、なんとも言えない表情を、その顔に浮かべた。
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